← Library‹ さぶ 五の五

もっこ部屋へやには人足にんそくが二十にじゅう三さん人にんいた。金太きんたと栄二えいじが加くわわったから二十にじゅう五ご人にんになったわけで、伝七でんしち、倉くら太ふとし、才さい次つぎという三さん人にんが小頭こがしらであった。伝七でんしちは五十ごじゅう五、六ごろく、倉くら太ふとしは四十よんじゅう七なな、八はち、才さい次つぎは二十にじゅう八はち、九きゅうだろう、三さん人にんとも本職ほんしょくの土方どかたあがりであり、ともに伝馬町てんまちょうの大牢たいろうにいた、ということを誇ほこりにしているようであった。

小頭こがしらたちは栄二えいじのことをぶしゅうと呼よんだ。武州ぶしゅうの産さんという意いだろう。町まち奉行ぶぎょうなどの手てにかかって、名なをなのらずに済すむという筈はずはない。おそらく、青木あおきという二人ふたりの与力よりきが、なにか考かんがえるところがあって特別とくべつな扱あつかいにしたのであろう。それはこの寄場よせばの役人やくにんにも通告つうこくされ、さらにもっこ部屋へやの小頭こがしらたちにも耳打みみうちされたようで、口くちでは悪わるく云いったり、いろいろあてつけがましいことをしたりするが、暴力ぼうりょくをふるうとか、むりに仕事しごとを押おしつけるようなことはないし、栄二えいじが意地いじになって反抗はんこうしても、かれらのほうで相手あいてにならなかった。

初はじめの五十ごじゅう余日よじつは、寄場よせばの南みなみの護岸ごがん工事こうじをやらされた。この石川島いしかわじまはほぼ三角さんかく形けいで、東ひがしに石川いしかわ大隅守おおすみのかみの屋敷やしき、西にしに佃島つくだじまが、それぞれ堀ほりを隔へだててあり、北きたが大川口おおかわぐち、南みなみには海うみがひろがっていた。大川おおかわ口くちのほうは舟松町ふなまつちょう、十じゅう軒けん町ちょう、明石町あかしちょうなどの町家まちやが、広ひろい川かわのかなたに平ひらべったく並ならんでいた。――その北きたに面めんしたほうに舟着ふなつきと門もんがあり、門もんの左右さゆうに収容しゅうよう者しゃたちの長屋ながやが建たっている。長屋ながやは東側ひがしがわにもあり、そこには湯ゆ舎しゃも設もうけられていた。門もんからはいると正面しょうめんに役所やくしょと役人やくにんたちの居住きょじゅうする家いえがあり、ほぼ三角さんかく形けいの中庭なかにわのかなたに、見張みはりの番所ばんしょがぽつんと建たっていた。それはこの地ち内ないの中央ちゅうおうで、人足にんそくたちの動静どうせいを看視かんしするのにもっとも都合つごうのいい位置いちにあった。

護岸ごがん工事こうじをする南端なんたんは、この島しまではもっとも狭せまく、端はしから端はしまで約やく五十ごじゅう間けんあまりしかなかった。海うみは遠浅とおあさで、干潮かんちょうのときには平生へいぜいでも二、三にさん町ちょうは底そこがあらわれるし、月つきの初はじめと満月まんげつの前後ぜんごには十じゅう四よん、五ご町ちょうも水みずが退ひいた。――島しまの他ほかの三さん方ほうは石垣いしがきを組くんであるが、その南端なんたんは海うみの波なみをじかにかぶるので、三さん年ねんに一いち度どくらいは暴風ぼうふう雨うのために崩くずされるという。こんどはそんなことのないようにと、水際みずぎわを十じゅう尺しゃく以上いじょうも掘ほり、杉すぎ丸太まるたの杭くいを深ふかく打うち込こんで、地固じがためから頑丈がんじょうに工事こうじを進すすめた。

もっこ部屋へやへはいって四、五しご日にちしたころ、栄二えいじは人足にんそくなかまの一人ひとりに注意ちゅういをひかれた。二十にじゅう八はち、九きゅうになる男おとこで、顎あごのそげたような顔かおに、頬ほおが尖とがり、誰だれにでもあいそ笑わらいをし、とりいるような口くちをきく。くぼんだ眼めはおちつきなく、絶たえまなしにあたりを見みまわしているくせに、人ひとの顔かおをまともに見みることはなかった。

――どこかで見みた顔かおだな、と栄二えいじは心こころの中なかで呟つぶやいた。慥たしかに見覚みおぼえのある顔かおだぞ。

まもなくその男おとこが次郎吉じろきちという名なだとわかったが、どこで会あったかは思おもいだせなかった。そうしてやがて、与平よへいという男おとこと近ちかしくなり、次郎吉じろきちのことは忘わすれてしまった。

「私わたくしは与平よへいという者ものです」と男おとこのほうから話はなしかけてきた、「おまえさんはここへ来きてからもう半月はんつき以上いじょうにもなるのに、誰だれとも口くちをききませんね、なにかわけがあるんでしょうが、あんまり黙だまっているのも躯むくろのために毒どくですよ」

工事こうじ場じょうで休やすみのときのことだった。栄二えいじが積つんである石材せきざいによりかかって、早春そうしゅんの凪ないだ海うみを眺ながめていた。与平よへいはそこへ話はなしかけてきたのだが、栄二えいじは返辞へんじもせず、振ふり向むいて見みようともしなかった。

「こんな話はなしをするのは初はじめてだが、私わたくしは女房にょうぼうを殺ころしそくないましてね」と与平よへいは独ひとり言ごとのように云いった、「――八はち年ねんもまえのことです、芝しばの金杉かなすぎのほうで、小ちいさな呉服ごふく屋やをやっていました、小ちいさな店みせですがわりかた繁昌はんじょうしていまして、私わたくしは小僧こぞうから奉公ほうこうにあがり、そのうちの娘むすめの婿むこになったんです」

栄二えいじは黙だまって聞きいていた。女房にょうぼうを殺ころしそこなったという言葉ことばに、つい心こころをひかれたのである。珍めずらしいことではない、家付いえつきの気きの強つよい女房にょうぼうと、小僧こぞうあがりの小心しょうしんな婿むこ。十じゅう年ねんの余あまりも稼かせぎに稼かせいで、子供こどもが三さん人にんもできたのに、亭主ていしゅらしい扱あつかいをされたことは一いち度どもなく、朝あさから晩ばんまで頭あたまごなしにどなられ、追おい使つかわれた。子供こどもたちさえも「おとっちゃんのぐず」と呼よび、食事しょくじは小僧こぞう時代じだいと同おなじように、勝手かっての板いたの間まで喰たべさせられた。

「女房にょうぼうだけが悪わるかったんじゃないでしょう、つまり夫婦ふうふになってはいけない者ものどうしが、間違まちがっていっしょになったので、いま考かんがえると女房にょうぼうもさぞやりきれなかっただろうと思おもいますよ、ええ」与平よへいは長ながい溜息ためいきをついて云いった、「――けれどもそのじぶんは、そんなことは考かんがえやあしません、にんげん誰だれしも、考かんがえることは自分じぶんが中心ちゅうしんですからね、他人たにんの痛いたみは三さん年ねんでも辛抱しんぼうするが、自分じぶんの痛いたみにはがまんができないって、よく云いうでしょう、私わたくしも或ある日ひ、とうとう辛抱しんぼうをきらしました」

だがそのとき休やすみの刻限こくげんになり、与平よへいの話はなしは中断ちゅうだんされた。

次つぎの日ひは雨あめで、工事こうじは休やすみになり、もっこ部屋へやの人足にんそくたちの半数はんすうが、矢来やらいの修理しゅうりに出だされた。この島しまの岸きしに沿そって、高たかさ九きゅう尺しゃくの矢来やらいがまわしてあり、古ふるくなったところを取替とりかえるのである。命めいじに来きたのは差さ配役はいやくの松田まつだ権蔵ごんぞうで、人足にんそくたちをねめつけながら、大おおきなしゃがれ声ごえで喚わめきたてた。いかにも赤鬼あかおにという仇名あだなにふさわしく、栄二えいじは「こいつは案外あんがいお人ひと好よしだな」と思おもいながら、彼かれの見みている前まえで仰向あおむけに倒たおれ、両手りょうてを頭あたまのうしろで組くんで、あけっぴろげに大欠伸おおあくびをした。

「おい、そこの若わかぞう」と松田まつだはずんぐりした太ふとい指ゆびで、栄二えいじを突つき刺さすように指ゆびさした。その顔かおが赤あかくなり、眼めがとびだしそうに大おおきくなったが、相手あいてが栄二えいじだということを認みとめると、急きゅうにその指ゆびを他ほかの人足にんそくたちのほうへ向むけ、さらに大おおきな声こえで喚わめきたてた、「――ええいこののら犬いぬども、さっさと立たたねえか、ぐずらぐずらしていると手てぶしょうぶっ挫くじいてくれるぞ」

栄二えいじは鼻はなで笑わらった。

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