← Library‹ さぶ 十一の五

役所やくしょで手習てならいを教おしえるということを聞きくと、人足にんそくたちはみんな笑わらいとばした。

「あの心学しんがくの太ふとっちょか、よせやい」と参平さんぺいが云いった、「きっと講釈こうしゃく入いりで教おしえようってえこんたんだろうが、あのじじいのぶくぶく肥こえたずう躰たいを見みるだけで、おらあ胸むねがむかついてくるんだ、まっぴら牛蒡ごぼうのとんぼ返がえりだ」

「まっぴら牛蒡ごぼうがどうしたって」

「洒落しゃれの絵解えときをさせるな」と参平さんぺいは拳こぶしで鼻はなをこすった、「それよりおめえはどうする、役所やくしょまでまかり出でて手習てならいをするか」

「おめえが牛蒡ごぼうのてんぷらだってえのに、おれだけがどうしてまかり出でるんだ」

「てんぷらだってやがる」参平さんぺいは鼻柱はなばしらへ皺しわをよせた、「きんぴらの語呂ごろ合あわせがわからねえのかな」

「ざまあみやがれ」と吉造きちぞうが手てを叩たたいた、「とうとうてめえで洒落しゃれの絵解えときをしやあがった」

「まあちょっとお待まちなさい」と与平よへいがなだめるように口くちをきった、「みんなの気持きもちはよくわかります、たしかに役所やくしょまででかけるほどのことじゃあない、いわば気きままにできるから字じの一ひとつも覚おぼえようというので、改あらたまって寺子てらこ屋やへかようようなことはおっくうには違ちがいないでしょう、それはそうだろうが、岡安おかやすさんがせっかく心配しんぱいして下くださるんだし、お奉行ぶぎょうさまのお声こえがかりなのだから、ひと月がつでも半月はんつきでも、かようだけはかよってみるほうがいいと思おもいますがね」

「与平よへいさんはそれでもよかろうがね」と小頭こがしらの倉くら太ふとしが云いった、「わざわざ役所やくしょまでいって、誰だれかの云いうとおり、ひちむずかしい講釈こうしゃく付つきで手習てならいをしろというのはむりな相談そうだんだよ」

茶漬ちゃづけを食くいに天竺てんじくまでいけってようなもんだ、と誰だれかが云いった。

毎月まいつき一いちの日ひの休やすみが、心学しんがく講話こうわと習字しゅうじの日ひにきめられ、もっこ部屋へやからも五ご、六ろく人にんの者ものがでかけていった。おかしなことだが、それらはみな栄二えいじと机つくえを並ならべたことのない、つまり、栄二えいじといっしょに手習てならいをするなかまにそっぽを向むいていた者ものばかりであった。

「私わたくしも気きがつかなかったが、ものごとはむつかしいもんだな」と与平よへいが云いった、「あの連中れんちゅうはそねんでいたんだ、栄さかえさんのまわりに集あつまって、みんなが手習てならいをしているとき、寄よりつきもせずにいながら、本当ほんとうは自分じぶんたちもなかまにはいりたかったんだろうね」

「悪わるいことをしたな」と栄二えいじが云いった。

彼かれは誰だれをさそった覚おぼえもない。教おしえてくれと云いう者ものに教おしえただけで、もともと自分じぶんひとりでやるつもりだった。さぶの字じからなにかをまなびたいと思おもい、そうすることで、躯むくろの不ふ自由じゆうな苛立いらだちを一刻ときでもまぎらわしたかったのである。けれども、同おなじ部屋へやに二十にじゅう余人よにんが同居どうきょしている、ということを考かんがえなければいけなかった。自分じぶんを中心ちゅうしんに十じゅう人にんほどが机つくえを並ならべるとすれば、みんなもどうだと、声こえぐらいかけるのが当然とうぜんであろう。知しらなかったな、と栄二えいじは自分じぶんに舌打したうちをした。

暮くれの迫せまった二十にじゅう六ろく日にちの日ひは朝あさから雪ゆきになったが、その雪ゆきの中なかをおのぶがたずねて来きた。仕事しごとは雪ゆきで休やすみだから、もっこ部屋へやには全部ぜんぶの人間にんげんがいた。いつもなら役所やくしょの小しょう座敷ざしきで会あうのだが、栄二えいじの足あしはまだそこまであるく力ちからはない。そこで与平よへいがみんなに話はなし、隅すみのほうへ寄よってもらったうえ、いつかのように栄二えいじのまわりを半はん屏風びょうぶで囲かこった。

「あら、元気げんきそうじゃないの」おのぶは戸口とぐちで傘かさの雪ゆきをはらいながらそう云いった、「みまいに来くるのがおくれちゃってごめんなさい、十じゅう一いち月がつからこっちまるでめちゃくちゃだったのよ」

そして、与平よへいに挨拶あいさつをし、持もっていた包つつみをあけて、少すくないけれどみなさんでひと口くちずつ、と云いいながら切餅きりもちの包つつみを取とって渡わたし、あとの包つつみを持もって栄二えいじのほうへ来きた。

「すっかり元気げんきそうじゃないの」

「同おなじことばかり云いうな、おちつけよ」

「太ふとったようね」

「足あしの話はなしはごめんだぜ」

「たしかに少すこし太ふとったわ」おのぶは眼めを細ほそめて栄二えいじの顔かおから躯むくろを眺ながめまわした、「頬ほおのとこなんか見違みちがえるようだわ、いやだ、そのへんで止やめないとせっかくの男おとこぶりがさがっちまうわ」

「ただ饒舌しゃべりに来きたのか、それともなにか用ようでもあるのか」

与平よへいが茶ちゃを持もって来くると、おのぶは栄二えいじの問といをはぐらかすように、与平よへいにおあいそを云いい、茶ちゃを啜すすった。

「すみよしでね、親方おやかたが亡なくなったの」

「――どうして」栄二えいじはどきっとしたような眼めでおのぶを見みた。

「どうしてっていうことはないでしょ、なんとかっていう病気びょうきで、足あしから腰こしのほうまで骨ほねも肉にくも腐くさっちまうのよ」と云いっておのぶは顔かおをしかめた、「――早はやくわかれば療治りょうじのしかたもあったんだそうだけれど、町まちのへぼ医者いしゃにはちんぷんかんだったのね、塗ぬり薬ぐすりでごまかしてるうちに手ておくれになっちゃって、外科げかのなんとかいうえらい先生せんせいに診みてもらったときは、もうどうしようもないっていうの」

「そいつはまた、ひでえ医者いしゃもあったもんだな」

亡なくなってから今日きょうが十じゅう一いち日にちめだ、と云いいながら、おのぶは手てに持もった茶碗ちゃわんを下したに置おいた。

「夫婦ふうふっきりで子供こどももなし、田舎いなかは遠とおいところなんですって」とおのぶは続つづけた、「おかみさんはすっかり力ちからをおとしちゃって、まるで病人びょうにんみたいになっちゃってるの、仕込しこみから煮炊にたきからお店みせのことまで、全部ぜんぶあたしがやってるんだけれど」

栄二えいじはちょっと待まってから問とい返かえした、「けれど、――どうしたんだ」

「おかみさんがね、あたしに養女ようじょになってくれっていうの」

栄二えいじがきいた、「のぶ公こうはいやなのか」

「それが簡単かんたんじゃないのよ」おのぶは口くちごもってから云いった、「すみよしってお店みせは、小ちいさいけれど酒さけと肴さかなで売うってたでしょ、亡なくなった親方おやかたは板前いたまえとしてもかなり腕うでがよかったのよ、それが女手おんなでばかりになったら、客足きゃくあしがおちるにきまってるわ」

「じれってえな」と栄二えいじが遮さえぎった、「そんなことを聞きいたっておれにゃあどうにもなりゃあしねえ、もっと肝心かんじんな話はなしがあるんだろう」

「せっかちねえ」おのぶはにらんだ、「たまに来きて話はなすんだもの、ちっとはおちついて聞きいてくれたっていいでしょ、しとのこと頭あたまからおちつけよなんて云いっといて、自分じぶんこそ少すこしおちつくほうがいいんだわ」

「よしよし、そんなら好すきなだけ饒舌じょうぜつれよ、のぶ公こうの気きの強つよいのにゃあかなわねえや」

おのぶは急きゅうにきつい眼めつきになった、「それ、どういうこと、さぶちゃんのこと云いってるんじゃないでしょうね」

「話はなしがそれるぜ」

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