もっこ部屋には人足が二十三人いた。金太と栄二が加わったから二十五人になったわけで、伝七、倉太、才次という三人が小頭であった。伝七は五十五、六、倉太は四十七、八、才次は二十八、九だろう、三人とも本職の土方あがりであり、ともに伝馬町の大牢にいた、ということを誇りにしているようであった。
小頭たちは栄二のことをぶしゅうと呼んだ。武州の産という意だろう。町奉行などの手にかかって、名をなのらずに済むという筈はない。おそらく、青木という二人の与力が、なにか考えるところがあって特別な扱いにしたのであろう。それはこの寄場の役人にも通告され、さらにもっこ部屋の小頭たちにも耳打ちされたようで、口では悪く云ったり、いろいろあてつけがましいことをしたりするが、暴力をふるうとか、むりに仕事を押しつけるようなことはないし、栄二が意地になって反抗しても、かれらのほうで相手にならなかった。
初めの五十余日は、寄場の南の護岸工事をやらされた。この石川島はほぼ三角形で、東に石川大隅守の屋敷、西に佃島が、それぞれ堀を隔ててあり、北が大川口、南には海がひろがっていた。大川口のほうは舟松町、十軒町、明石町などの町家が、広い川のかなたに平べったく並んでいた。――その北に面したほうに舟着きと門があり、門の左右に収容者たちの長屋が建っている。長屋は東側にもあり、そこには湯舎も設けられていた。門からはいると正面に役所と役人たちの居住する家があり、ほぼ三角形の中庭のかなたに、見張りの番所がぽつんと建っていた。それはこの地内の中央で、人足たちの動静を看視するのにもっとも都合のいい位置にあった。
護岸工事をする南端は、この島ではもっとも狭く、端から端まで約五十間あまりしかなかった。海は遠浅で、干潮のときには平生でも二、三町は底があらわれるし、月の初めと満月の前後には十四、五町も水が退いた。――島の他の三方は石垣を組んであるが、その南端は海の波をじかにかぶるので、三年に一度くらいは暴風雨のために崩されるという。こんどはそんなことのないようにと、水際を十尺以上も掘り、杉丸太の杭を深く打ち込んで、地固めから頑丈に工事を進めた。
もっこ部屋へはいって四、五日したころ、栄二は人足なかまの一人に注意をひかれた。二十八、九になる男で、顎のそげたような顔に、頬が尖り、誰にでもあいそ笑いをし、とりいるような口をきく。くぼんだ眼はおちつきなく、絶えまなしにあたりを見まわしているくせに、人の顔をまともに見ることはなかった。
――どこかで見た顔だな、と栄二は心の中で呟いた。慥かに見覚えのある顔だぞ。
まもなくその男が次郎吉という名だとわかったが、どこで会ったかは思いだせなかった。そうしてやがて、与平という男と近しくなり、次郎吉のことは忘れてしまった。
「私は与平という者です」と男のほうから話しかけてきた、「おまえさんはここへ来てからもう半月以上にもなるのに、誰とも口をききませんね、なにかわけがあるんでしょうが、あんまり黙っているのも躯のために毒ですよ」
工事場で休みのときのことだった。栄二が積んである石材によりかかって、早春の凪いだ海を眺めていた。与平はそこへ話しかけてきたのだが、栄二は返辞もせず、振り向いて見ようともしなかった。
「こんな話をするのは初めてだが、私は女房を殺しそくないましてね」と与平は独り言のように云った、「――八年もまえのことです、芝の金杉のほうで、小さな呉服屋をやっていました、小さな店ですがわりかた繁昌していまして、私は小僧から奉公にあがり、そのうちの娘の婿になったんです」
栄二は黙って聞いていた。女房を殺しそこなったという言葉に、つい心をひかれたのである。珍しいことではない、家付きの気の強い女房と、小僧あがりの小心な婿。十年の余も稼ぎに稼いで、子供が三人もできたのに、亭主らしい扱いをされたことは一度もなく、朝から晩まで頭ごなしにどなられ、追い使われた。子供たちさえも「おとっちゃんのぐず」と呼び、食事は小僧時代と同じように、勝手の板の間で喰べさせられた。
「女房だけが悪かったんじゃないでしょう、つまり夫婦になってはいけない者どうしが、間違っていっしょになったので、いま考えると女房もさぞやりきれなかっただろうと思いますよ、ええ」与平は長い溜息をついて云った、「――けれどもそのじぶんは、そんなことは考えやあしません、にんげん誰しも、考えることは自分が中心ですからね、他人の痛みは三年でも辛抱するが、自分の痛みにはがまんができないって、よく云うでしょう、私も或る日、とうとう辛抱をきらしました」
だがそのとき休みの刻限になり、与平の話は中断された。
次の日は雨で、工事は休みになり、もっこ部屋の人足たちの半数が、矢来の修理に出された。この島の岸に沿って、高さ九尺の矢来がまわしてあり、古くなったところを取替えるのである。命じに来たのは差配役の松田権蔵で、人足たちをねめつけながら、大きなしゃがれ声で喚きたてた。いかにも赤鬼という仇名にふさわしく、栄二は「こいつは案外お人好しだな」と思いながら、彼の見ている前で仰向けに倒れ、両手を頭のうしろで組んで、あけっぴろげに大欠伸をした。
「おい、そこの若ぞう」と松田はずんぐりした太い指で、栄二を突き刺すように指さした。その顔が赤くなり、眼がとびだしそうに大きくなったが、相手が栄二だということを認めると、急にその指を他の人足たちのほうへ向け、さらに大きな声で喚きたてた、「――ええいこののら犬ども、さっさと立たねえか、ぐずらぐずらしていると手ぶしょうぶっ挫いてくれるぞ」
栄二は鼻で笑った。