まっさきに外へとびだした男が、「水だ」と叫んだ。風に吹き千切られてよく聞えなかったが、続いて出てゆく者がみな「水だ水だ」と喚きたてた。それを聞いて、出るのをためらった者が数人、戸口で迷っているとき長屋の建物が大きく揺れあがり、木の引き裂ける音が次々と起こって、端のほうから、あっけないほど脆く倒壊した。
栄二はいちばんあとから出るつもりで、その数人の者と戸口にいたが、木の裂ける音を聞いたので、「こいつは倒れるぞ、出ろ」と云って、二人か三人を押しやりながら戸外へとびだした。倒壊する建物の庇あたりが、彼の背をかすったほど危ない一瞬であった。外は足のくるぶしを越す水で、突風の来るたび、その水面から白くしぶきの飛ぶのが、闇をとおしてはっきり見えた。――長屋の他の部屋の者たちも出ていて、なにか叫びあう声はするが、風の唸りに消されてまったく聞きとれなかった。役所も見張小屋もまっ暗で見えず、水はぐんぐん増していて、もう脛の半ばにまで深くなった。
「手を貸してくれ」と誰かが叫んだ、「倒れたうちの中に誰かいるぞ」
栄二は振り向いた、「本当か、誰だ」
「誰だかわからないが、おれのうしろにいたやつが一人逃げおくれたんだ」とその男は云った、「それ、声がするだろう」
風は南なのに、長屋は西南のほう、つまり手前のほうへ倒れていた。ちょうど押している力がゆるんだとたん、北東へかしいでいたのが前のめりになったという感じであるが、耳を近づけてみると、倒れた屋根の下から、人の喚いている声が聞えた。
「手を貸してくれ」と栄二が叫んだ、「人がつぶされてるんだ、早く」
幾人かが駆けよって来た。
「おい、しっかりしろ」と栄二は壊れた建物の下へ向って絶叫した、「いま出してやるぞ、しっかりしろよ」
彼は聞えてくる声で見当をつけ、手に触れる板や柱を取って投げた。幾人かが栄二にならって残骸を取りのけにかかったが、建っているときには柱へ板を打ちつけたばかりの、ごく雑な小屋のようにしかみえなかったのに、いざ片づけるとなると、その柱や板の量の多いのと重いことにおどろいた。
「おい集まれ」という赤鬼の声が聞えた、「病人を移すんだ、役所のほうへ」
栄二は太い角柱にとりついていた。戸口の一本らしい。万吉が丸太を持って来て、こいつを梃子にしようと云った。丸太の下へかう物がみ当らないので、万吉はその一端を角柱の下へ突込み、一端へ自分の肩を入れてりきんだ。どこかでまた家が倒れたのだろう、木の裂ける音や鈍い地響きや、人の悲鳴などが聞えた。
「だめだ」と万吉が云った、「この柱あびくともしねえぜ」
「こいつをどけなくっちゃあどうにもならねえ」と栄二が云い返した、「もうひとふんばりやってみろ、さあ」
角柱は意外に重く、そのうえ壊れた板や梁木などがかぶさっているため、よういに動くけしきがなかった。そこへ二人ばかり走り寄って、万吉といっしょに丸太を担ぎあげた。
「みんな集まれ」という松田権蔵の叫び声が聞えた、「こっちだ、役所の前だぞ」
烈風は水しぶきをともなっていて、みんなの顔や手へ痛いほど叩きつけた。
「雨じゃねえ、こいつは海の水だ」と誰かがどなった、「みろよ、塩っかれえぞ」
角柱が動き、丸太の梃子にとりついていた三人が転びそうになった。栄二は角柱を押しやり、その下の板きれを掻きのけながら、大丈夫か、どっちだ、と呼びかけた。
「ここだ、早くしてくれ」と板きれの下から返辞が聞えた、「早く頼む、溺れそうだ」
そう云われて気がつくと、水はもう膝まできていた。いそげ、と万吉がどなり、四人は夢中で板きれや桟の折れなどを取りのけた。赤鬼の松田が水をはねとばしながらやって来て、なにをしているくそ野郎、集まれというのが聞えないのか、と喚きたてた。さっきからよほど喚いたりどなりつけたりしたのだろう、その声はすっかりしゃがれて、風邪をひいたでろれん左衛門のように聞えた。
「人がつぶされてるんだ」と栄二がどなり返した、「手伝ってくれ」
「よりによってこんなときにつぶされるなんて」と松田は毒づいた、「よっぽどうすのろのかぼちゃ野郎のでくの坊だな、誰だ」
毒づきながらも進んで手伝い、どうやら男を救い出した。それは金太で、柱と柱の組み合った下で四ん這いになってい、水をよけるため横に捻った顔の半分が水につかっていた。
「あぶなかったな」と万吉が助け起こしてやりながら云った、「もうひと息ってとこだったじゃねえか、十両がとこ拾ったような心持だろう」
「済まねえ、みんなありがとよ」金太は水びたしの髪を手で押えながら幾たびも頭をさげた、「おらもうだめかと思った」
「さあいそげ」松田が手を振った、「ぐずぐずするんじゃあねえ、役所の前へ集まるんだ」
いっしょにあるきだしながら、栄二は初めて恐怖を感じた。これは大変だぞと思った。この島はもと洲だったのである、大川から吐きだされる土砂が溜って洲となり、そこへ土入れをして島にしたものだ。これまでにさえ膝につく水があがっているから、風がこれ以上吹き続けば、島ぜんたいが水の下になるかもしれない。栄二がそう思ったとき誰かが、上げ潮はいつだと叫んだ。
「明けの七つ(午前四時)ごろだ」と叫び返すのが聞えた、「だがいまはなん刻だ」
八つだろうと答える者があり、ほかの声は聞えなかった。役所の前は水が浅く、足のくるぶしまであるかなしかで、そこには人が犇いてい、縁側には役人たちと、寄場奉行の姿も見えた。油紙を張った箱提灯は風から囲ってあるため、役人たちの姿は見えるが、中庭のほうへは光がささなかった。
「みんな揃ったか」と縁側の上から岡安喜兵衛が云った、「女はどこにいる」
こちらに揃っていますという答えが、人の群れの端のほうで聞えた。
「男どももみな揃いました」と松田権蔵がどなった、「数を読みますか」
「揃っておればよし」と岡安が云った、「これから御奉行のお話がある、おちついて静かに聞け」
寄場奉行は五十二、三の痩せた長身の男で、身分はおめみえ以上、江戸町奉行の下奉行格であった。