← Library‹ さぶ 一の一

小雨こさめが靄もやのようにけぶる夕方ゆうがた、両国りょうこく橋きょうを西にしから東ひがしへ、さぶが泣なきながら渡わたっていた。

双子縞ふたこじまの着物きものに、小倉こくらの細ほそい角帯かくおび、色いろの褪あせた黒くろの前掛まえかけをしめ、頭あたまから濡ぬれていた。雨あめと涙なみだとでぐしょぐしょになった顔かおを、ときどき手ての甲こうでこするため、眼めのまわりや頬ほおが黒くろく斑まだらになっている。ずんぐりした躯からだつきに、顔かおもまるく、頭あたまが尖とがっていた。――彼かれが橋はしを渡わたりきったとき、うしろから栄二えいじが追おって来きた。こっちは痩やせたすばしっこそうな躯むくろつきで、おもながな顔かおの濃こい眉まゆと、小ちいさなひき緊った唇くちびるが、いかにも賢かしこそうな、そしてきかぬ気きの強つよい性質せいしつをあらわしているようにみえた。

栄二えいじは追おいつくとともに、さぶの前まえへ立たち塞ふさがった。さぶは俯向うつむいたまま、栄二えいじをよけて通とおりぬけようとし、栄二えいじはさぶの肩かたをつかんだ。

「よせったら、さぶ」と栄二えいじが云いった、「いいから帰かえろう」

さぶは手ての甲こうで眼めを拭ふき、咽むせびあげた。

「帰かえるんだ」と栄二えいじが云いった、「聞きこえねえのか」

「いやだ、おら葛西かさいへ帰かえる」とさぶが云いった、「おかみさんに出でていけって云いわれたんだ、もう三さん度どめなんだ」

「あるきな」と云いって栄二えいじは左ひだりのほうへ顎あごをしゃくった、「人ひとが見みるから」

二人ふたりの少年しょうねんは橋はしのたもとを左ひだりへ曲まがった。雨あめは同おなじような調子ちょうしで、殆ほとんど音おともなくけぶっていた。

「おらほんとに知しらなかったんだ」とさぶが云いった、「ゆうべ粉袋こなぶくろを戸納とだなへしまってたときに、勝手かってで使つかうから一ひとつ出だしておけって、おかみさんに云いわれた、だから一ひとつだけ残のこしといたんだ、そしたらその袋ふくろが出だしっ放ぱなしになってて、おかみさんは使つかったあとでしまっとけって、その袋ふくろを返かえしたのに、おれがしまい忘わすれたっていうんだ」

「癖くせだよ、癖くせじゃねえか」

「粉こなが湿気しっけをくっちゃった、へまばかりする小僧こぞうだって」さぶは立停たちどまって、手ての甲こうで眼めのまわりをこすりながら泣ないた、「――おら、返かえしてもらわなかった、そんな覚おぼえはほんとにねえんだ、ほんとに知しらなかったんだ」

「癖くせだってば、おかみさんはなんとも思おもっちゃあいねえよ」

「だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、――自分じぶんでも知しってた、とても続つづけられやしねえ、もうたくさんだ」さぶは喉のどを詰なじらせた、「おら、思おもうんだが、いっそ葛西かさいへ帰かえって、百姓ひゃくしょうをするほうがましだって」

広ひろい河岸かし通とおりの、右みぎが武家ぶけ屋敷やしき、左ひだりが大川おおかわで、もう少すこしゆくと横網よこあみになる。折助おりすけとも人足にんそくともわからない中年ちゅうねんの、ふうていのよくない男おとこが二人ふたり、穴あなのある傘かさをさして、なにかくち早はやに話はなしながら、通とおりすぎていった。その男おとこたちの、半纏はんてんの下したから出でている裸はだかの脛すねが、栄二えいじにはひどく寒さむそうにみえた。さぶはあるきだしながら、小舟町こぶなちょうの「芳古堂ほうこどう」へ奉公ほうこうに来きてから三さん年間ねんかんの、休やすむ暇ひまもなくあびせられた小言こごとと嘲笑ちょうしょうと平手ひらて打うちのことを語かたった。それは訴うったえの強つよさではなく、赤児あかごのなが泣なきのような、弱よわよわしく平板へいばんなひびきを持もっていた。大川おおかわの水みずがときたま、思おもいだしたように石垣いしがきを叩たたき、低ひくい呟つぶやきの音おとをたてた。

「奉公ほうこうが辛つらいのはどこだっておんなしこった、おかみさんの口くちの悪わるいのは癖くせだし」と栄二えいじはつかえつかえ云いった、「それにおめえ、女おんななんてもともと、――車くるまだ」

栄二えいじがさぶの腕うでに触さわり、二人ふたりは立停たちどまって川かわのほうへよけた。からの荷車にぐるまを曳ひいた男おとこがうしろから来きて、二人ふたりを追おいぬいていった。

「腕うでに職しょくを付つけるのは辛つれえさ」と栄二えいじは続つづけた、「考かんがえてみな、葛西かさいへ帰かえったって、朝あさから晩ばんまで笑わらってくらせやしねえだろう、それとも百姓ひゃくしょうはごしょう楽らくか」

「葛西かさいのうちなら」とさぶが云いった、「出でていけなんて云いわれることだけはありゃあしねえ」

「ほんとにそうか」

さぶは返辞へんじをしなかった。栄二えいじも返辞へんじを期待きたいしていなかった。さぶは葛西かさいにある実家じっかのことを考かんがえてみた。腰こしの曲まがった喘息ぜんそく持もちの祖父そふ、気きの弱よわい父ちちと、男おとこまさりで手ての早はやい母はは、朝あさから母ははと喧嘩けんかの絶たえない口くちやかましい兄嫁あによめ、三さん人にんいる弟妹ていまいと、呑のんだくれの兄あにと、五ご人にんもいる甥おいや姪めいたち。うす暗ぐらく煤すすだらけな、古ふるくて狭せまくて、ぜんたいが片方かたほうへ傾かたむいている家いえや、五ご反歩たんぶそこそこの痩やせた田畑たはたなど。さぶは途方とほうにくれ、しゃくりあげながら、またあるきだした。

「おめえにゃあ田舎いなかがある」いっしょにあるきながら栄さかえ二にが云いった、「どんなうちにしろ帰かえるところがあるからいい、だがおらあ親おやきょうだいも身寄みよりもねえ独ひとりぼっちだ、今年ことしの春はる、おらあ店みせを追ついん出だされるようなことをしちまった、追ついん出だされるか自分じぶんでおん出でるか、どっちか一ひとつという、とんでもねえことをしちまったんだ」

さぶはそろそろと振ふり向むいて、栄二えいじの顔かおを見みた。好奇こうき心しんからではなく、戸惑とまどったような眼めつきであった。栄二えいじはふきげんな、怒おこってでもいるような口くちぶりで、自分じぶんが去年きょねんから幾いくたびか帳場ちょうばの銭ぜにをぬすみ、それを主婦しゅふのお由よしにみつかったのだ、と告白こくはくした。

「わこく橋はしの側そばの堀ほりっぷちに鰻うなぎの蒲焼かばやきの屋台やたいが出でる」と栄二えいじは続つづけた、「おらあ蒲焼かばやきの匂においを嗅かぐとがまんができなくなるんだ」

通とおりがかりにその匂においを嗅かぐと、喰たべるまでは胃いの腑ふがおさまらない。気持きもちもおちつかず、することが手てにつかない。まるで病気びょうきのようになってしまい、ときには手足てあしがふるえだすことさえあった。帳場ちょうばの銭箱ぜにばこから銭ぜにをつかみ出だしたのはそういうときで、去年きょねんの秋あきから十じゅう二、三にさんたび盗ぬすみだしたろうか、食くいたい一心いっしんで悪わるいことをしたとは思おもわなかった。それがこの二に月がつ、主婦しゅふのお由よしにその部屋へやへ呼よばれた。

「おかみさんは小言こごとは云いわなかった」と栄二えいじは泥どろでも噛かむように、顔かおをしかめながら云いった、「――去年きょねんの八はち月がつ五いつ日かと、昨日きのう、おまえが帳場ちょうばでやったことをあたしは見みたよ、もうあんなことはおよし、欲ほしかったらあたしがあげるから、あたしのところへそう云いっておいで、って、――それっきりだった」

お由よしは二に度どだけしか見みなかったのだろうか、それともすっかり知しっていて、わざと知しらないふうをよそおったのか、いずれにもせよ、栄二えいじは死しぬほど恥はじ、もう店みせにはいられないと思おもった。自分じぶんをぬすっとだなどとは考かんがえもしなかったが、銭箱ぜにばこから銭ぜにをつかみだした自分じぶんの姿すがたが、あさましくて恥はずかしくて、そのまま店みせにいる気きになれなかったのだ。

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