玄関までの敷石に氷が張っていて、一刻もまえから降りだした小雨にも溶けるようすがなかった。栄二は傘をすぼめて戸袋に立てかけ、格子をあけてはいると、上り端の六帖ではいつもの小僧が、麻の袋を持って板に打ちつけていた。小僧の手はしもやけのため紫色にふくれ、指のところどころに血が滲んでいた。
栄二が取次ぎを頼むと、小僧は立ってゆき、まもなく庄吉という手代が出て来た。
「先日はお騒がせして申し訳がありません」栄二は挨拶をしてからそう云った、「今日は乱暴なまねは決して致しませんから、旦那にちょっとおめにかかりたいんです、おてまはとらせませんからって、そう申上げて下さい」
栄二は土間へ膝をついてもいいと思った。手代は去ってゆき、小僧はまた麻袋を打ちにかかった。こんな火のけもないあがりっぱたで、天下の通用金から僅かばかりの金屑をへずるために、小僧一人をこんなふうに使うとは、これだけの大店として恥ずかしくないのかな、と栄二は思った。
――しょうばいを身につけるんならどんなに辛いことでもいいだろうが、こいつはいわば御法度にそむく罪じゃあねえか、あきんどなんてものはあさましいもんだな。
彼は心の中で唾を吐いた。手代が戻って来て、あがれと云い、次の間の八帖へとおした。そして手代と入れ替りに、番頭の儀兵衛があらわれ、用はなんだと、立ったままできいた。栄二は旦那に会いたいと云った。
「私はこの店の番頭だよ」と儀兵衛は爪楊枝で歯をせせりながら云った、「店のことはなんによらず任されているんだ、用があるなら私が聞きましょう」
栄二はそこへ両手を突いた、「話というのはこのまえの金襴の切のことなんで、どうしても旦那とじかに会ってうかがいてえことがあるんです」
「あれはもう済んだことじゃないか」
「あっしのほうは済んじゃあいません」
「あれは済んだことだ」と云って儀兵衛はやかましい音をさせて歯をすすった、「おまえも長い出入りだったし、まだ先のある躯だから旦那も表沙汰にはなさらなかった、おまえも表具師ならおよその見当はつくだろうが、あれは百両という値のついた名物切だよ、もし旦那が内済にして下さらなかったらどうなったと思う」
「番頭さんまでがあっしのしたことだと思ってるんですか」
「現におまえの道具袋にはいっていたし、みつけたのは旦那だ、ほかにどう考えようがあるんだね」
「だから旦那に会いてえんです」栄二は辛抱づよく云った、「あの切があっしの道具袋になぜはいってたか、あっしにはまったく覚えのねえことなんだ、子供にだってわかるだろうが、もしあっしが本当にやったことなら、道具袋の中なんぞへ入れて、のうのうとしているわけがねえ、もっと人の眼につかねえところへ隠しとく筈です、そうじゃありませんか」
「私たちはあきんどで、吟味役人じゃあないがね、そういう場合にぬすんだ物をどう始末するかは、人によって違うんじゃないか、どっちにしろあの切がおまえの道具袋の中にあったのは間違いのないことなんだから」
「なにがどうあろうと、神かけてあっしのしたことじゃあねえんです、これにはなにかわけがあるに相違ねえんで、どうしても旦那に会ってうかがわなくっちゃあなりません、ぬすみをしたなんて云われちゃあこれからの一生、世間に顔向けがならなくなるんですから」
「そうかい」儀兵衛はやはり立ったままで栄二を見おろし、右手に持っている爪楊枝を二つに折った、「――私で話がつくと思ったんだが、おまえがそう強情を張るんならしようがない、ちょっとそのまま待っておいで」
そして番頭は出ていった。
二人の娘と親しくなりすぎ、娘のどちらかを嫁に貰うなどという噂が立った。現にさぶが多市という兄弟子から聞いたそうである。どこから出た噂かはわからないが、綿文の人たちにも聞えたであろう。そこで彼を遠ざけるために、誰かがそんな手段を考えだしたのだ。主人の徳兵衛か、妻女か、それとも店の誰かが、――栄二はそう推察したし、いまでもそう信じていた。彼は小僧のじぶんに恥ずかしいあやまちを犯した。芳古堂の主婦にみつかって許され、主婦しか知らないと思っていたが、じつは兄弟子の和助や親方までが知っていたという。知っていて、そのとき許してくれた人たちさえ、こんどの事では誰も理解してくれようとしない。却ってまえのことがあるために、こんどもまた彼の仕業だと思いこんでいるようであった。
「このままでは済ませない」と栄二は独り言を呟いた、「どうしたって事実をはっきりさせずにはおけないんだ」
まもなく人の足音が近づいて来、襖をあけて三人の男たちがあらわれた。番頭でもなし店の者でもない、三人とも「い組」の印半纏に腹掛、ずんどうに紺の股引をはいている。二人は二十五、六、一人は四十がらみで、半纏の衿には「頭」という字が染め抜いてあった。町内の頭だな、と栄二は思った。
「おめえが」とその頭が云った、「――このお店へ因縁をつけに来た野郎か」
「冗談じゃない、因縁だなんて」栄二はおどろいて吃った、「あっしはただ旦那に会わしてもらって」
「立ちな、若えの」と頭は顎をしゃくった、「ここで論判するこたあねえ、話があるんなら外へ出てから聞こう」
番頭はこの男たちを呼んだのだ。主人の指図かもしれないが、卑怯なことをするものだと思うと、栄二は怒りのために躯がふるえてきた。
「いやだ」と彼は怒りを抑えて云った、「あっしは旦那に会うまではここを動かない、人間ひとりの一生にかかわることなんだ、おまえさんは知らないだろうが」
「立たせろ」と頭は若い者たちに云った、「お店へご迷惑だ、ひきずり出せ」
栄二はあぐらをかいて居坐り、腕組みをした。梃子でも動くものかと肚をきめたが、若い者二人は静かに左右へ寄って来、温和しくしろよと云いながら、栄二の腕を二人で掴んで引っ立てた。振り放そうとしたが二人の力にはかなわず、そのまま玄関までひきずられていった。麻袋を打っていた小僧はびっくりしてとびのき、栄二はかっとのぼせた。