元締同心が自分で来たのは、否応を云わせないためだろう。そう察したので栄二は返辞をしなかった。岡安喜兵衛が振り向くと、定番の下役人がはいって来て、栄二の手鎖の鍵を外した。
「ひどい蚊ではないか」と岡安が下役人に云った、「蚊遣りを焚いてやれ」
下役人は訝しそうな顔をした。押籠めちゅうの者にそんなことをする例はないからだ。岡安はもういちど「焚いてやれ」と云い、栄二に頷いて外へ出た。栄二はそのあとからついてゆきながら、左右の手首を代る代る擦った。手鎖の当るところにあせもができているのである。中庭の広場には仕事を終った人足たちがいて、栄二のほうを同情するように見、中には目礼する者もあった。
門番小屋かと思ったが、連れてゆかれたのは役所の建物に属する小座敷であった。縁側からあがり、左へ中廊下をはいったすぐ右側で、そこにおすえが坐っていた。こまかく木の葉を染めた単衣に、茶色の無地のひとえ帯、髪は油けなしのたばね髪で、僅かなあいだに面変りのするほど陽にやけていたが、栄二はすぐにおすえだということがわかった。
「今日は意地を張るな」と岡安が云った、「女の身で寄場などへ会いに来たのだ、そこをよく考えてやれ、いいか」
呼びに来るまでゆっくり話せ、と云って岡安は去った。その小座敷は東に窓、左右は壁で、中廊下に面した障子と窓とはあけてあるが、風はあまりはいらず、かなり暑くるしかった。そこに団扇が出してあったけれど、おすえは手に取ったようすもなく、脇に風呂敷包みを置き、きちんと坐っていた。
「暫くでした」おすえは俯向いたままでそっと頭をさげた、「お達者でしたか」
「こんなところへ来ちゃあいけない」と栄二が低い声で云った、「おれはもうおまえの知っている人間じゃあない。二度と来るな」
「さぶちゃんから手紙がきて、それでようやくここがわかったんです」おすえは栄二の言葉を聞きながして云った、「――五月のはじめにさぶちゃんは脚気になって、葛西のうちへ養生に帰ってるんですって、すぐに治ると思ったらこんどは腹を病んで、まだ暫くは出あるけそうもないということなんです」
それで栄二のところへもゆけないから、これこれの品を揃えて届けてもらいたい、と書いて来たそうである。おすえは話しながら包みをあけて、肌着や下帯や、くだもの菓子の折などをそこへ並べたが、初めて顔をあげて栄二をみつめながら、あんまりよ栄さん、と囁き声で叫んだ。
「どうして」とおすえは吃った、「――ここにいるっていうこと、どうしてひと言も知らせてくれなかったの」
「おれはお上の不浄な繩にかかった躯だ」
「栄さんの罪じゃないでしょ」
栄二は顔をひき緊めた、「――なんだって」
「さぶちゃんが詳しく書いてきたわ」おすえは昂奮のために乾いた唇を舐め、思うように舌が動かないのをもどかしがるような、せきこんだ口ぶりで云った、「――あんたがみえなくなってから、さぶちゃんは仕事の暇をみてあんたを捜しまわったのよ、あたしはあんたに云われたとおり、金杉のうちへ帰ってたわ、ええ、あんたの荷物やお金も金杉のうちで大事に預かってます」
さぶは心配させまいと思って、栄二が行方不明だということをおすえには知らせなかった。そして休みの日や仕事の終ったあと、心当りを飽きずにたずね廻ったが、綿文がよっぽど周到に手を打ったのだろう、まるで煙になって消えでもしたように、栄二の消息はどこでもつかむことができなかった。
「あたしのうちへも来てくれました」とおすえは続けた、「あたしのほうになにか知らせがありはしないかと、ようすをみに来たんでしょうけれど、そんなそぶりはこれっぽっちもみせないで、栄さんは息抜きをするために上方のほうへいっているなんて、さもさも本当らしく云ってあたしを安心させようとしていたんです」
そうするうちに正月、二月と過ぎて三月二日、宵節句に綿文から招きがあり、主人の芳兵衛の供でさぶが本町のお店へいった。さぶも供待ちで白酒やすしの御馳走になったが、そのとき小僧の一人が口をすべらし暮の雪の日に栄二が来て、町内の頭のために踏んだり蹴ったりされたうえ、番小屋へ突き出された、ということがわかった。それから番太をたずねたが、言葉を濁してなかなか事実を語らない。やむを得ずさぶは八丁堀へいって、町廻りの役人に助力を願い出た。
「すると、与力の青木さんていう人が栄さんのことを知っていて、青木さんのほうでもあんたの身許を捜していたんですって、そして、栄さんがここにいること、すっかり片意地になって誰とも口をきかないこと、島から出せばどんな間違いをしでかすかもしれない、っていうことなんぞ話してくれたんですって」
どうしてそんなことになったか、与力にもわかっていなかった。それでさぶは浅草の香和堂をたずねた。和助も初めはまるっきり相手にならなかったが、さぶの熱心さに負けたのだろう、ついに金襴の切のいきさつを語った。
「栄さんがそんなことをする道理はない、たとえ氷に火のつくことがあっても、栄さんがそんなことをする筈はないって、さぶちゃんは念を入れて書いてきたわ」
「切はおれの道具袋にはいっていたんだ」と栄二は冷笑するように云った、「自分の眼で見たわけじゃあないが、綿文ほどの旦那がそんなことで嘘は云わねえだろう、さぶがどんなにいきまいたって誰が信用するもんか」
「そんなこと構やしないわ」とおすえは強い調子で云った、「さぶちゃんはそう信じてるし、あたしだって栄さんを信じてるんですもの、そう思いたい人には勝手に思わしとけばいいじゃありませんか」
「おめえは知らねえからだ」
おすえは大きな眼で、またたきをしながら栄二の顔をみつめた。これまで胸にたたみこんだまま、あの出来事については誰にも云わなかった。云ってもむだだとわかっていたし、話してみても取返しのつくことではないからだ。けれどもいま、おすえの大きな眼でみつめられたとたん、彼はなにもかも話してしまいたいという、抑えがたい衝動に駆られた。