「そう、実に今日はよく晴れた」
伊兵衛は話をそらすように、低い庇越しに空を見あげ、貧乏ゆすりをし、また空を見あげ、そして立ちあがった。
「おでかけなさいますの?」
「いやでかけやしない、ちょっとその」
彼は宿の外へ出て、おちつかない眼つきで城下町のほうを眺めやった。かなり苛々しているらしい、ふとそっちへ歩きだしそうにして、思い返して、短い太息をついた。そのときうしろで、いきなりテテンテテンと太鼓の音がした。あまり突然だったので、彼は吃驚して横へとび退いた。
「お早うござい、今日円満大吉でござい」
猿廻しであった。どこかしら歪んだしなびたような躯つきの、不自然に陽気なその猿廻しは、そんな挨拶をして、猿を背中にとまらせ、太鼓を叩きながら、足早に城下町のほうへ去っていった。
「天気は申し分なしですがねえ」小部屋へ戻って、暫くして伊兵衛がそう云った、「ともかくまだ二日めだし、先方でもなんとか云って来るだろうしねえ、黙って立つというわけにもいかないと思うんだが」
「そうでございますわね、でもわたくし、支度だけはしておきますわ」
「それはそうですとも、どっちにしても此処は出てゆくんだから……」
伊兵衛はどきりとして誇張していうと、かまきりのように首をあげた。馬の蹄の音が、宿の前で停ったのである。おたよも聞きつけたのだろう、これもはっとしたようだったが、すぐわれに返って包み物を続けた。伊兵衛は立って衣紋を直し、できるだけおちついた口ぶりで、「来たようだね」こう云いながら出ていった。
ちょうど土間へ牛尾大六が入って来るところだった。伊兵衛はどきどきする胸を抑え、できる限り平静を装い、やさしく微笑しながら上り端まで出迎えた。
「いや此処で失礼します」
牛尾大六は多少いまわしそうに、汚ならしい家の中を見まわして、このまえのときよりずっと切り口上で云った。
「主膳が申しますには、まことに稀なる武芸者、その類のないお腕前といい高邁なる御志操といい、禄高に拘らずぜひ御随身が願いたい、また藩侯におかれましても特に御熱心のように拝されまして」
「いやそんな、それは過分なお言葉です、私はそんな」
「そういうしだいで、当方としては既にお召抱えと決定しかかったのですが、そこに思わぬ故障が起こったのです」
伊兵衛は息をのみ、地面が揺れだすように感じて、ぐっと膝を掴んだ。
「故障といっても当方のことではなく、責任はそこもとから出たのですが」大六は冷やかに続けた、「――それは貴方が賭け試合をなすった、城下町のさる道場において金子を賭けて試合をし、勝ってその金子を取ってゆかれた……、もちろん御記憶でございましょう」
伊兵衛は辛うじて頷いた。そしていつか青山家の道場で、相手の三人のうちの一人が、彼を見るなり逃げだしたことを思いだした。
「慥かに覚えております、覚えておりますけれども」伊兵衛はおろおろと、「――それは実はまことに気の毒な者がおりまして、この宿にいた客なんですが」
「理由のいかんに拘らず、武士として賭け試合をするなどということは、不面目の第一であるし、それを訴え出た者がある以上、当方としては手を引かざるを得ません、残念ながらこの話は無かったものとお思い下さるように」
牛尾大六は白扇の上に紙包を載せ、それを伊兵衛の前に置きながら云った、「主膳が申しますには、些少ながらこれを旅費の足しにでもお受け下さるよう、とのことでございました」
「いやとんでもない、こんな」伊兵衛は泣くような顔で手を振った。「――こんな御心配はどうか、いろいろ戴いていることでもあり、どうかこんな」
「いいえ有難く頂戴いたします」
こう云いながら、おたよが来て、良人の脇に坐った。伊兵衛は狼狽したが、大六も驚いて、あやふやに頭を下げてなにか云おうとした。しかしおたよはその隙を与えなかった。いくらか昂奮はしているが、しっかりした調子で、はきはきと次のように云った。
「主人が賭け試合を致しましたのは悪うございました、わたくしもかねがねそれだけはやめて下さるようにと願っていたのでございます、けれどもそれが間違いだったということが、わたくしには初めてわかりました、主人も賭け試合が不面目だということぐらい知っていたと思います、知っていながらやむにやまれない、そうせずにいられないばあいがあるのです、わたくしようやくわかりました、主人の賭け試合で、大勢の人たちがどんなに喜んだか、どんなに救われた気持になったか」
「おやめなさいたよ、失礼ですから」
「はい、やめます、そして貴方にだけ申上げますわ」おたよは向き直り、声をふるわせて云った――、「これからは、貴方がお望みなさるときに、いつでも賭け試合をなすって下さい、そしてまわりの者みんな、貧しい、頼りのない、気の毒な方たちを喜ばせてあげて下さいまし」
彼女の言葉は嗚咽のために消えた。牛尾大六は辟易し、ぐあい悪そうに後退し、そこでなんとなくおじぎをして、ひらりと外へ去っていった。
時刻は中途半端になったが、区切りをつけるという気持で、二人は間もなく宿を出立した。あの晩の米も余っていたが、主膳の呉れた金も折半して宿の主人に預け、またなが雨のときや困っている客があったら、世話をしてやって呉れるようにと頼んで、……夫婦が草鞋を穿いていると、あのおろくさんという女がやって来た。病的に痩せて尖った顔を(あいそ笑いらしい)みじめにひきつらせながら、「御新造さんこれ持ってって下さい」と、薬袋の古びたのを三帖そこへ出した、「――草鞋にくわれたとき付けるといいんですよ、煙草の灰なんですけどね、唾で練って付けるとよく効きますよ、……もっといいお餞別をしたいんだけど、そう思うばかしでね、……つまらないもんだけど」
「いいえ嬉しいわ、有難う」
おたよは親しい口ぶりで礼を云い、本当に嬉しそうに、それをふところへ入れた。
宿の人たちに追分の宿はずれまで送られ、そこから右へ曲って峠へ向った。伊兵衛はなかなか落胆からぬけられないらしい、おたよはしいて慰めようとは思わなかった。