← Library‹ さぶ 十二の一

石いしと石いしの隙間すきまからさぶの顔かおが見みえた。その顔かおは涙なみだでぐしゃぐしゃに濡ぬれ、恐怖きょうふのためみにくく歪ゆがんでいた。死しなないでおくれ栄さかえちゃん、とさぶは両手りょうての指ゆびを力ちからいっぱい絡からみ合あわせ、口くちのところへ押おし当あてていた。おれは栄さかえちゃんだけが頼たよりなんだ、頑張がんばっておくれ、死しなないでおくれ栄さかえちゃん、もうすぐだよ、しっかりするんだよ、死しんじゃだめだよ、栄さかえちゃんに死しなれたらおらあもうおしめえだ、栄さかえちゃんが死しねばおらも死しぬよ、とさぶは泣なきながら哀訴あいそした。泣なくのはよせ、おれは大丈夫だいじょうぶだ、そう云いおうとしたが、石いしの重おもさで胸むねが潰つぶれそうに苦くるしく、どうしても声こえが出でなかった。ぶしゅう負まけるなよ、と云いうこぶの清七せいしちの声こえもした。与平よへいや万吉まんきちや金太きんたの顔かおも見みえた。知しっている顔かおばかりでなく、知しらない者ものまでが石いしのあいだから覗のぞき、しっかりしろとか、死しぬんじゃねえぞとか、もうすぐ助たすけてやるぞとか、声こえをからして呼よびかけるのであった。おれは大丈夫だいじょうぶだ、けれども胸むねが潰つぶれちまう、この石いしをどけてくれ、栄二えいじは苦くるしさのあまり身みもだえをした。

「栄ひさしさん」誰だれかが肩かたをゆすった、「栄ひさしさん、うなされてるんだよ、さあ、栄さかえさん」

栄二えいじは深ふかい泥沼どろぬまの底そこから浮うきあがるような、もどかしい苦悶くもんを感かんじながら眼めをさました。部屋へやの中なかは日光にっこうで明あかるく、自分じぶんは夜具やぐの中なかで仰向あおむきに寝ねてい、すぐ眼めの前まえに心配しんぱいそうな与平よへいの顔かおがあった。

「眼めがさめたかね、大丈夫だいじょうぶかね」

「ああ」栄二えいじは咳せきをして答こたえた、「起おこしてくれて助たすかったよ、いやな夢ゆめをみていたんだ」

「手拭てぬぐいはここだよ」

「済すまない」与平よへいの取とってくれた手拭てぬぐいで、栄二えいじは額がくの汗あせを拭ふき、両りょう腋わきの下したや胸むねを拭ふいた、「ぐっしょりだ」

「もう一いち枚まい出だそうかね」

栄二えいじは首くびを振ふり、手拭てぬぐいをたたんで枕まくらの脇わきに置おいた。時刻じこくをきくと午後ごご二に時じごろだという。では半刻はんときちかくも眠ねむったわけで、与平よへいは疲つかれたからだと云いった。いまは正月しょうがつの十じゅう九きゅう日にちで、彼かれは五ご、六むい日かまえからあるく稽古けいこを始はじめ、その日ひも朝あさから、まをおいては幾いくたびも繰返くりかえした。清七せいしちの作つくってくれた撞木杖しゅもくづえを腋わきの下したにかって、土間どまの中なかをゆっくりと、一いち歩ほずつ拾ひろうようにあるくのである。――暮くれのうちから立たつ練習れんしゅうはしていたが、あるき始はじめてからも、さいしょは躯からだの中心ちゅうしんがとれず、ともするとぐらぐらとよろけた。与平よへいはあせるなあせるなと、子供こどもをあやすように側がわをはなれず、少すこしでもあぶないと見みるとすぐに手てを貸かそうとする。うるさくって迷惑めいわくなのだが、栄二えいじはおとなしく与平よへいのするままにさせていた。

「今日きょうで六むい日かになるね」と与平よへいが云いった、「いっぺんにそう続つづけては却かえって悪わるいだろう、二に、三み日か休やすんだほうがいいよ」

そうしようと答こたえて、栄二えいじは眼めをつむった。

いまみた夢ゆめの印象いんしょうは、強烈きょうれつな現実げんじつ感かんで頭あたまにやきついた。死しなないでくれと、泣なきながら訴うったえるさぶの顔かおと声こえとは、特とくになまなましくあざやかで、眼めがさめてからも、まったく夢ゆめのようには思おもえないのである。

――そうだ、夢ゆめじゃあない、これは現実げんじつのことだ、と栄二えいじは思おもった。いまこの瞬間しゅんかんにも、さぶはおれのために心配しんぱいしているだろう、昔むかしからそうだった、おれのまわりにはさぶの心こころと眼めが、片かたときもはなれず付ついてまわっていたのだ。

それから寄場よせばのなかまも、自分じぶんが石いしの下敷したじきになって以来いらい、みんなが自分じぶんのために心配しんぱいし、慰なぐさめ劬ろうとして集あつまった。清七せいしちは撞木しゅもく杖つえを作つくってくれたし、与平よへいは実じつの親おやよりも大事だいじにしてくれる。しかも、誰だれ一人ひとりとして欲得よくとくずくではない、礼れいを云いってもらおうとする者ものさえないのだ。――これはたいへんなことだ、と栄二えいじは思おもった。石いしの下したから救すくい出だされたときも、そのあとでも、思おもいだすたびに深ふかいおどろきを感かんじたものであるが、いまみた夢ゆめはその事実じじつを改あらためてはっきりと、些いささかの紛まぎれもなく彼かれの心こころに刻きざみつけた。

「いや、待まってくれさぶ」と彼かれは口くちの中なかで囁ささやいた、「おれはまだ出でることはできない、ここのなかまにしてもらったことは大おおきい、ここのなかまになにかを返かえさずには、決けっしてここを出でるわけにはいかない」

彼かれは芳かおる古こ堂どうの親方おやかたや、浅草あさくさの和助わすけのことも考かんがえてみた。そして、おととしの十じゅう二に月がつの出来事できごとそのものは赦ゆるせないにしても、そのために知しった新あたらしい世間せけんや、多おおくの人ひとたちとの経験けいけんが、どんなに貴重きちょうで有難ありがたいものだったか、ということをつくづくと感かんじた。

「綿めん文ぶんの旦那だんなも、あの町内ちょうないの頭かしらも、そしてあの目明めあかしの二人ふたりも赦ゆるせない」と栄二えいじは囁ささやいた、「あいつらにはきっと思おもい知しらせてやる、生涯しょうがい、忘わすれることのできないような手段しゅだんでな、まあ待まっていろ」

けれども、彼かれは自分じぶんで気きづいていた。かれらに復讐ふくしゅうしようという気持きもちは、いまではずっと弱よわまっている。人間にんげんの一生いっしょうが一いち枚まいの金襴きんらんの切せつで左右さゆうされてはならない、と思おもい当あたったころからであろうか、自分じぶんの受うけた屈辱くつじょくや暴行ぼうこうの事実じじつを、いちいち詳くわしく思おもいだしてみても、以前いぜんのように逆上ぎゃくじょうするほどの怒いかりは感かんじられなくなった。

――いまに必かならず思おもい知しらせてやるぞ。

そういう誓ちかいは、かつて栄二えいじを強つよく支ささえていたものだ。復讐ふくしゅうという執念しゅうねんがなければ、自分じぶんは死しんでしまうだろう、とさえ思おもったくらいである。それがいまではべつのものと入いれ変かわったようだ。――あのまま芳かおる古こ堂どうを勤つとめあげ、自分じぶんの店みせを持もっておすえと夫婦ふうふになり、平穏へいおんなくらしをするようになったとしたらどうだろう。こう想像そうぞうしてみると、いまの彼かれには却かえってうとましい空虚くうきょなものにしか思おもえない。――ここへ来きてからの四百よんひゃく日にちに比くらべれば、そういう生活せいかつはなんのあじわいもなく、平凡へいぼんでつまらない、退屈たいくつそのもののように感かんじられる。たしかに、栄二えいじの内部ないぶではなにかが入いれ変かわったか、入いれ変かわりつつあるようであった。

それから二ふた日かのち、二十にじゅう一いち日にちの休やすみに、八はち人にんの無宿むしゅく者しゃが送おくられて来き、そのうち三さん人にんがもっこ部屋へやへまわされた。伴つれて来きたのは赤鬼あかおにの松田まつだ権蔵ごんぞうで、義一よしかず、昌吉しょうきち、りゅうと、三さん人にんを紹介しょうかいし、仲なかよくやれと云いって去さった。休やすみの日ひだから部屋へやにはみんな揃そろってい、年ねん役やくということで小頭こがしらの伝七でんしちが、みんなを紹介しょうかいしようとした。すると義一よしかずという若者わかものが断ことわった。

「それにゃあ及およばねえよ」とその若者わかものは裾すそを捲めくってあぐらをかき、毛脛けずねを手てで叩たたきながらみんなを睨にらみまわした、「ふん、どいつもこいつも田吾作たごさくづらあしてやがる、これからおれがちっとずつ性しょうをつけてやるぜ」

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