ある日、明石一太郎が学校から帰って、茶の間のお母さんのところへ行って、「ただ今」と言いますと、お母さんは待ちかねていたように、こんなことをおっしゃるのでした。
「一太郎さん、今日たいへんなことがあったのですよ。妙子ちゃんが、幼稚園から帰りに、そこの大通りでころんで、今にも自動車にひかれそうになったんですって」
「え、自動車に?」
一太郎は、かわいい妹の妙子ちゃんが、そんな目にあったときいて、びっくりして思わず大きな声をたてました。
「いいえ、べつにけがはしなかったの。ちょうどあんたぐらいの小学校の生徒さんが、妙子ちゃんを助けおこして、わざわざうちの門のところまでつれて来て下さったのです。
妙子ちゃんが言うのには、ころんだ時、カバンがひらいて、中のものが、みんな道へこぼれたのですって。筆入もふたがとれて、クレヨンがバラバラと、そのへんにちらばったのですって。そこへ、むこうから自動車が走って来たので、今いった小学校の生徒さんが、とんで来て、妙子ちゃんを助けおこし、自動車をよけてから、こぼれたものを、みんなひろって、カバンの中へ入れて、それから、泣いている妙子ちゃんをつれて、門のところまで送って下さったのです」
「誰だろう。僕の学校の生徒かしら」
「ええ、そうらしいのよ、一太郎さんのお友だちかもしれないわ。お母さんが出て行くと、走っていってしまったので、うしろ姿だけは見たけれど、誰だかわからないのです。妙子ちゃんも知らないって言うの。
でも、妙子ちゃんが、ここの子だっていうことを知っていたのを見ると、やはり、一太郎さんのお友だちか知れないわ。あした学校へ行ったら、さがして、お礼を言って下さい」
「そうですね。……でもね、お母さん、もしその生徒が、僕のなかよしの友だちだとすると、なかなかさがし出せないかも知れませんよ」
「なぜなの?」
一太郎君が妙なことを言ったので、お母さんは不思議そうな顔をなさいました。
「あのね、僕の組で、なかよしの友だちが六人いるんです。その六人が約束して、一日一善っていう事をやっているんです。なんでもいいから、人のためになる事を、一日に一つはかならずやるっていう約束なんです。僕も毎日やっているんです。でも、何をしたかは言えません。言っちゃいけないっていう約束なんです。
ほめられたりお礼をいわれたりするためにやるんじゃなくって、ただいい事だからやるんでしょう。だから、人に知られないようにこっそりやらなけりゃいけないのです。もしそれを人に話したり、じまんしたりすれば、その日はなにもいい事をしなかったのと同じになっちゃうんです。零になっちゃうんです。だから、いくらたずねてもきっと言いませんよ」
「まあ、そんな約束をしているの。感心ね。でも、今日のは特別にいいことなんだから、いっても零にならないことにして、その生徒さんを白状させなさいよ。わかったら、お母さんもお礼を言いたいのですから」
「じゃ、僕、やってみます」
一太郎は、それから、妹の妙子ちゃんのところへ行って、いろいろたずねてみましたけれど、なにをいうにも幼い子供のことであり、その時はまた夢中だったものですから、はっきりとしたことがわからず、これという手がかりもつかめません。一太郎君はこまったような顔をして、しばらく考えこんでいましたが、やがて、なにを考えついたのか、「あ、そうだ」と、ひとりごとを言ったかと思うと、いきなり、妙子ちゃんのカバンの中から、黒地に赤い花の模様のあるセルロイドの筆入を取出しました。妙子ちゃんがころんだ時、中のクレヨンが道にちらばったという、あの筆入です。
「ちょっと、これを兄さんにかしてね」
一太郎君はそう言って、その筆入をだいじそうに持って、自分の勉強部屋に入りました。そして、机のひきだしから拡大鏡を取出し、筆入のふたを取って、その裏表を熱心にのぞきこんでいましたが、しばらくすると、なにを見つけたのか、
「あ、あったぞ、これだ、これだ」
と、さもうれしそうにつぶやくのでした。皆さん一太郎君は、いったい何を発見したのでしょう。
さて、そのあくる日は、朝からシトシトと雨の降りつづく陰気な日でしたが、一太郎君は何か楽しい事でもあるらしく、いそいそとして学校へ出かけました。
生徒たちは、広い雨天体操場に入って、授業のはじまるのを待つのでしたが、駈けまわるもの、とっくみ合いをするもの、あちらでもこちらでも、ワーッ、ワーッと、おもちゃ箱でもひっくり返したようなさわぎです。
一太郎君は、その中から「一日一善」の六人のお友だちをさがし出して、みんなに昨日の事をたずねてみましたが、誰も僕がやったのだと言うものはありません。妙子ちゃんを助けてくれたのは、どうもその六人のうちの一人らしいのですが、みんな知らぬ顔をして、笑ってばかりいるので、どうしてもわからないのです。
一太郎君があまりくどくたずねるものですから、六人の中でも一番なかよしの中村君などは、こんなことを言って、からかうのです。
「そんなに疑うのなら、君の智恵で、僕らのうちの誰がやったのだか、さがし出せばいいじゃないか。君は智恵の一太郎じゃないか」
すると、みんながおもしろそうに、ワーッとはやしたてるのです。
「ようし、それじゃ、僕にも考えがある」
一太郎君は、くやしくなって、おこったような顔をして、きっぱりと言うのでした。
間もなく始業のベルが鳴り出しましたので、みんなはそのまま整列して教室に入りましたが、その第一時間目の授業がすんで、また雨天体操場にもどりますと、一太郎君は何を思ったのか、一方のすみのガラス窓のそばへ行って、立ちどまったのです。
そして、窓のガラスにハーッと息をふきかけて、白くくもったところへ、自分の両手の親指をぐっとおしつけました。すると、指の先のうずまきのあとが、ガラスの上にハッキリとあらわれたのです。一太郎君はポケットに用意してきた拡大鏡をとり出して、その二つのうずまきのあとを、熱心にのぞきはじめたものです。