← Library‹ さぶ 八の二

元締もとじめ同心どうしんが自分じぶんで来きたのは、否応いやおうを云いわせないためだろう。そう察さっしたので栄二えいじは返辞へんじをしなかった。岡安おかやす喜兵衛きへえが振ふり向むくと、定番じょうばんの下した役人やくにんがはいって来きて、栄二えいじの手鎖てぐさりの鍵かぎを外はずした。

「ひどい蚊かではないか」と岡安おかやすが下か役人やくにんに云いった、「蚊遣かやりを焚たいてやれ」

下か役人やくにんは訝いぶかしそうな顔かおをした。押おし籠こめちゅうの者ものにそんなことをする例れいはないからだ。岡安おかやすはもういちど「焚たいてやれ」と云いい、栄二えいじに頷うなずいて外そとへ出でた。栄二えいじはそのあとからついてゆきながら、左右さゆうの手首てくびを代かわる代がわる擦こすった。手鎖てじょうの当あたるところにあせもができているのである。中庭なかにわの広場ひろばには仕事しごとを終おわった人足にんそくたちがいて、栄二えいじのほうを同情どうじょうするように見み、中なかには目礼もくれいする者ものもあった。

門番もんばん小屋こやかと思おもったが、連つれてゆかれたのは役所やくしょの建物たてものに属ぞくする小しょう座敷ざしきであった。縁側えんがわからあがり、左ひだりへ中ちゅう廊下ろうかをはいったすぐ右側みぎがわで、そこにおすえが坐すわっていた。こまかく木この葉はを染そめた単衣ひとえに、茶色ちゃいろの無地むじのひとえ帯たい、髪かみは油あぶらけなしのたばね髪かみで、僅わずかなあいだに面変おもがわりのするほど陽ひにやけていたが、栄二えいじはすぐにおすえだということがわかった。

「今日きょうは意地いじを張はるな」と岡安おかやすが云いった、「女おんなの身みで寄場よせばなどへ会あいに来きたのだ、そこをよく考かんがえてやれ、いいか」

呼よびに来くるまでゆっくり話はなせ、と云いって岡安おかやすは去さった。その小しょう座敷ざしきは東ひがしに窓まど、左右さゆうは壁かべで、中ちゅう廊下ろうかに面めんした障子しょうじと窓まどとはあけてあるが、風かぜはあまりはいらず、かなり暑あつくるしかった。そこに団扇うちわが出だしてあったけれど、おすえは手てに取とったようすもなく、脇わきに風呂敷ふろしき包つつみを置おき、きちんと坐すわっていた。

「暫しばらくでした」おすえは俯向うつむいたままでそっと頭あたまをさげた、「お達者たっしゃでしたか」

「こんなところへ来きちゃあいけない」と栄二えいじが低ひくい声こえで云いった、「おれはもうおまえの知しっている人間にんげんじゃあない。二に度どと来くるな」

「さぶちゃんから手紙てがみがきて、それでようやくここがわかったんです」おすえは栄二えいじの言葉ことばを聞ききながして云いった、「――五ご月がつのはじめにさぶちゃんは脚気かっけになって、葛西かさいのうちへ養生ようじょうに帰かえってるんですって、すぐに治なおると思おもったらこんどは腹はらを病やんで、まだ暫しばらくは出であるけそうもないということなんです」

それで栄二えいじのところへもゆけないから、これこれの品しなを揃そろえて届とどけてもらいたい、と書かいて来きたそうである。おすえは話はなしながら包つつみをあけて、肌着はだぎや下帯したおびや、くだもの菓子かしの折おりなどをそこへ並ならべたが、初はじめて顔かおをあげて栄二えいじをみつめながら、あんまりよ栄ひさしさん、と囁ささやき声ごえで叫さけんだ。

「どうして」とおすえは吃どもった、「――ここにいるっていうこと、どうしてひと言ことも知しらせてくれなかったの」

「おれはお上かみの不浄ふじょうな繩なわにかかった躯むくろだ」

「栄ひさしさんの罪つみじゃないでしょ」

栄二えいじは顔かおをひき緊しめた、「――なんだって」

「さぶちゃんが詳くわしく書かいてきたわ」おすえは昂奮こうふんのために乾かわいた唇くちびるを舐なめ、思おもうように舌したが動うごかないのをもどかしがるような、せきこんだ口くちぶりで云いった、「――あんたがみえなくなってから、さぶちゃんは仕事しごとの暇ひまをみてあんたを捜さがしまわったのよ、あたしはあんたに云いわれたとおり、金杉かなすぎのうちへ帰かえってたわ、ええ、あんたの荷物にもつやお金かねも金杉かなすぎのうちで大事だいじに預あずかってます」

さぶは心配しんぱいさせまいと思おもって、栄二えいじが行方ゆくえ不明ふめいだということをおすえには知しらせなかった。そして休やすみの日ひや仕事しごとの終おわったあと、心当こころあたりを飽あきずにたずね廻まわったが、綿文わたぶんがよっぽど周到しゅうとうに手てを打うったのだろう、まるで煙けむりになって消きえでもしたように、栄二えいじの消息しょうそくはどこでもつかむことができなかった。

「あたしのうちへも来きてくれました」とおすえは続つづけた、「あたしのほうになにか知しらせがありはしないかと、ようすをみに来きたんでしょうけれど、そんなそぶりはこれっぽっちもみせないで、栄さかえさんは息抜いきぬきをするために上方かみがたのほうへいっているなんて、さもさも本当ほんとうらしく云いってあたしを安心あんしんさせようとしていたんです」

そうするうちに正月しょうがつ、二に月がつと過すぎて三さん月がつ二ふた日か、宵節句よいぜっくに綿めん文ぶんから招まねきがあり、主人しゅじんの芳兵衛よしべえの供ともでさぶが本町ほんちょうのお店たなへいった。さぶも供待ともまちで白酒しろざけやすしの御ご馳走ちそうになったが、そのとき小僧こぞうの一人ひとりが口くちをすべらし暮くれの雪ゆきの日ひに栄二えいじが来きて、町内ちょうないの頭あたまのために踏ふんだり蹴けったりされたうえ、番小屋ばんごやへ突つき出だされた、ということがわかった。それから番太ばんたをたずねたが、言葉ことばを濁にごしてなかなか事実じじつを語かたらない。やむを得えずさぶは八丁堀はっちょうぼりへいって、町廻まちまわりの役人やくにんに助力じょりょくを願ねがい出でた。

「すると、与力よりきの青木あおきさんていう人ひとが栄さかえさんのことを知しっていて、青木あおきさんのほうでもあんたの身許みもとを捜さがしていたんですって、そして、栄さかえさんがここにいること、すっかり片かた意地いじになって誰だれとも口くちをきかないこと、島しまから出だせばどんな間違まちがいをしでかすかもしれない、っていうことなんぞ話はなしてくれたんですって」

どうしてそんなことになったか、与力よりきにもわかっていなかった。それでさぶは浅草あさくさの香こう和わ堂どうをたずねた。和助わすけも初はじめはまるっきり相手あいてにならなかったが、さぶの熱心ねっしんさに負まけたのだろう、ついに金襴きんらんの切きれのいきさつを語かたった。

「栄ひさしさんがそんなことをする道理どうりはない、たとえ氷こおりに火ひのつくことがあっても、栄さかえさんがそんなことをする筈はずはないって、さぶちゃんは念ねんを入いれて書かいてきたわ」

「切きれはおれの道具どうぐ袋ふくろにはいっていたんだ」と栄二えいじは冷笑れいしょうするように云いった、「自分じぶんの眼めで見みたわけじゃあないが、綿めん文ぶんほどの旦那だんながそんなことで嘘うそは云いわねえだろう、さぶがどんなにいきまいたって誰だれが信用しんようするもんか」

「そんなこと構かまえやしないわ」とおすえは強つよい調子ちょうしで云いった、「さぶちゃんはそう信しんじてるし、あたしだって栄ひさしさんを信しんじてるんですもの、そう思おもいたい人ひとには勝手かってに思おもわしとけばいいじゃありませんか」

「おめえは知しらねえからだ」

おすえは大おおきな眼めで、またたきをしながら栄二えいじの顔かおをみつめた。これまで胸むねにたたみこんだまま、あの出来事できごとについては誰だれにも云いわなかった。云いってもむだだとわかっていたし、話はなしてみても取返とりかえしのつくことではないからだ。けれどもいま、おすえの大おおきな眼めでみつめられたとたん、彼かれはなにもかも話はなしてしまいたいという、抑おさえがたい衝動しょうどうに駆かられた。

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