さぶの手紙は四通とも日付がなく、字も相変らずへたであった。芳古堂では小僧のときから手習いをさせ、いちにんまえになってからも、暇さえあれば習字をするのが店の規則のようになっていた。したがって相当ぶきような者でも、はたちぐらいになればへたはへたなりにかなり見られる字が書けるものだが、さぶだけはいつまでも手があがらず、いまだに子供のような字しか書けなかった。自分でも承知しているのであろう、手紙のはじめには四通とも、字のへたなことが詫びてあった。
「ばかだな」と栄二は舌打ちをした、「――字のへたないい訳より、日付を書くのがあたりめえじゃねえか、どれが先だかあとだか見当もつきゃあしねえ」
文面は似たりよったりで、栄二のことを心配し、自分の近況が伝えてあった。葛西のくらしは平穏で、病気のほうも順調に恢復していること、兄や弟たちと畑にも出るし、田の草取りもやった。田圃や川のまわりには螢がいっぱいいて、夜などあるきに出ると、足の踏み場に困るほどである。母や兄嫁も親切にしてくれるから、安心して養生ができること、腸を患ったときはまいったが、脚気は田舎の土を踏めば治るというとおり、九月ごろにはすっかりよくなると思うこと。兄嫁が七人めの子を産んだので、家の中はいよいよ狭くなり、自分はいま物置で寝ること、などが順序もなく並べてあった。
「また追い使われているんだな」と栄二は呟いた、「ゆっくり養生ができるなんていうが、畑や田圃で働かされ、夜は物置で寝かされてるって、いつまでもしまらねえやつだ」
おそらく栄二に心配させまいとして、そんなふうに書いたのだろうが、それを信じさせるような文章を綴る才はない。気楽なように書けば書くほど、彼の辛い明け昏れがあらわに感じられた。栄二は四通めを読み終って、それを巻き戻そうとしたが、急に「お」と云って、その文字を見まもった。子供の手のようにぶきような字だと思ったが、ふと気がついて見直すと、ぶきようでいながら、どこかにふっくりとした気取りのない味があった。
「へえー」栄二は他の三通をもひろげて見た、「おかしなもんだな、こいつはどっかで見たことのある字だぜ」
親方の芳兵衛か兄弟子の誰かが表具をした、茶掛けの横物によく似た字があった。たしかどこかの坊さんの書いたもので、こんなへたくそな字をどうして掛物になんぞするのか、と思ったことを栄二は覚えていた。あとになって考えればそれはへたなのではなく、その人ならではの風格を備えたものだ、ということがほぼわかったのであるが、いま見るさぶの字にも、その坊さんの字と共通した、一種の味があるように思えた。
「ばかばかしい」やがて栄二は手紙を片づけながら呟いた、「そうだとしたって、いまのおれにゃあ関係のねえこった」
七月は秋であるが、もちろん暦のうえのことで、暑さは真夏よりもきびしかった。大暴風と高波とは、役所の建物と油部屋を残しただけで、三棟の人足長屋、女置場、病人置場、その他の小さな建物、矢来などをみなうち壊し押し流し、南の浜の護岸工事で築いたばかりの石垣も、三分の二は崩されてしまった。そこであと片づけと仮小屋を建てることが同時に始められ、全部の人足がその仕事にかかった。女たちは洗濯や炊事や湯茶を配る役になったから、島の内ではひるまでも、到るところで軽い冗談口や笑い声などが聞えた。そんなところへ通りかかると、松田権蔵は金盥を叩くような声でどなりつけた。
「このへちま野郎ども」男の人足なら赤鬼はそうどなる、「あんまりいい気になってのさばると、野郎ども石を担がせてくれるぞ」
「このしりがるのすべたども」女たちなら赤鬼はそう云う、「おとこの匂いにのぼせあがって頬桁ばかり叩いていると、大川へ突っこんでけつを洗わせるぞ」
「さあやっておくれ」などとやり返す女もいた、「松田さんならさぞうまく洗っておくれだろう、こっちからお願いするよ」
松田の顔は赤黒くなるが、決してどなり返したりはしない。口ではかなわないことがわかっているから、彼は聞えないふりをしてそこから去るのであった。男たちの中にも、ときたま松田に突っかかるようなまねをする者がいたけれども、それは憎むとか反感を持つからではなく、好きであり親愛感があるからであった。――いちばん人当りがよく、言葉も穏やかな、人見張役の小島良二郎だけは、人足たちの殆んどから嫌われているが、他の役人と人足たちのあいだは、ふしぎなくらいしっくりしていて、役人と寄場人足という対立的なところはなく、家主と店子とでもいいたいような親しさがかよいあっていた。
「やっぱり気がつきなすったか」と与平が栄二の問いに答えて云った、「――慥かにここにはそういう気分がありますよ、ええ、これはね、そもそもこの寄場というものを作った、長谷川平蔵という人の考えだそうでしてね、寄場は牢ではない、人足を罪人扱いしてはならない、というのが代々の役所のきまりなんだということです」
「それがずっと今日まで続いたのかな」
「中にはひどい役人もいたそうです、お奉行さまから同心下役まで入れると、三十四、五人もの人数ですからな、ええ」と与平は悲しげに首を振った、「――ここには公儀から年に米六百俵、金が四百両あまり下されるんです、その米や金をくすねたり、人足の稼いだ賃銀のうわまえをはねたりした役人がいくたりかいた、ということを聞きましたな、そんなことがわからずにいたためしはないんだが、みつかるまではやめられないんでしょう、どこにでもあることだが、人間が欲に負けるというのはつくづく悲しいもんだと思いますよ」
栄二は聞いたことの仔細を理解しようとするように、じっと息をひそめていた。
「その、――」と栄二はきいた、「お上からそんな金や米が来るというのは本当ですか」
「それがこの寄場の特別なところです」