← Library‹ 雨あがる 八

「そう、実じつに今日きょうはよく晴はれた」

伊兵衛いへえは話はなしをそらすように、低ひくい庇越ひさしごしに空そらを見みあげ、貧乏びんぼうゆすりをし、また空そらを見みあげ、そして立たちあがった。

「おでかけなさいますの?」

「いやでかけやしない、ちょっとその」

彼かれは宿やどの外そとへ出でて、おちつかない眼めつきで城下じょうか町ちょうのほうを眺ながめやった。かなり苛々いらいらしているらしい、ふとそっちへ歩あるきだしそうにして、思おもい返かえして、短みじかい太息といきをついた。そのときうしろで、いきなりテテンテテンと太鼓たいこの音おとがした。あまり突然とつぜんだったので、彼かれは吃驚びっくりして横よこへとび退のいた。

「お早はようござい、今日きょう円満えんまん大吉だいきちでござい」

猿廻さるまわしであった。どこかしら歪ゆがんだしなびたような躯むくろつきの、不ふ自然しぜんに陽気ようきなその猿廻さるまわしは、そんな挨拶あいさつをして、猿さるを背中せなかにとまらせ、太鼓たいこを叩たたきながら、足早あしばやに城下じょうか町ちょうのほうへ去さっていった。

「天気てんきは申もうし分ぶんなしですがねえ」小こ部屋へやへ戻もどって、暫しばらくして伊兵衛いへえがそう云いった、「ともかくまだ二ふた日かめだし、先方せんぽうでもなんとか云いって来くるだろうしねえ、黙だまって立たつというわけにもいかないと思おもうんだが」

「そうでございますわね、でもわたくし、支度したくだけはしておきますわ」

「それはそうですとも、どっちにしても此処ここは出でてゆくんだから……」

伊兵衛いへえはどきりとして誇張こちょうしていうと、かまきりのように首くびをあげた。馬うまの蹄ひづめの音おとが、宿やどの前まえで停とまったのである。おたよも聞ききつけたのだろう、これもはっとしたようだったが、すぐわれに返かえって包つつみ物ものを続つづけた。伊兵衛いへえは立たって衣紋えもんを直なおし、できるだけおちついた口くちぶりで、「来きたようだね」こう云いいながら出でていった。

ちょうど土間どまへ牛尾うしお大だい六ろくが入はいって来くるところだった。伊兵衛いへえはどきどきする胸むねを抑おさえ、できる限かぎり平静へいせいを装よそおい、やさしく微笑びしょうしながら上あがり端ばたまで出迎でむかえた。

「いや此処ここで失礼しつれいします」

牛尾うしお大だい六ろくは多少たしょういまわしそうに、汚きたならしい家いえの中なかを見みまわして、このまえのときよりずっと切きり口くち上じょうで云いった。

「主膳しゅぜんが申もうしますには、まことに稀まれなる武芸ぶげい者しゃ、その類るいのないお腕前うでまえといい高邁こうまいなる御ご志操しそうといい、禄高ろくだかに拘かかわらずぜひ御ご随身ずいじんが願ねがいたい、また藩侯はんこうにおかれましても特とくに御ご熱心ねっしんのように拝はいされまして」

「いやそんな、それは過分かぶんなお言葉ことばです、私わたくしはそんな」

「そういうしだいで、当方とうほうとしては既すでにお召抱めしかかえと決定けっていしかかったのですが、そこに思おもわぬ故障こしょうが起おこったのです」

伊兵衛いへえは息いきをのみ、地面じめんが揺ゆれだすように感かんじて、ぐっと膝ひざを掴つかんだ。

「故障こしょうといっても当方とうほうのことではなく、責任せきにんはそこもとから出でたのですが」大だい六ろくは冷ひややかに続つづけた、「――それは貴方あなたが賭かけ試合しあいをなすった、城下じょうか町ちょうのさる道場どうじょうにおいて金子かねこを賭かけて試合しあいをし、勝かってその金子かねこを取とってゆかれた……、もちろん御ご記憶きおくでございましょう」

伊兵衛いへえは辛かろうじて頷うなずいた。そしていつか青山あおやま家かの道場どうじょうで、相手あいての三さん人にんのうちの一人ひとりが、彼かれを見みるなり逃にげだしたことを思おもいだした。

「慥たしかに覚おぼえております、覚おぼえておりますけれども」伊兵衛いへえはおろおろと、「――それは実じつはまことに気きの毒どくな者ものがおりまして、この宿やどにいた客きゃくなんですが」

「理由りゆうのいかんに拘かかわらず、武士ぶしとして賭かけ試合しあいをするなどということは、不ふ面目めんぼくの第だい一いちであるし、それを訴うったえ出でた者ものがある以上いじょう、当方とうほうとしては手てを引ひかざるを得えません、残念ざんねんながらこの話はなしは無なかったものとお思おもい下くださるように」

牛尾うしお大だい六ろくは白扇はくせんの上うえに紙包かみづつみを載のせ、それを伊兵衛いへえの前まえに置おきながら云いった、「主膳しゅぜんが申もうしますには、些少さしょうながらこれを旅費りょひの足たしにでもお受うけ下くださるよう、とのことでございました」

「いやとんでもない、こんな」伊兵衛いへえは泣なくような顔かおで手てを振ふった。「――こんな御ご心配しんぱいはどうか、いろいろ戴いただいていることでもあり、どうかこんな」

「いいえ有難ありがたく頂戴ちょうだいいたします」

こう云いいながら、おたよが来きて、良人おっとの脇わきに坐すわった。伊兵衛いへえは狼狽ろうばいしたが、大だい六ろくも驚おどろいて、あやふやに頭あたまを下さげてなにか云いおうとした。しかしおたよはその隙すきを与あたえなかった。いくらか昂奮こうふんはしているが、しっかりした調子ちょうしで、はきはきと次つぎのように云いった。

「主人しゅじんが賭かけ試合しあいを致いたしましたのは悪わるうございました、わたくしもかねがねそれだけはやめて下くださるようにと願ねがっていたのでございます、けれどもそれが間違まちがいだったということが、わたくしには初はじめてわかりました、主人しゅじんも賭かけ試合しあいが不ふ面目めんぼくだということぐらい知しっていたと思おもいます、知しっていながらやむにやまれない、そうせずにいられないばあいがあるのです、わたくしようやくわかりました、主人しゅじんの賭かけ試合しあいで、大勢おおぜいの人ひとたちがどんなに喜よろこんだか、どんなに救すくわれた気持きもちになったか」

「おやめなさいたよ、失礼しつれいですから」

「はい、やめます、そして貴方あなたにだけ申上もうしあげますわ」おたよは向むき直なおり、声こえをふるわせて云いった――、「これからは、貴方あなたがお望のぞみなさるときに、いつでも賭かけ試合しあいをなすって下ください、そしてまわりの者ものみんな、貧まずしい、頼たよりのない、気きの毒どくな方かたたちを喜よろこばせてあげて下くださいまし」

彼女かのじょの言葉ことばは嗚咽おえつのために消きえた。牛尾うしお大だい六ろくは辟易へきえきし、ぐあい悪わるそうに後退こうたいし、そこでなんとなくおじぎをして、ひらりと外そとへ去さっていった。

時刻じこくは中途ちゅうと半端はんぱになったが、区切くぎりをつけるという気持きもちで、二人ふたりは間まもなく宿やどを出立しゅったつした。あの晩ばんの米べいも余あまっていたが、主膳しゅぜんの呉くれた金かねも折半せっぱんして宿やどの主人しゅじんに預あずけ、またなが雨あめのときや困こまっている客きゃくがあったら、世話せわをしてやって呉くれるようにと頼たのんで、……夫婦ふうふが草鞋わらじを穿はいていると、あのおろくさんという女おんながやって来きた。病的びょうてきに痩やせて尖とがった顔かおを(あいそ笑わらいらしい)みじめにひきつらせながら、「御ご新造しんぞうさんこれ持もってって下ください」と、薬袋くすりぶくろの古ふるびたのを三さん帖じょうそこへ出だした、「――草鞋わらじにくわれたとき付つけるといいんですよ、煙草たばこの灰はいなんですけどね、唾つばで練ねって付つけるとよく効ききますよ、……もっといいお餞別せんべつをしたいんだけど、そう思おもうばかしでね、……つまらないもんだけど」

「いいえ嬉うれしいわ、有難ありがとう」

おたよは親したしい口くちぶりで礼れいを云いい、本当ほんとうに嬉うれしそうに、それをふところへ入いれた。

宿やどの人ひとたちに追分おいわけの宿やどはずれまで送おくられ、そこから右みぎへ曲まがって峠とうげへ向むかった。伊兵衛いへえはなかなか落胆らくたんからぬけられないらしい、おたよはしいて慰なぐさめようとは思おもわなかった。

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