「ええちくしょう」と栄二は自分を罵った、「なにが自分本位だ、のぶ公なんぞになにがわかる、おれの胸の中ではまだ血がふきだしているんだぞ、この痛みがどんなものか誰にわかる、くそっ、のぶ公のごたくなんぞ忘れちまえ」
暴風のあと始末に八月いっぱいかかった。高波のために、島の土はかなり広く洗い流されていたので、外から土や砂利を運び入れなければならなかった。人足たちの住む仮小舎を建て、灰焼場を建て、役所の建物を修繕したあとも、土入れと地形は続けられたし、南の浜の崩れた石垣を築き直すには、もっと暇がかかりそうであった。
九月一日の休みに、栄二とこぶの清七が役所へ呼ばれ、それぞれ一貫文の褒美を貰った。暴風の夜、総崩れになった人足たちを抑え、無事にかれらを避難させたうえ、七十余人にすすんで、島を守るため残るきっかけを与えた、という二つの件を褒められたのである。栄二は辞退した。あれは清七の手柄であって、自分はあとから彼のまねをしただけだと云った。
「奉行は見ていたのだ」と成島治右衛門は穏やかに頬笑みながら云った、「――初めの功は正しく清七のものだ、清七の振りあげた掛矢が、崩れたったあの人数の足を止めた、そして、続くそのほうの説得があればこそ事がうまくいったのだ、清七の掛矢だけでは、死の恐怖で動顛したあの人数を抑えきることはできない、力に対しては必ず力が動きだし、避難するまえに死傷者が出たであろう」
清七の力と栄二の知恵と、この二つであの騒ぎが抑えられたのだ、と奉行は云った。
「お口返しをするようですが」と栄二は顔をあげて云った、「それはお奉行さまがそうお考えになったことで、私の考えではございません、私はただ清七のまねをしただけですから、御褒美をいただくのはお断わり申します」
「強情なことを云う」奉行は辛抱づよく、また穏やかに微笑した、「だが奉行としても、いったん出したものを引込めるわけにはいかぬが、どうしたらいいか」
栄二は答えなかった。
「褒美のことは町奉行の許しが出ている」と成島は云った、「いまになって取消すわけにはまいらない、そのほうになにかいい思案でもあるか」
栄二はちょっとまをおいて、御褒美なら島に残ってはたらいた七十余人ぜんぶに与えていただきたい、と答えた。
「そうか」奉行は暫くして頷いた、「よし、差支えはないだろう、では一貫文は清七、あとの一貫文は七十余人に与えるとしよう」
そして奉行は立って奥へ去った。列席した同心たちと共に、栄二と清七も立ちあがったが、岡安喜兵衛が栄二を呼びとめた。
「おまえには話すことがある」と岡安は云った、「こっちへ来てくれ」
清七は縁側へ出てゆき、他の同心たちは役所のほうへ去った。岡安は廊下を曲って、いつもの、あの小座敷へはいり、栄二と向き合って坐った。――岡安喜兵衛はなにかを思い出したように、いちど坐ったのを立ちあがって、北側の窓をあけ、元のところへ戻って坐り、そのまま暫く黙っていた。
「いま、この」と岡安は窓のほうへ手を振りながら云った、「――風に花の香が匂っているが、おまえにわかるか」
栄二は三度ばかり空気を嗅いでみてから、黙って首を左右に振った。
「いま吸っている九月の風の」と岡安はまた云った、「この爽やかな、ひんやりとした味が私にはなんとも好ましい、風には四季それぞれの、違った匂いと味と肌ざわりがあるが、私はこの秋のひんやりとした、爽やかな風がいちばん好きだし、この風を味わっていると、生きていることのよろこばしさが感じられる、ことにいまのように、もくせいの花の香に染まっていたりするとな」
栄二は訝しそうに、岡安の顔を見まもっていた。自分を呼びとめておいて、なんのために風の匂いだの肌ざわりのことなんか話すんだ、どういうわけだ、と栄二は思った。
「おまえはどうだ」ふた呼吸ほどして岡安は静かにきいた、「風の肌ざわりに秋を感じたり、送られてくる花の匂いをたのしんだりしたことがあるか」
栄二は答えなかった。
「まだとしが若いから」と云って、岡安は唇に微笑をうかべた、「――そんな年寄りくさいことは知らない、と云いたいところだろう、しかしこれはとしの老若にかかわらず、そういう気持があるかないかのはなしだ、さあ、よく嗅いでみるがいい、いま匂っているのはもくせいの花だぞ」
「御用はそんなことですか」
「いけないか」
「私は風だの花の匂いなんかに用はありません、ほかに御用がなければ部屋へ帰ります」
褒賞の式だから岡安は麻裃に扇子を持っていたが、その扇子を半ば開き、ぴしりと閉め、栄二の言葉が聞えなかったような表情で、窓のほうへ眼をやった。
「おまえには興味がなくとも、秋の風はこのように秋らしく、爽やかに花の香を送ってくる」と岡安はゆっくり云った、「――だがこの風も、いちど怒りだすと暴風になって、家を吹きとばし波を巻き立て、けが人や死者までだすようなことになる、七月のあらしでこの島はめちゃめちゃにやられた、いまはおまえたちの力で、殆んど元どおりに建て直されたが、もしも人間があのように暴れたとしたらどうだ、風を罰する法はないが人間には掟というものがある」
「誰のためにです」栄二がするどく反問した、「強い者のためにですか弱い者のためにですか」
「世の中ぜんたいのためだろうな」
「あなたはご存じないんです」
「それをいちど話したかった、私はおまえのことを詳しく知っているのだ」岡安はやわらかな口ぶりで云った、「――おまえが怒るのも尤もだ、綿文のやりかたも悪いし、目明しの扱いかたもよくない、芳古堂にもほかにもう少し考えようがあったろうと思う、それは慥かにそのとおりだが、ここでひとつ運と不運ということを考えてみよう」