← Library‹ さぶ 十一の一

「よう、起おきてるな」と云いってこぶの清七せいしちがはいって来きた、「もうあるいてもいいのか」

「まだまだ」と与平よへいが云いった、「みんなでそうせかしちゃあだめだ、そうでなくっても当人とうにんはじれったがっているんだから」

「だって昨日きのうこっちへ移うつったっていうそうじゃねえか、病人びょうにん置場おきばを出でたんなら、医者いしゃの手てははなれたんだろう」

栄二えいじは右足みぎあしを投なげだして坐すわり、めしを喰たべていた。ちょっとぶしょう髭ひげが伸のびているし、日光にっこうに久ひさしく当あたらないので顔色かおいろはなま白じろく、肉にくもたるんだように見みえるが、治療ちりょうを始はじめてから三十さんじゅう日にち以上いじょうも経たち、躯むくろそのものは恢復かいふくしたのだろう。眼めつきや口許くちもとには、健康けんこうな若わかさがよみがえってきていた。

「肝心かんじんなことを忘わすれちゃいけないね」と与平よへいが云いった、「病気びょうきじゃなくって足あしの骨ほねが折おれたんだよ、医者いしゃの手てははなれたけれども、本当ほんとうはこれからが大事だいじなんだから、ちっとずつ辛抱しんぼうして慣なれていって、それからあるく稽古けいこにかかるんだからね」

「それじゃあちっとばかり早はやかったかな」

「なにがだね」

「おらが田舎いなかにいたじぶん、ちん――」と云いいかけて清七せいしちは慌あわてて云いい直なおした、「作左さくざっていう片足かたあしの不ふ自由じゆうな人ひとがいたっけ、馬うまに蹴けられたかどうかして、やっぱり片足かたあしが、――不ふ自由じゆうになっちまってさ、その人ひとは杖つえを突ついてあるいてたんだが、それを思おもいだしたもんだから、こんなふうにまねて作つくってみたんだ」

清七せいしちはそれを持もちあげて見みせた。丁ていの字じ形けいに、頭あたまに横木よこぎのある撞木杖しゅもくづえで、きれいに磨みがきがかけてあった。だめだめ、そんな物ものを見みせてくれちゃあ困こまるよ、と与平よへいが手てを振ふり、栄二えいじは茶碗ちゃわんと箸はしを置おいた。

「済すまないな清きよしさん」と栄二えいじは向むき直なおって云いった、「ありがとうよ、見みせてもらおうか」

清七せいしちは与平よへいの顔色かおいろをうかがい、栄二えいじはいざりながら上あがり端はなのほうへ進すすみ出でた。

「少すこし長ながいかもしれねえ」杖つえを渡わたしながら清七せいしちが云いった、「長ながかったら切きればいいと思おもってね、そう、そこを腋わきの下したへ当あてるんだ」

「立たっちゃだめだよ」と与平よへいが注意ちゅういした。

「おれもどこかで見みたことがある」栄二えいじは上あがり端ばたに坐すわって両足りょうあしをそろそろと土間どまへおろし、杖つえを持もち変かえて横木おうぼくのところを腋わきの下したへ当あててみた、「――よさそうだな、しっかりしている、なんの木きだろう」

「桜さくらなんだよ」と清七せいしちが答こたえた、「いろいろ当あたってみたんだが、撓しなうのも困こまるし重おもくっても困こまるし、それで彫物ほりもの部屋へやの伊助いすけさんに相談そうだんしたんだ、あの人ひとは木きをいろいろ知しってるだろうと思おもってさ、そうしたら桜さくらがいいだろうって云いうもんだから」

「みんなに心配しんぱいかけちまうな」

「すぐに使つかわなくてもいいようになるだろうがね」と云いって清七せいしちは意味いみもなく片手かたてを振ふった、「そうだとしても、はじめのうちはいるかもしれねえと思おもったんでね」

「さあ、もういい」与平よへいが手てを出だした、「使つかうようになるまで私わたくしが預あずかっとくよ」

栄二えいじは杖つえを与平よへいに渡わたした。

「じゃあ」と清七せいしちはあとじさった、「おら仕事しごとの途中とちゅうだから」

栄二えいじがもういちど礼れいを云いい、清七せいしちは帰かえっていった。与平よへいが撞木しゅもく杖つえを持もってゆき、自分じぶんの戸納とだなの中なかへしまい込こむのを眺ながめながら、栄二えいじは息いきを静しずかに長ながく吸すい、それを用心ようじんぶかく吐はきだした。その呼吸こきゅうを与平よへいに気きづかれるのを恐おそれるように、――病人びょうにん置場おきばから部屋へやへ帰かえって、もう二十はつ日かちかくも経たつのに、まだ与平よへいは付つきっきりで世話せわをしてくれている。仕事しごとに出でないのは役所やくしょの許ゆるしを得えたにしろ、賃銀ちんぎんの収入しゅうにゅうが絶たえることになる。一いち度どそのことを云いってみたら与平よへいは笑わらって、八はち年ねんも役所やくしょに預あずけた分ぶんがあるのだから、そんな心配しんぱいはまったく無用むようだと答こたえた。――肌着はだぎや足袋たびの洗濯せんたくから、着替きがえまでさせてくれる。下帯したおびだけは差入さしいれの品しなが余あまっているので、強情ごうじょうにはき捨すてにしているが、洗面せんめんから食事しょくじ、夜具やぐのあげおろし、厠かわやへは往いき帰かえり背負せおってくれるというふうで、じつの父親ちちおやにしても珍めずらしいほど、ゆき届とどいた世話せわぶりであった。

「めしはもういいのかね」と与平よへいが云いった、「よければ茶ちゃを淹いれようか」

「ありがとう、湯ゆで済すましたよ」

戸と納おさめへくっつけて、たたんだ夜具やぐが置おいてある。栄二えいじは上あがり端ばたからいざって戻もどり、その夜具やぐへ背せで凭もたれかかった。

「与平よへいさん」と彼かれは呼よびかけた、「手習てならいをしようと思おもうんだが、硯すずりや筆ふでなんかを都合つごうしてもらえまいか」

「いいとも、見張みはり小屋こやでは帳付ちょうづけをしているから、いってきいてみてこよう」膳ぜんを片かたづけていた与平よへいは、そう云いってやさしく栄二えいじを見みた、「――おまえさんがそんな気持きもちになってくれて、私わたくしはうれしいよ」

栄二えいじは眼めをそらした、「今日きょうは十じゅう二に月がつの、――幾いく日かだっけな」

「十とお日かさ、明日あすが休やすみだからね」

「するともう五十ごじゅう五ご、六むい日かになるんだな」

「日数にっすうのことなんか考かんがえちゃだめだ、医者いしゃのみたてっていうものは、いつだって軽かるく云いうもんなんだから、一いち年ねんかかる病気びょうきでも、病人びょうにんに気きおちをさせまいとすれば、半年はんとし以上いじょうとは云いわないものなんだよ」と与平よへいはなだめるような声こえで云いった、「――とにかく日数にっすうのことなんか考かんがえなさんな、折おれた骨ほねがつながるんだから、接つぎ木きをするんだっておまえさん、三十さんじゅう日にちや五十ごじゅう日にちじゃ済すまないんだよ」

栄二えいじは頷うなずいて云いった、「だから手習てならいを始はじめようと思おもうんだよ」

「そうかそうか、それなら私わたくしも安心あんしんだ」

与平よへいの顔かおにはしんじつ安心あんしんしたような表情ひょうじょうがあらわれた。

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