和助は顔をそむけたままで云った、「それをおれに話させるな」
「あっしは二十三です、そしてこんどの綿文さんは初めての出仕事なんだ」と栄二は云った、「小僧のじぶんからあにいたちの供でいって、お店の人たちみんなの気ごころを知っているし、みなさんにもあっしの気ごころはわかっている筈です」
彼は口ごもった。云いたいことは幾らでもある、それらは喉までこみあげているが、彼は自分を制止し、けんめいに感情を抑えた。
「昨日まではなんのこともなかった、仕事も自分ではうまくいってたと思います」栄二は低い声に力をこめて続けた、「――あにいも知っているあの、客座敷二つの襖の張替えですから、それほどむずかしいものでもなし、特にわざのいる仕事もありません、それでも初めての出仕事だから念に念を入れてやったんです、ところが今朝になって急に、もうおめえはいかなくともいい、って親方から仕事を外されちまいました」
「まあ茶でも飲めよ」と和助が云った。
「あっしは向う面をはたかれたような気持だった」と栄二は構わずに続けた、「それはどういうわけか、どんなしくじりがあったのかって、あっしは親方にいっしょけんめいにきいた、親方は答えちゃあくれなかった、いいから今年いっぱい休めって、おれの云わねえことはきくなって、それっきりなんです」
「茶でも飲んで少し気をしずめろ」と和助が静かに云った、「もう冷えちまったがひとくち飲めよ」
栄二は茶をひとくち啜った。それで喉が熱く、渇いていることに気づき、あとはひと息に飲みほした。
「おめえは本町のお店ではにんき者だった」と和助は云った、「ことに二人の娘さんは栄二びいきで、小さいじぶんには歌留多、お手玉、おはじき、追い羽根と、なんでも遊び相手にされたし、旦那もおかみさんもそれをよろこんでいたようだ、だからおめえはお互いに気ごころが知れてると思ってるんだろう」
「だってそのとおりじゃあねえだろうか」
「人間の気持なんてものはいつも同じじゃあねえ、殴られても笑っていられるときがあるし、ちょっとからかわれただけで相手を殺したくなるようなこともある」と和助は云った、「本町のお店にとって、おめえはしょせん出入りの職人だ、まして向うは大金持、なにか事があればいくらひいきにした人間でも、遠慮や会釈はしねえだろう」
「なにか事があればって」と云って栄二は唇を舐めた、「――そんなような事がなにかあったんですか」
「自分で思い当らねえか」
「じゃあ、ほんとになにかあったんですね」
和助は栄二の眼をみつめた。栄二はさらに問い返そうとしたが、和助はそれを遮って、それなら云ってしまおう、と云った。
「おめえは本町のお店の間取をよく知ってるな」
「よく知ってるかどうかわからねえが」栄二は考えてみた、「おきみさんやおそのさんと遊んでいたから、迷うようなことはねえと思います」
「旦那の居間を知ってるか」
「客間からひと間おいた隣りでしょう」
「そこに物入れの小箪笥がある」と和助は云った、「その抽出の一つに古金襴の切がはいってた、客があったので見せるために、旦那がそいつを出してみると、古代箔白地金襴の切が一枚なくなっていたんだ」
和助はそこで栄二の顔を見まもった。しかし栄二の表情には些かの変化もなく、ただその眼に疑わしげな色がみえるだけであった。
「たいそう高価な品なので捜しにかかった」と和助は続けた、「――旦那とおかみさんと二人きりで、ほかの者には知れないように捜した、そうして、まあつづめて云えば、客間にあったおめえとさぶの道具袋を、念のためにしらべてみたところ、それがおめえの袋の中から出てきたんだ」
栄二は笑った、「冗談じゃあねえ、からかっちゃあいけねえよ、あにい」
「出てきたんだ」と和助は云った、「みつけたのは旦那。袋はおめえのものだったそうだ、まさか綿文の旦那ともある人が、そんな嘘をつく筈はねえだろう」
栄二は黙った。いま笑った口をひきしめ、和助の顔をさぐるようにみつめて、深く、大きく息を吸い、その息を少しずつゆっくりと吐きだした。
「すると、あっしがその切をぬすんで、袋の中へ入れといたっていうんですか」
「小舟町の親方がゆうべ呼ばれて、これだけの話を聞いた、そして、よそへは決してもらさないが、出入りは止めると云われた」
栄二はなにか云いかけたが、和助は手をあげてそれを制止し、まあ聞けといって続けた、「――親方は小舟町へ帰って考え、おかみさんに相談した、おめえがそんなことをしようとは信じられねえ、なにかの間違いだろうと話しあっているうちに、七年か八年まえのことがでてきた」
「七年か八年まえのことって」
「思いだしてみろ」と和助が声を低くして云った、「――おれもすっかり忘れていたが、親方の手紙を読んで思いだしたぜ」
栄二は暫くけげんそうな顔をしていたが、やがて、とつぜん平手打ちでもくったように、大きく眼をみはり、あと口をあいた。彼は右手を拳にして膝へ力いっぱい押しつけたが、その拳は関節から血がひき、ぶるぶると見えるほどふるえた。
「帳場の」と栄二は舌が鉛にでもなったような、まどろっこしい口ぶりで云った、「――銭箱ですか」
和助はなにも云わずに、じっと栄二をみつめていた。ごまかしてもだめだぞ、という気持と、いったい事実はどうなんだ、という問いかけの気持との入り混じったまなざしであった。栄二の頬へ血がのぼり、それが見ているうちに白くなると、頬のあたりがひきつり、唇がふるえた。
「あのときのあれが」と彼は吃り、唇を舐めて云った、「いまになって、ほじくり返されるんですか」
和助はなにも云わなかった。
「慥かに、あっしは銭箱から銭をぬすみました」と栄二は続けた、「わこく橋の側に出る屋台の、蒲焼の匂いにどうしても勝てなかったからです、けれども、おかみさんにみつかって意見されてからは、一度もそんなことはしなかったし、――おかみさんは、このことは誰にも云わないからと、はっきり約束してくれたんですよ」
「おかみさんがみつけたのはあとのことだ」と云って和助はまた栄二をみつめた、「――おめえ、おれがあのころ、帳場をやってたことを覚えてるか」