私は浦粕から逃げだした。その土地の生活にも飽きたが、それ以上に、こんな田舎にいてはだめだ、ということを悟ったからであった。私は町の隅ずみを歩いた。沖の百万坪、白い煙霧に包まれている石灰工場、芳爺さんの住居に近い三本松、消防小屋、堀南から中堀橋を渡り、堀に沿った堤の左側に、養魚場の広い池を眺めながら、東の海水浴場へもいってみた。こうして、土地や風景には別れを告げたけれども、東京へ去ることは誰にも云わなかった。高品さん夫妻にさえ話さず、売り残って半ば不用の本の詰った四つの本箱や、机や、やぶれ蒲団や穴だらけの蚊屋。よごれたまま押入へ突込んである下衣や足袋類。その他がらくた一切をそのままにして、――というのは、物を片づけるということが私はなにより嫌いで、それも自分でやるのが嫌いなだけではなく、人が片づけ物をしているのさえ見ていられないたちだったからだが、――書きあげた幾篇かの原稿と、材料ノートと、スケッチ・ブック五冊とペンを持っただけで、蒸気にも乗らず、歩いて町から脱出した。いちどもうしろを見なかった。私にとって、浦粕町はもう過去のものであった。私の眼も心も、前方だけに向っていた。
「東京へ出たら」と私は力んだ気持で呟いた、「おれはやるぞ」
「東京へ出て」と私は不安を抑えきれずに呟いた、「はたしてやってゆけるだろうか、生きてゆく、ということだけでもいいのだが」
次には「なにをくそ」と呟いていた。気負い立ったり、自分の才能のなさや、小説を書いてゆくことの困難さを思って、息苦しいような感じにおそわれたりしながら、私は埃立った陰気な道を歩き続けた。
それから八年ほどのちに、私は浦粕町へいってみた。いま小西六にいる秋山青磁と、戦後に死んだ森谷文吉を同伴して。だが、懐旧の情に唆られて、などという風流な気持ではなく、秋山と森谷が写真をやっていたので、撮影案内をするのが目的であった。――私たちは高橋から東湾汽船に乗ったのであるが、乗ろうとしたとたんに「先生よう」と声をかけられ、見ると、そこに留さんがいるのでどきっとした。
私はそのとき殴られるかと思った。――というのは、それより半年ほどまえに、私は「留さんとその女」という題で、二十枚ほどの短篇を発表していた。載せたのはアサヒグラフであって、そのじぶん編集を担当していた宮田新八郎の好意によるものだが、浦粕のノートから幾つか短篇小説にした中でも、留さんの話がもっとも事実に近かったからである。――私は自分をなだめた。留さんが小説などを読む可能性はない、少なくともアサヒグラフを読むような機会はないだろう、おちつけ、と自分をなだめた。にもかかわらず、留さんは「あれを読んだだ」と云った。
「おらんこと小説に書いたって」どんな闇夜でも黒く見えるという、石炭のような黒い顔に、てれくさそうな羞み笑いをうかべながら留さんは云った、「――高品さんのおかみさんがおらに呉れたで、読んだだよ」
「あれは」と私はいそいで云った、「あれは、つまり小説なんでね」
「おら大事に取ってあんよ」と留さんは私に構わず続けた、「一生大事にしておくだ」そしてさらに云った、「おら家宝にすんだよ」
そしてさも恥ずかしそうに、小さくなって事務所のほうへ去った。
留さんは少しも変っていなかった。秋山と森谷にあらましの事情を語り、乗った通船が竪川をはしりだしてから、私は沿岸の風景を眺めながら思った。留さんは年も取っていないようだし、人の好さもあのころのままらしい。おそらくはいまでも「頭があったけえ」などと云われ、女たちのいいかもになっているのであろう。そういう人間のことを小説に書いて、生活の資にするとは恥ずべき行為だ。留さんは恥ずかしそうな顔をしたが、自分こそ恥じなければならない筈だ、などと思い、浦粕へゆくのがにわかに重荷のように感じられた。
――誰と出会うかわからないぞ。
船宿「千本」の長少年、倉なあこ、芳爺さんはどうだろう。「SASE BAKA」とはっきり書いてしまったおすずは。ブルさんは。ごったくやの令嬢たち、幸山船長は。その他の多くの人たちと出会った場合、いったいどんなことになるだろうか。
できるだけ会わないようにしよう。
私はそう思った。これらの人たちをみんな小説に書いたわけではないが、留さんを書いたことは(留さんの口ぶりから察すると)相当ひろく伝わっていると考えなければならないし、ひがみっぽい性質の者は、どれを読んでも自分のことだと妄信するかもしれない。
「できるだけ人に会わないことだ」と私は船窓から外を眺めながら呟いた、「なるべく危険なところには近よらないようにしよう」
船が浦粕へ着くと、私はいそいで蒸気河岸を通りぬけた。
船宿「千本」の店先では、見知らぬ若者が縄船の餌付けをしていた、長だろうか、年ごろは似ていたが、私は眼の隅で見たまま、声をかけようとはしなかった。町のようすは以前のままであった。ごったくやの「澄川」も「栄家」も同じ看板を掲げていたし、三本松も元のように枝を張っていた。しきりにカメラを捻くっている二人をせきたてながら、私は堀の両岸を歩き、沖の百万坪をまわり、東の海水浴場へゆき、それから堀南の「天鉄」へ寄っててんぷらでめしを喰べた。このあいだに知っている者とは誰も会わなかった。いいたねがはいったからと、てんぷらを無料で届けに来てくれた娘のお花さんもいなかった。昔は平屋だったのに、そのときは二階建てになっていたし、ごったくやの女のような女中が、なにを訊いても「知んね」とか「あたし知りませんのよ」とか云うばかりで、そんな古いことより人間はいまをたのしむことが肝心だ、誰かお酌を呼ぼうか、それともあたしのお相手でいいか、などとひっきりなしに饒舌りながら、すすめもしないビールを勝手にがぶがぶ飲んだ。
「変ったね」と秋山が云った、「まるでごったくやじゃないか」