私は青べかを二つ𣱿へ漕ぎ入れ、細い水路を二百メートルほどいった、川柳の茂みのところに繋いで、釣竿をおろした。三月はじめの曇った日で、風はなく、浅い水路の水は淀んだように澄んでおり、実際には流れているのだが、殆んど静止したままのように見えた。
私は竿をおろしてから、青べかの中にゆっくり坐り直し、タバコを出して火をつけた。
そこは百万坪のほぼ中央に当っていた。北のほうに遠く、町の家並みが平らに密集してい、貝の缶詰工場や石灰工場から吐き出される煙が、雲に掩われた空へと、ゆるやかに、まっすぐ立ち昇っていた、(私のノートには「煙は上へゆくほど薄くなる棒のように」というつまらない形容が使ってある)町の東北のはずれから東にかけて、荒地の中に一筋の道があり、ひねくれた枝ぶりの、小さな松並木が沖の弁天社まで続いている。この土地では松が育たないそうで、それは「堀の三本松が一本だけにされた報い」だともいわれているが、慥かに、芳爺さんの家に近い、堀端にある老松のほかに松らしい松は一本もみあたらなかった。――そのひねこびた松並木を挟んで、枯れた芦の茂みがところどころに見える、それらはみな沼か湿地で、川獺や鼬が棲んでいるといわれ、私も川獺は幾たびか見かけたし、それを捕獲して毛皮屋へ売って儲けようと計ったこともあるが、それはここでは省略する。――私はタバコをふかしながら、その芦の茂みから鷭の飛び立つのを認めた。鷭という鳥は、私の家でもよく見ることができた。机に向っていると、窓のすぐ向うを飛んでゆくのである、黒地に星点のある羽根や、赤い足などですぐ、それとわかる。野鳥の中でこれほど美味な肉はない、ということを聞いていたので、川獺の場合とは別個の欲望から、その鳥もなんとか捕獲しようとこころみたが、ついに一度も成功しなかったので、一種の怨みからだろうか、かなり遠くからでも、鷭だけはみわけがつくようになった。
「蒸気河岸の先生よ」と云う声がした、「釣れっかえ」
私はおどろいて振り返った。見わたす限り人影もなかったのに、突然そう呼びかけられたので、振り返る拍子にタバコを落し、それがあぐらをかいている膝のあいだに落ちたので、取って捨てるまでに、腿と脛を慌てて叩いたりこすったりしなければならなかった。――そこにいるのは繁あねであった。年は十二か三、たぶん十三歳だったと思うが、私が振り返ると、岸の上からにっと笑いかけて、もういちど同じ質問をした。
私はそれには答えないで、こっちから問いかけた。
「ええびだよ」と繁あねは答えた、「ただええびに来ただよ」
私はまた訊いた。
「おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね」
「妹はどうしたんだ」
「あまか」と少女は鼻に皺をよせた、「墓ん場に寝かしてあんよ」
「鼬にかじられるぞ」
「つまんねえ」
お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継ぎだらけの裾が割れて、白い内股が臀のほうまであらわに見え、私はうろたえて眼をそらした。私は信じがたいほど美しいものを見たのだ。
繁あねは町じゅうでもっとも汚ない少女だといわれていた。乞食あま。親なしで家なし。墓場に供えられる飯や団子を食う餓鬼、それがお繁であった。躯はできものだらけで、胸のところは腫物の膿のため、着物がはりついて取れなくなっている。いつもどこかの海苔漉き小屋か、納屋か、ひび置き場に寝る。風呂へはいることはないし、顔も洗わない。蝨だらけ蚤だらけである。もちろん親類もなく遊ぶ者もいない、というのがお繁であった。
それは決して誇張ではなかった。私もかなりまえからお繁を知っていたし、道で会えばたいてい呼びかけたものである。彼女はいつも垢だらけで、近くへ寄るとひどく臭かった。それにもかかわらず、彼女の躯の一部は信じられないほど美しかったのだ。両の内股は少女期をぬけようとするふくらみをみせていた。両股のなめらかな肌が合って、臀部へと続く小さな谷間は、極めて新鮮に色づいていたし、膝がしらから踵へとながれる脛の内側も、すんなりと白くまるみをもっていた。それは、成長しつつあるものだけがもつ神聖な美しさ、と云うべきもので、たとえどのようにあからさまになったとしても、決してみだらな感じは与えなかったであろう。ほんの一瞬間ではあったが、私はその美しさに深く感動した。
そのまえの年、お繁は妹と二人で両親に捨てられた。妹は生れてから百日くらいしか経っていなかった。
お繁の父は源太といい、釣舟の船頭であった。源太は鱸釣りの名人で、どんな漁師も鱸釣りでは彼にかなわなかった。或る年のこと某県の知事が来て、源太の舟で鱸釣りをした。知事はもと某省の大臣であり、魚釣りと俳句がうまいので知られていたが、一度で源太が好きになり、機械船――発動機を備えた釣舟――を買って与えた。源太がいかに鱸釣りの名人だったかということを、適切にあらわす言葉があった。
「さあて」と彼は釣りにでかけるときに云う、「鱸を拾いにいくべえか」
機械船を持てば自分でしょうばいができる。それまで彼は「松島」という船宿に属していたが、初めて独立し、客もかなり付いた。裏長屋に住んでいるので、まだ船宿の経営はできなかったが、どうやら二年も経てばその望みが実現しそうに思われた。そのとき、災難が起こった。――或る朝、彼は五番の澪木の沖で釣っていた。霧の深い日で、十メートル先も見えないくらいだったが、その中を一艘の大型機械船がやって来た。それは濃い霧の中を、まっすぐにこちらへ近づいて来る、エキゾスの音が明らかにそれを示していた。
「おーい」と源太は叫んだ、「ここに舟があるぞ、たのむよう」
エキゾスの音で大蝶丸だとわかった。大蝶丸なら安心であった。この辺が釣りの穴場で、いつも釣舟がいるということを、大蝶丸の者なら知っている筈だったから。源太はじっと船の交わるのを待った。けれども先方はまっすぐに近よって来、突然、霧を押しわけるようにして、源太の眼の前にあらわれ、その大きな舳先を源太の機械船の横腹へ突っかけた。
「おい」と源太は叫んだ、「待ってくれ」