十月下旬の或る日、私は二人の同伴者とともに浦粕町へいってみた。
江東区の高橋から出ていた通船、葛西、東湾の両汽船とも、ずっと以前に運行をやめ、もっぱらバスの乗り継ぎに切り替えられた、と聞いていたから、タクシーに掛け合ってみると「ゆきましょう」と云うので、安心してでかけた。同伴者の一人は私の若い友人で、某社の編集部員であり、この夏ごろ探訪記事の取材に浦粕へいったことがある。社の車でいったのだそうで、タクシーの運転手がまごついても、彼が道順は知っているだろうと安心していた。
じつを云うと私は少なからずためらったのである。浦粕のノートを連載し始めてから一年、登場する人たちの中にはまだ健在な者も多いだろう。「おわりに」の章でも留さんと出会ってへどもどしたことを記したが、ことによると「青べか物語」を読んで、他人のことなのに自分のことを書かれたと誤解し、手ぐすね引いて待ち構えている、といったような人物もいるかもしれない。そんなごたごたはごめん蒙りたいし、また、浦粕という土地そのものが、私の記憶にあるなつかしいイメージをめちゃめちゃにしてしまうかもしれない、という心配もあった。しかし、ノートを纏めて発表したのを機会に、ぜひもういちど青べかの世界を見にゆきたい、という誘惑のほうが強く、ふと思い立った勢いに乗じてでかけたのであった。
車が走っている時間を利用して、少しばかり「青べか物語」について注を加えたいと思う。第一回の末尾に記したが、この一連の物語の中には、すでに幾篇か小説化して発表したものがあるし、これから小説化する予定のものもあり、その旨を編集部、ならびに読者へ断わっておいたのであるが、――というのは、それらを除いてはこの一篇が不完全なものとなるし、小説として発表したものと、ここに集めたものとは根本的に違っているからである。もう一つ、この物語は戦前にいちど三田文学に載せる筈であった。和木清三郎氏(現「新文明」編集長)が編集していたころで、そのとき私はノートを整理し、「青べか物語」という題名をきめて連載の用意をした。結局は或る人事関係のため、私のほうから辞退したが、そういうことがなかったら、このノートはおそらく散逸してしまったであろうと思うと、おくればせながらここで和木清三郎氏に礼を申上げたいのである。
タクシーは東京を走りぬけ、本所へはいり、錦糸町へと向っていた。こっちへ来たのは戦後はじめてのことで、荒地や沼や田ばかりだったのが、ぜんぜん工場や家でふさがっているのに驚かされた。道も舗装されたのが縦横に通じてい、運転手君とわが友人で休みなしに論争が取り交わされた。
「そっちへゆくと千葉へいっちまうよ」とわが友人が注意する、「こっちの道だよ、こっちの道だと思うな、慥かにこっちだったと思うがな」それから自信をなくしたように云う、「ちょっと訊いてみて下さい」
わが若き友人はつねづね土地勘がいいと自任しているが、あまりに土地勘がいいためだろう、いっしょに車でどこかへゆくとき、しばしばとんでもない方向へと走らせ、間違ったことがわかっても「なに平気です、あれをぐるっと廻ればちゃんとゆけますよ」などとすましている。それはそうでしょう、道のあるところなら廻り廻ってゆけばたいてい目的地へ着くことができる。私はそんなとき心ひそかに、日本の国土の狭いことを感謝するのだが、――その日の運転手君もやがて、論争する煩に耐えないことを知り、わが友人の指導するままに左へ曲り、右に曲り、車からおりて人に訊いたうえ、あと戻りをし、というぐあいに温和しく云うことを聞いた。
こうして、タクシーはともかくも浦粕町に着いた。根戸川に架かった大きな鉄橋を渡るとき、私は車を停めてもらって、川の上流と下流を眺めやった。どっちを見てもすっかりようすが変っていた。川沿いにあった草原や荒地には、すっかり家が建ち並び、川の中央にある小さな妙見島にも工場の建物が犇いている。――蒸気河岸にはコンクリートの高い堤防がめぐらされ、地盛りをしたために、船宿や人家は道から一メートル以上も低くなってしまった。
「ああ、千本の店がある」と私は云った、「あれが長のいた船宿の千本だよ」
同伴した二人は「青べか物語」を読んでいたので、船宿「千本」と、こまっちゃくれた少年の長を知ってい、私の感動をすなおに受けいれてくれるようであった。まず「千本」を訪ねてみよう、私は車を蒸気河岸へ廻らせながら、どうか長がいてくれるようにと、それがそらだのみだということを覚悟しながら、心の中で熱心に祈った。
「待てよ」と私は思い直して云った、「先にぼくのいた家を見ておこう、車をそっちへやってくれないか」
車を蒸気河岸とは反対のほうへ、ゆっくりと走らせた。ごったくやの「喜世川」、次に「澄川」などの家がみつかったが、小料理の看板は出ていなかった。貧しげな小さい家がごたごたと並び、子供たちの遊んでいる土堤にはあまり草もなかった。そして、私があしかけ三年余り住んでいた、荒地の中の一軒家がみつかった。
「これかな」と私は車を停めさせて、左右を見比べた、「いや、いやこれだな、こっちが空地で向うが田圃だったが、――そうだ、この家だ」
家はもよう変えがしてあった。西側にあった入口が南側になり、私が机を据えていた窓は塞がれ、ぜんたいに黒くタールが塗ってある。「土堤の秋」の章で、若者が泣いていた斜面は低くなり、生い茂っていた草もない。左右にも家がぎっしり建って、一軒家だった頃の感じはどこにも残っていなかった。
「戻ろう」と私は云った、「車を廻して下さい」
私たちは蒸気河岸へいった。車を「千本」の前で停めると、店の前にいた船頭らしい若者たちが、ばらばら元気よくやって来て、いらっしゃい、いらっしゃいまし、と景気よく呼びかけた。いかにもしょうばい上手な「千本」の者らしいが、釣りをするためにタクシーを乗りつけるような客は「かも」であって、私は車から出るとすぐ、かれらに片手を振った。