← Library‹ さぶ 四の四

狭せまい土間どまに立たったまま、袂たもとで顔かおを掩おおい、声こえをころしておすえは泣ないた。

「おれはもうだめな人間にんげんになっちまった」と栄二えいじは乱暴らんぼうな口くちぶりで云いった、「おすえちゃんに顔かおを見みられるのも恥はずかしいんだ、頼たのむからこのまま帰かえってくれ」

「あたし帰かえれないんです」嗚咽おえつのあいだからおすえが云いった、「本町ほんちょうのお店みせから暇ひまを取とって来きちゃったんです」

栄二えいじはおすえがなにを云いったのか、すぐには理解りかいできなかった、「――暇ひまを取とったって、どうして」

「栄ひさしさんが一人ひとりで」おすえは吃どもりながら云いい直なおした、「栄ひさしさんを一人ひとりにしておいてはいけないと思おもったからです」

「おすえちゃんは知しらないんだ」

「あたし知しってます」

おのぶが灯あかりを入いれた行燈あんどんを持もって来きた。

「こんなところに立たってないでおあがんなさいな、いますぐに火ひも持もって来くるわ」おのぶはそう云いっておすえを促うながした、「さあ、おあがんなさいってば、寒さむいわよそんなところに立たってちゃあ」

おすえは栄二えいじの顔色かおいろをうかがいながら、そっと小こ座敷ざしきへあがり、隅すみのほうに坐すわった。おのぶは火ひを取とりにいこうとして、酒さけを飲のむかときいたが、栄二えいじは黙だまって頭あたまを横よこに振ふった。

「おすえちゃんの知しっているというのは、金襴きんらんのことか」

おすえはそっと頷うなずいた。

「おれの云いうのはそのことじゃないんだ」と栄二えいじは掻巻かいまきを躯むくろへひきよせながら云いった、「金襴きんらんの切きれがおれの道具どうぐ袋ふくろにはいっていたのはなにかの間違まちがいだ、間違まちがいでないとすれば、誰だれかが、なにかわけがあって、おれに罪つみをきせようとしたんだ、どっちにしろそれは、いつかわからずにはいないことだ」

おすえはまた頷うなずいた。

「おれがだめな人間にんげんになったというのは、そのことじゃない、そうじゃないんだ」

涙なみだを拭ふいたあとのうるんだ眼めで、おすえはそっと栄二えいじを見みた。おのぶが十能じゅうのうに火ひをのせて来き、火鉢ひばちへ移うつして炭すみをつぐあいだ、栄二えいじは俯向うつむいて黙だまっていた。少すこしまえから店みせのほうに客きゃくが来きはじめ、土間どまを出入でいりする女中じょちゅうたちや、板場いたばから聞きこえて来くるもの音おとなどで、家いえの中なかは賑にぎやかに活気かっきづいていた。

「なにか用ようがあったら呼よんでちょうだい」とおのぶが云いった、「なるべくこっちへは客きゃくを入いれないようにするから、遠慮えんりょしないでね」

ありがとうと栄二えいじが答こたえ、おのぶは去さった。栄二えいじはまたくしゃみをし、片手かたてでふところをさぐった。おすえはすぐに察さっし、袂たもとから紙かみを取とり出だして栄二えいじに渡わたした。彼かれは二ふたつに折おってある紙かみの幾いく枚まいかを取とり、眼めを拭ふいてから洟はなをかんだ。

「お笑わらいぐさだな」と彼かれは自嘲じちょうするように云いった、「こんなときに風邪かぜをひくなんて」

「少すこし休やすまなくてはいけないわ、あたしのうちへゆきましょう」とおすえが云いった、「下谷したやの金杉かなすぎで筆ふで屋やをやっているの、狭せまいけれど栄さかえさんの寝ねるとこぐらいはあるわ」

「そうできたらいいんだが、もうおれはだめなんだ」

おすえは強つよい口くちぶりで云いった、「だめなもんですか、栄さかえさんはもとのままの栄さかえさんよ、ほかの人ひとはともかく、あたしにはもとのままの栄さかえさんだわ」

「それがそうじゃあねえんだ」

栄二えいじは急きゅうにそっぽを向むいた。もとのままの自分じぶんはもう取とり返かえせない。もとの自分じぶんは心こころも躯むくろもきれいだった。けれども金襴きんらんの事ことがあってから、すなおに人ひとが信しんじられなくなったし、見みも知しらない女おんなたちと寝ねて躯むくろもよごれてしまった。人間にんげんなんて脆もろいもんだな、と栄二えいじは思おもった。ちっぽけな布ぬの切きれ一いち枚まいのことで、心こころも躯むくろもこんなに変かわってしまう。おれはもう以前いぜんのおれじゃあないんだ、と栄二えいじは心こころの中なかで云いった。

「おすえちゃんがどんな言葉ことばで慰なぐさめてくれたって、一旦いったんだめになったおれはもとへ返かえりゃあしねえ」と彼かれはそっぽを向むいたままで云いった、「劬いたわってくれる気持きもちはうれしいが、おれのことはうっちゃっといてくれ」

「あなたは自分じぶんで自分じぶんをいじめてるのよ、そんなときがいちばんあぶないんだし、あなたはそのあぶないところにいるのよ、いいえ聞きいてちょうだい」とおすえはなお強つよい調子ちょうしで続つづけた、「なまいきなようだけれど、栄さかえさんが綿めん文ぶんの女中じょちゅう部屋へやで横よこになっているのを見みたとき、あたしすぐに心こころをきめたの、いまが栄さかえさんにはいちばんあぶないときだ、誰だれかが側がわについていてあげなければいけない、さもなければとんでもないことになるって、それであたし、思おもい切きってお店みせから暇ひまを取とったの」

「だめだ」栄二えいじは首くびを振ふった、「おれにはそんな値打ねうちはありゃあしねえ、詫わびを入いれて綿めん文ぶんへ帰かえるほうがいい」

「あたし栄さかえさんからはなれないわ」、おすえは膝ひざをすすめた、「女おんなの口くちからこんなこと云いうのは恥はずかしいけれど、あたしもうずっとまえから思おもいこんでいたのよ、どんな苦労くろうをしてもいいから栄さかえさんに貰もらってもらおうって、そうしたらさぶさんから、あなたがあたしのことをどう思おもっているか、っていうことを聞きいたの、あたしうれしかったわ」

おすえはまた、袂たもとで顔かおを掩おおって咽むせびあげた。

「さぶのやつが」と栄二えいじは呟つぶやいた、「――さぶのやつが」

「ねえ」とおすえがとぎれとぎれなふるえ声ごえで云いった、「あたしのうちへいきましょう、あなたはもういちにんまえの職人しょくにんよ、芳かおる古こ堂どうの名ながなくったって、自分じぶんの腕うでひとつで立派りっぱにやってゆけるわ、ねえお願ねがい、あたしの云いうことをきいてちょうだい、このとおりよ」

おすえは合掌がっしょうしてみせた。栄二えいじが慌あわてて、よしてくれと手てを振ふったとき、土間どまで低ひくい咳せきが聞きこえ、ごめんよというさぶの声こえがした。おすえは眼めを拭ふきながらいずまいを直なおし、栄二えいじは腕組うでぐみをした。

「あけてもいいかい」

「念ねんには及およばねえ」と栄二えいじが答こたえた、「あがれよ」

さぶは障子しょうじをあけて、二人ふたりを見みないようにしながらあがった。

「気分きぶんはどうだい」さぶは火鉢ひばちの脇わきに坐すわりながら云いった、「もっと早はやく来こようと思おもったんだが、おそくなって済すまなかった」

栄二えいじはさぶの顔かおをみつめた、「来くるこたあなかったんだ、ここへ来きちゃあいけなかったんだろう」

「そんなこたあねえさ」さぶは眩まぶしそうにまたたきをし、吃どもりながら云いった、「――酒さけを飲のみてえんだが、いけねえか」

「そのまえにきくが」さぶの顔かおにあらわれた表情ひょうじょうから眼めをはなさずに、栄二えいじは云いった、「おめえ親方おやかたからなにか云いわれてきたんだろう」

「とにかく一杯いっぱいやりてえんだ」そう云いってから、さぶはいそいで付つけたした、「外そとはおっそろしく寒さむいんでね、おらあ躯むくろの芯しんまで冷ひえちまってるんだ」

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