← Library‹ さぶ 三の五

和助わすけは顔かおをそむけたままで云いった、「それをおれに話はなさせるな」

「あっしは二十にじゅう三さんです、そしてこんどの綿めん文ぶんさんは初はじめての出で仕事しごとなんだ」と栄二えいじは云いった、「小僧こぞうのじぶんからあにいたちの供ともでいって、お店たなの人ひとたちみんなの気きごころを知しっているし、みなさんにもあっしの気きごころはわかっている筈はずです」

彼かれは口くちごもった。云いいたいことは幾いくらでもある、それらは喉のどまでこみあげているが、彼かれは自分じぶんを制止せいしし、けんめいに感情かんじょうを抑おさえた。

「昨日きのうまではなんのこともなかった、仕事しごとも自分じぶんではうまくいってたと思おもいます」栄二えいじは低ひくい声こえに力ちからをこめて続つづけた、「――あにいも知しっているあの、客きゃく座敷ざしき二ふたつの襖ふすまの張替はりかえですから、それほどむずかしいものでもなし、特とくにわざのいる仕事しごともありません、それでも初はじめての出で仕事しごとだから念ねんに念ねんを入いれてやったんです、ところが今朝けさになって急きゅうに、もうおめえはいかなくともいい、って親方おやかたから仕事しごとを外はずされちまいました」

「まあ茶ちゃでも飲のめよ」と和助わすけが云いった。

「あっしは向むこう面めんをはたかれたような気持きもちだった」と栄二えいじは構かまわずに続つづけた、「それはどういうわけか、どんなしくじりがあったのかって、あっしは親方おやかたにいっしょけんめいにきいた、親方おやかたは答こたえちゃあくれなかった、いいから今年ことしいっぱい休やすめって、おれの云いわねえことはきくなって、それっきりなんです」

「茶ちゃでも飲のんで少すこし気きをしずめろ」と和助わすけが静しずかに云いった、「もう冷ひえちまったがひとくち飲のめよ」

栄二えいじは茶ちゃをひとくち啜すすった。それで喉のどが熱あつく、渇かわいていることに気きづき、あとはひと息いきに飲のみほした。

「おめえは本町ほんちょうのお店みせではにんき者しゃだった」と和助わすけは云いった、「ことに二人ふたりの娘むすめさんは栄二えいじびいきで、小ちいさいじぶんには歌留多かるた、お手玉てだま、おはじき、追おい羽根ばねと、なんでも遊あそび相手あいてにされたし、旦那だんなもおかみさんもそれをよろこんでいたようだ、だからおめえはお互たがいに気きごころが知しれてると思おもってるんだろう」

「だってそのとおりじゃあねえだろうか」

「人間にんげんの気持きもちなんてものはいつも同おなじじゃあねえ、殴なぐられても笑わらっていられるときがあるし、ちょっとからかわれただけで相手あいてを殺ころしたくなるようなこともある」と和助わすけは云いった、「本町ほんちょうのお店みせにとって、おめえはしょせん出入でいりの職人しょくにんだ、まして向むこうは大おお金持かねもち、なにか事ことがあればいくらひいきにした人間にんげんでも、遠慮えんりょや会釈えしゃくはしねえだろう」

「なにか事ことがあればって」と云いって栄二えいじは唇くちびるを舐なめた、「――そんなような事ことがなにかあったんですか」

「自分じぶんで思おもい当あたらねえか」

「じゃあ、ほんとになにかあったんですね」

和助わすけは栄二えいじの眼めをみつめた。栄二えいじはさらに問とい返かえそうとしたが、和助わすけはそれを遮さえぎって、それなら云いってしまおう、と云いった。

「おめえは本町ほんちょうのお店みせの間取まどりをよく知しってるな」

「よく知しってるかどうかわからねえが」栄二えいじは考かんがえてみた、「おきみさんやおそのさんと遊あそんでいたから、迷まようようなことはねえと思おもいます」

「旦那だんなの居間いまを知しってるか」

「客間きゃくまからひと間まおいた隣となりでしょう」

「そこに物入ものいれの小箪笥こだんすがある」と和助わすけは云いった、「その抽出ひきだしの一ひとつに古金襴こきんらんの切きれがはいってた、客きゃくがあったので見みせるために、旦那だんながそいつを出だしてみると、古代箔こだいはく白地しろじ金襴きんらんの切きれが一いち枚まいなくなっていたんだ」

和助わすけはそこで栄二えいじの顔かおを見みまもった。しかし栄二えいじの表情ひょうじょうには些いささかの変化へんかもなく、ただその眼めに疑うたがわしげな色いろがみえるだけであった。

「たいそう高価こうかな品しななので捜さがしにかかった」と和助わすけは続つづけた、「――旦那だんなとおかみさんと二人ふたりきりで、ほかの者ものには知しれないように捜さがした、そうして、まあつづめて云いえば、客間きゃくまにあったおめえとさぶの道具どうぐ袋ふくろを、念ねんのためにしらべてみたところ、それがおめえの袋ふくろの中なかから出でてきたんだ」

栄二えいじは笑わらった、「冗談じょうだんじゃあねえ、からかっちゃあいけねえよ、あにい」

「出でてきたんだ」と和助わすけは云いった、「みつけたのは旦那だんな。袋ふくろはおめえのものだったそうだ、まさか綿めん文ぶんの旦那だんなともある人ひとが、そんな嘘うそをつく筈はずはねえだろう」

栄二えいじは黙だまった。いま笑わらった口くちをひきしめ、和助わすけの顔かおをさぐるようにみつめて、深ふかく、大おおきく息いきを吸すい、その息いきを少すこしずつゆっくりと吐はきだした。

「すると、あっしがその切きれをぬすんで、袋ふくろの中なかへ入いれといたっていうんですか」

「小舟こぶね町まちの親方おやかたがゆうべ呼よばれて、これだけの話はなしを聞きいた、そして、よそへは決けっしてもらさないが、出入でいりは止とめると云いわれた」

栄二えいじはなにか云いいかけたが、和助わすけは手てをあげてそれを制止せいしし、まあ聞きけといって続つづけた、「――親方おやかたは小舟こぶね町まちへ帰かえって考かんがえ、おかみさんに相談そうだんした、おめえがそんなことをしようとは信しんじられねえ、なにかの間違まちがいだろうと話はなしあっているうちに、七なな年ねんか八はち年ねんまえのことがでてきた」

「七なな年ねんか八はち年ねんまえのことって」

「思おもいだしてみろ」と和助わすけが声こえを低ひくくして云いった、「――おれもすっかり忘わすれていたが、親方おやかたの手紙てがみを読よんで思おもいだしたぜ」

栄二えいじは暫しばらくけげんそうな顔かおをしていたが、やがて、とつぜん平手ひらて打うちでもくったように、大おおきく眼めをみはり、あと口くちをあいた。彼かれは右手みぎてを拳こぶしにして膝ひざへ力ちからいっぱい押おしつけたが、その拳こぶしは関節かんせつから血ちがひき、ぶるぶると見みえるほどふるえた。

「帳場ちょうばの」と栄二えいじは舌したが鉛なまりにでもなったような、まどろっこしい口くちぶりで云いった、「――銭箱ぜにばこですか」

和助わすけはなにも云いわずに、じっと栄二えいじをみつめていた。ごまかしてもだめだぞ、という気持きもちと、いったい事実じじつはどうなんだ、という問といかけの気持きもちとの入いり混まじったまなざしであった。栄二えいじの頬ほおへ血ちがのぼり、それが見みているうちに白しろくなると、頬ほおのあたりがひきつり、唇くちびるがふるえた。

「あのときのあれが」と彼かれは吃どもり、唇くちびるを舐なめて云いった、「いまになって、ほじくり返かえされるんですか」

和助わすけはなにも云いわなかった。

「慥たしかに、あっしは銭箱ぜにばこから銭ぜにをぬすみました」と栄二えいじは続つづけた、「わこく橋はしの側そばに出でる屋台やたいの、蒲焼かばやきの匂においにどうしても勝かてなかったからです、けれども、おかみさんにみつかって意見いけんされてからは、一いち度どもそんなことはしなかったし、――おかみさんは、このことは誰だれにも云いわないからと、はっきり約束やくそくしてくれたんですよ」

「おかみさんがみつけたのはあとのことだ」と云いって和助わすけはまた栄二えいじをみつめた、「――おめえ、おれがあのころ、帳場ちょうばをやってたことを覚おぼえてるか」

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