「よう、起きてるな」と云ってこぶの清七がはいって来た、「もうあるいてもいいのか」
「まだまだ」と与平が云った、「みんなでそうせかしちゃあだめだ、そうでなくっても当人はじれったがっているんだから」
「だって昨日こっちへ移ったっていうそうじゃねえか、病人置場を出たんなら、医者の手ははなれたんだろう」
栄二は右足を投げだして坐り、めしを喰べていた。ちょっとぶしょう髭が伸びているし、日光に久しく当らないので顔色はなま白く、肉もたるんだように見えるが、治療を始めてから三十日以上も経ち、躯そのものは恢復したのだろう。眼つきや口許には、健康な若さがよみがえってきていた。
「肝心なことを忘れちゃいけないね」と与平が云った、「病気じゃなくって足の骨が折れたんだよ、医者の手ははなれたけれども、本当はこれからが大事なんだから、ちっとずつ辛抱して慣れていって、それからあるく稽古にかかるんだからね」
「それじゃあちっとばかり早かったかな」
「なにがだね」
「おらが田舎にいたじぶん、ちん――」と云いかけて清七は慌てて云い直した、「作左っていう片足の不自由な人がいたっけ、馬に蹴られたかどうかして、やっぱり片足が、――不自由になっちまってさ、その人は杖を突いてあるいてたんだが、それを思いだしたもんだから、こんなふうにまねて作ってみたんだ」
清七はそれを持ちあげて見せた。丁の字形に、頭に横木のある撞木杖で、きれいに磨きがかけてあった。だめだめ、そんな物を見せてくれちゃあ困るよ、と与平が手を振り、栄二は茶碗と箸を置いた。
「済まないな清さん」と栄二は向き直って云った、「ありがとうよ、見せてもらおうか」
清七は与平の顔色をうかがい、栄二はいざりながら上り端のほうへ進み出た。
「少し長いかもしれねえ」杖を渡しながら清七が云った、「長かったら切ればいいと思ってね、そう、そこを腋の下へ当てるんだ」
「立っちゃだめだよ」と与平が注意した。
「おれもどこかで見たことがある」栄二は上り端に坐って両足をそろそろと土間へおろし、杖を持ち変えて横木のところを腋の下へ当ててみた、「――よさそうだな、しっかりしている、なんの木だろう」
「桜なんだよ」と清七が答えた、「いろいろ当ってみたんだが、撓うのも困るし重くっても困るし、それで彫物部屋の伊助さんに相談したんだ、あの人は木をいろいろ知ってるだろうと思ってさ、そうしたら桜がいいだろうって云うもんだから」
「みんなに心配かけちまうな」
「すぐに使わなくてもいいようになるだろうがね」と云って清七は意味もなく片手を振った、「そうだとしても、はじめのうちはいるかもしれねえと思ったんでね」
「さあ、もういい」与平が手を出した、「使うようになるまで私が預かっとくよ」
栄二は杖を与平に渡した。
「じゃあ」と清七はあとじさった、「おら仕事の途中だから」
栄二がもういちど礼を云い、清七は帰っていった。与平が撞木杖を持ってゆき、自分の戸納の中へしまい込むのを眺めながら、栄二は息を静かに長く吸い、それを用心ぶかく吐きだした。その呼吸を与平に気づかれるのを恐れるように、――病人置場から部屋へ帰って、もう二十日ちかくも経つのに、まだ与平は付きっきりで世話をしてくれている。仕事に出ないのは役所の許しを得たにしろ、賃銀の収入が絶えることになる。一度そのことを云ってみたら与平は笑って、八年も役所に預けた分があるのだから、そんな心配はまったく無用だと答えた。――肌着や足袋の洗濯から、着替えまでさせてくれる。下帯だけは差入れの品が余っているので、強情にはき捨てにしているが、洗面から食事、夜具のあげおろし、厠へは往き帰り背負ってくれるというふうで、じつの父親にしても珍しいほど、ゆき届いた世話ぶりであった。
「めしはもういいのかね」と与平が云った、「よければ茶を淹れようか」
「ありがとう、湯で済ましたよ」
戸納へくっつけて、たたんだ夜具が置いてある。栄二は上り端からいざって戻り、その夜具へ背で凭れかかった。
「与平さん」と彼は呼びかけた、「手習いをしようと思うんだが、硯や筆なんかを都合してもらえまいか」
「いいとも、見張小屋では帳付けをしているから、いってきいてみてこよう」膳を片づけていた与平は、そう云ってやさしく栄二を見た、「――おまえさんがそんな気持になってくれて、私はうれしいよ」
栄二は眼をそらした、「今日は十二月の、――幾日だっけな」
「十日さ、明日が休みだからね」
「するともう五十五、六日になるんだな」
「日数のことなんか考えちゃだめだ、医者のみたてっていうものは、いつだって軽く云うもんなんだから、一年かかる病気でも、病人に気おちをさせまいとすれば、半年以上とは云わないものなんだよ」と与平はなだめるような声で云った、「――とにかく日数のことなんか考えなさんな、折れた骨がつながるんだから、接ぎ木をするんだっておまえさん、三十日や五十日じゃ済まないんだよ」
栄二は頷いて云った、「だから手習いを始めようと思うんだよ」
「そうかそうか、それなら私も安心だ」
与平の顔にはしんじつ安心したような表情があらわれた。