← Library‹ さぶ 八の五

まっさきに外そとへとびだした男おとこが、「水みずだ」と叫さけんだ。風かぜに吹ふき千切ちぎられてよく聞きこえなかったが、続つづいて出でてゆく者ものがみな「水みずだ水みずだ」と喚わめきたてた。それを聞きいて、出でるのをためらった者ものが数すう人にん、戸口とぐちで迷まよっているとき長屋ながやの建物たてものが大おおきく揺ゆれあがり、木きの引ひき裂さける音おとが次々つぎつぎと起おこって、端はしのほうから、あっけないほど脆もろく倒壊とうかいした。

栄二えいじはいちばんあとから出でるつもりで、その数すう人にんの者ものと戸口とぐちにいたが、木きの裂さける音おとを聞きいたので、「こいつは倒たおれるぞ、出でろ」と云いって、二人ふたりか三さん人にんを押おしやりながら戸外こがいへとびだした。倒壊とうかいする建物たてものの庇ひさしあたりが、彼かれの背せをかすったほど危あぶない一瞬いっしゅんであった。外そとは足あしのくるぶしを越こす水みずで、突風とっぷうの来くるたび、その水面すいめんから白しろくしぶきの飛とぶのが、闇やみをとおしてはっきり見みえた。――長屋ながやの他ほかの部屋へやの者ものたちも出でていて、なにか叫さけびあう声こえはするが、風かぜの唸うなりに消けされてまったく聞ききとれなかった。役所やくしょも見張みはり小屋こやもまっ暗くらで見みえず、水みずはぐんぐん増ましていて、もう脛すねの半なかばにまで深ふかくなった。

「手てを貸かしてくれ」と誰だれかが叫さけんだ、「倒たおれたうちの中なかに誰だれかいるぞ」

栄二えいじは振ふり向むいた、「本当ほんとうか、誰だれだ」

「誰だれだかわからないが、おれのうしろにいたやつが一人ひとり逃にげおくれたんだ」とその男おとこは云いった、「それ、声こえがするだろう」

風かぜは南みなみなのに、長屋ながやは西南せいなんのほう、つまり手前てまえのほうへ倒たおれていた。ちょうど押おしている力ちからがゆるんだとたん、北東ほくとうへかしいでいたのが前まえのめりになったという感かんじであるが、耳みみを近ちかづけてみると、倒たおれた屋根やねの下したから、人ひとの喚わめいている声こえが聞きこえた。

「手てを貸かしてくれ」と栄二えいじが叫さけんだ、「人ひとがつぶされてるんだ、早はやく」

幾いく人にんかが駆かけよって来きた。

「おい、しっかりしろ」と栄二えいじは壊こわれた建物たてものの下したへ向むかって絶叫ぜっきょうした、「いま出だしてやるぞ、しっかりしろよ」

彼かれは聞きこえてくる声こえで見当けんとうをつけ、手てに触ふれる板いたや柱はしらを取とって投なげた。幾いく人にんかが栄二えいじにならって残骸ざんがいを取とりのけにかかったが、建たっているときには柱はしらへ板いたを打うちつけたばかりの、ごく雑ざつな小屋こやのようにしかみえなかったのに、いざ片かたづけるとなると、その柱はしらや板いたの量りょうの多おおいのと重おもいことにおどろいた。

「おい集あつまれ」という赤鬼あかおにの声こえが聞きこえた、「病人びょうにんを移うつすんだ、役所やくしょのほうへ」

栄二えいじは太ふとい角柱かくばしらにとりついていた。戸口とぐちの一いち本ほんらしい。万吉まんきちが丸太まるたを持もって来きて、こいつを梃子てこにしようと云いった。丸太まるたの下したへかう物ものがみ当あたらないので、万吉まんきちはその一端いったんを角柱かくちゅうの下したへ突込つっこみ、一端いったんへ自分じぶんの肩かたを入いれてりきんだ。どこかでまた家いえが倒たおれたのだろう、木きの裂さける音おとや鈍にぶい地響じひびきや、人ひとの悲鳴ひめいなどが聞きこえた。

「だめだ」と万吉まんきちが云いった、「この柱はしらあびくともしねえぜ」

「こいつをどけなくっちゃあどうにもならねえ」と栄二えいじが云いい返かえした、「もうひとふんばりやってみろ、さあ」

角柱かくちゅうは意外いがいに重おもく、そのうえ壊こわれた板いたや梁木はりなどがかぶさっているため、よういに動うごくけしきがなかった。そこへ二人ふたりばかり走はしり寄よって、万吉まんきちといっしょに丸太まるたを担かつぎあげた。

「みんな集あつまれ」という松田まつだ権蔵ごんぞうの叫さけび声ごえが聞きこえた、「こっちだ、役所やくしょの前まえだぞ」

烈風れっぷうは水みずしぶきをともなっていて、みんなの顔かおや手てへ痛いたいほど叩たたきつけた。

「雨あめじゃねえ、こいつは海うみの水みずだ」と誰だれかがどなった、「みろよ、塩っかれえしおっかれいぞ」

角柱かくちゅうが動うごき、丸太まるたの梃子てこにとりついていた三さん人にんが転ころびそうになった。栄二えいじは角柱かくちゅうを押おしやり、その下したの板いたきれを掻かきのけながら、大丈夫だいじょうぶか、どっちだ、と呼よびかけた。

「ここだ、早はやくしてくれ」と板いたきれの下したから返辞へんじが聞きこえた、「早はやく頼たのむ、溺おぼれそうだ」

そう云いわれて気きがつくと、水みずはもう膝ひざまできていた。いそげ、と万吉まんきちがどなり、四よん人にんは夢中むちゅうで板いたきれや桟さんの折おれなどを取とりのけた。赤鬼あかおにの松田まつだが水みずをはねとばしながらやって来きて、なにをしているくそ野郎やろう、集あつまれというのが聞きこえないのか、と喚わめきたてた。さっきからよほど喚わめいたりどなりつけたりしたのだろう、その声こえはすっかりしゃがれて、風邪かぜをひいたでろれん左ひだり衛門えもんののように聞きこえた。

「人ひとがつぶされてるんだ」と栄二えいじがどなり返かえした、「手伝てつだってくれ」

「よりによってこんなときにつぶされるなんて」と松田まつだは毒どくづいた、「よっぽどうすのろのかぼちゃ野郎やろうのでくの坊ぼうだな、誰だれだ」

毒どくづきながらも進すすんで手伝てつだい、どうやら男おとこを救すくい出だした。それは金太きんたで、柱はしらと柱はしらの組くみ合あった下したで四よつん這ばいになってい、水みずをよけるため横よこに捻ひねった顔かおの半分はんぶんが水みずにつかっていた。

「あぶなかったな」と万吉まんきちが助たすけ起おこしてやりながら云いった、「もうひと息いきってとこだったじゃねえか、十じゅう両りょうがとこ拾ひろったような心持こころもちだろう」

「済すまねえ、みんなありがとよ」金太きんたは水みずびたしの髪かみを手てで押おさえながら幾いくたびも頭あたまをさげた、「おらもうだめかと思おもった」

「さあいそげ」松田まつだが手てを振ふった、「ぐずぐずするんじゃあねえ、役所やくしょの前まえへ集あつまるんだ」

いっしょにあるきだしながら、栄二えいじは初はじめて恐怖きょうふを感かんじた。これは大変たいへんだぞと思おもった。この島しまはもと洲すだったのである、大川おおかわから吐はきだされる土砂どしゃが溜たまって洲すとなり、そこへ土つち入いれをして島しまにしたものだ。これまでにさえ膝ひざにつく水みずがあがっているから、風かぜがこれ以上いじょう吹ふき続つづけば、島とうぜんたいが水みずの下したになるかもしれない。栄二えいじがそう思おもったとき誰だれかが、上あげ潮しおはいつだと叫さけんだ。

「明あけの七ななつ(午前ごぜん四し時じ)ごろだ」と叫さけび返かえすのが聞きこえた、「だがいまはなん刻どきだ」

八ようつだろうと答こたえる者ものがあり、ほかの声こえは聞きこえなかった。役所やくしょの前まえは水みずが浅あさく、足あしのくるぶしまであるかなしかで、そこには人ひとが犇ひしめいてい、縁側えんがわには役人やくにんたちと、寄場よせば奉行ぶぎょうの姿すがたも見みえた。油紙あぶらがみを張はった箱提灯はこぢょうちんは風かぜから囲かこってあるため、役人やくにんたちの姿すがたは見みえるが、中庭なかにわのほうへは光ひかりがささなかった。

「みんな揃そろったか」と縁側えんがわの上うえから岡安おかやす喜兵衛きへえが云いった、「女おんなはどこにいる」

こちらに揃そろっていますという答こたえが、人ひとの群むれの端はしのほうで聞きこえた。

「男おとこどももみな揃そろいました」と松田まつだ権蔵ごんぞうがどなった、「数すうを読よみますか」

「揃そろっておればよし」と岡安おかやすが云いった、「これから御ご奉行ぶぎょうのお話はなしがある、おちついて静しずかに聞きけ」

寄場よせば奉行ぶぎょうは五十ごじゅう二、三にさんの痩やせた長身ちょうしんの男おとこで、身分みぶんはおめみえ以上いじょう、江戸えど町ちょう奉行ぶぎょうの下した奉行ぶぎょう格かくであった。

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