狭い土間に立ったまま、袂で顔を掩い、声をころしておすえは泣いた。
「おれはもうだめな人間になっちまった」と栄二は乱暴な口ぶりで云った、「おすえちゃんに顔を見られるのも恥ずかしいんだ、頼むからこのまま帰ってくれ」
「あたし帰れないんです」嗚咽のあいだからおすえが云った、「本町のお店から暇を取って来ちゃったんです」
栄二はおすえがなにを云ったのか、すぐには理解できなかった、「――暇を取ったって、どうして」
「栄さんが一人で」おすえは吃りながら云い直した、「栄さんを一人にしておいてはいけないと思ったからです」
「おすえちゃんは知らないんだ」
「あたし知ってます」
おのぶが灯を入れた行燈を持って来た。
「こんなところに立ってないでおあがんなさいな、いますぐに火も持って来るわ」おのぶはそう云っておすえを促した、「さあ、おあがんなさいってば、寒いわよそんなところに立ってちゃあ」
おすえは栄二の顔色をうかがいながら、そっと小座敷へあがり、隅のほうに坐った。おのぶは火を取りにいこうとして、酒を飲むかときいたが、栄二は黙って頭を横に振った。
「おすえちゃんの知っているというのは、金襴のことか」
おすえはそっと頷いた。
「おれの云うのはそのことじゃないんだ」と栄二は掻巻を躯へひきよせながら云った、「金襴の切がおれの道具袋にはいっていたのはなにかの間違いだ、間違いでないとすれば、誰かが、なにかわけがあって、おれに罪をきせようとしたんだ、どっちにしろそれは、いつかわからずにはいないことだ」
おすえはまた頷いた。
「おれがだめな人間になったというのは、そのことじゃない、そうじゃないんだ」
涙を拭いたあとのうるんだ眼で、おすえはそっと栄二を見た。おのぶが十能に火をのせて来、火鉢へ移して炭をつぐあいだ、栄二は俯向いて黙っていた。少しまえから店のほうに客が来はじめ、土間を出入りする女中たちや、板場から聞えて来るもの音などで、家の中は賑やかに活気づいていた。
「なにか用があったら呼んでちょうだい」とおのぶが云った、「なるべくこっちへは客を入れないようにするから、遠慮しないでね」
ありがとうと栄二が答え、おのぶは去った。栄二はまたくしゃみをし、片手でふところをさぐった。おすえはすぐに察し、袂から紙を取り出して栄二に渡した。彼は二つに折ってある紙の幾枚かを取り、眼を拭いてから洟をかんだ。
「お笑いぐさだな」と彼は自嘲するように云った、「こんなときに風邪をひくなんて」
「少し休まなくてはいけないわ、あたしのうちへゆきましょう」とおすえが云った、「下谷の金杉で筆屋をやっているの、狭いけれど栄さんの寝るとこぐらいはあるわ」
「そうできたらいいんだが、もうおれはだめなんだ」
おすえは強い口ぶりで云った、「だめなもんですか、栄さんはもとのままの栄さんよ、ほかの人はともかく、あたしにはもとのままの栄さんだわ」
「それがそうじゃあねえんだ」
栄二は急にそっぽを向いた。もとのままの自分はもう取り返せない。もとの自分は心も躯もきれいだった。けれども金襴の事があってから、すなおに人が信じられなくなったし、見も知らない女たちと寝て躯もよごれてしまった。人間なんて脆いもんだな、と栄二は思った。ちっぽけな布切一枚のことで、心も躯もこんなに変ってしまう。おれはもう以前のおれじゃあないんだ、と栄二は心の中で云った。
「おすえちゃんがどんな言葉で慰めてくれたって、一旦だめになったおれはもとへ返りゃあしねえ」と彼はそっぽを向いたままで云った、「劬ってくれる気持はうれしいが、おれのことはうっちゃっといてくれ」
「あなたは自分で自分をいじめてるのよ、そんなときがいちばんあぶないんだし、あなたはそのあぶないところにいるのよ、いいえ聞いてちょうだい」とおすえはなお強い調子で続けた、「なまいきなようだけれど、栄さんが綿文の女中部屋で横になっているのを見たとき、あたしすぐに心をきめたの、いまが栄さんにはいちばんあぶないときだ、誰かが側についていてあげなければいけない、さもなければとんでもないことになるって、それであたし、思い切ってお店から暇を取ったの」
「だめだ」栄二は首を振った、「おれにはそんな値打ちはありゃあしねえ、詫びを入れて綿文へ帰るほうがいい」
「あたし栄さんからはなれないわ」、おすえは膝をすすめた、「女の口からこんなこと云うのは恥ずかしいけれど、あたしもうずっとまえから思いこんでいたのよ、どんな苦労をしてもいいから栄さんに貰ってもらおうって、そうしたらさぶさんから、あなたがあたしのことをどう思っているか、っていうことを聞いたの、あたしうれしかったわ」
おすえはまた、袂で顔を掩って咽びあげた。
「さぶのやつが」と栄二は呟いた、「――さぶのやつが」
「ねえ」とおすえがとぎれとぎれなふるえ声で云った、「あたしのうちへいきましょう、あなたはもういちにんまえの職人よ、芳古堂の名がなくったって、自分の腕ひとつで立派にやってゆけるわ、ねえお願い、あたしの云うことをきいてちょうだい、このとおりよ」
おすえは合掌してみせた。栄二が慌てて、よしてくれと手を振ったとき、土間で低い咳が聞え、ごめんよというさぶの声がした。おすえは眼を拭きながらいずまいを直し、栄二は腕組みをした。
「あけてもいいかい」
「念には及ばねえ」と栄二が答えた、「あがれよ」
さぶは障子をあけて、二人を見ないようにしながらあがった。
「気分はどうだい」さぶは火鉢の脇に坐りながら云った、「もっと早く来ようと思ったんだが、おそくなって済まなかった」
栄二はさぶの顔をみつめた、「来るこたあなかったんだ、ここへ来ちゃあいけなかったんだろう」
「そんなこたあねえさ」さぶは眩しそうにまたたきをし、吃りながら云った、「――酒を飲みてえんだが、いけねえか」
「そのまえにきくが」さぶの顔にあらわれた表情から眼をはなさずに、栄二は云った、「おめえ親方からなにか云われてきたんだろう」
「とにかく一杯やりてえんだ」そう云ってから、さぶはいそいで付けたした、「外はおっそろしく寒いんでね、おらあ躯の芯まで冷えちまってるんだ」