石と石の隙間からさぶの顔が見えた。その顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、恐怖のためみにくく歪んでいた。死なないでおくれ栄ちゃん、とさぶは両手の指を力いっぱい絡み合わせ、口のところへ押し当てていた。おれは栄ちゃんだけが頼りなんだ、頑張っておくれ、死なないでおくれ栄ちゃん、もうすぐだよ、しっかりするんだよ、死んじゃだめだよ、栄ちゃんに死なれたらおらあもうおしめえだ、栄ちゃんが死ねばおらも死ぬよ、とさぶは泣きながら哀訴した。泣くのはよせ、おれは大丈夫だ、そう云おうとしたが、石の重さで胸が潰れそうに苦しく、どうしても声が出なかった。ぶしゅう負けるなよ、と云うこぶの清七の声もした。与平や万吉や金太の顔も見えた。知っている顔ばかりでなく、知らない者までが石のあいだから覗き、しっかりしろとか、死ぬんじゃねえぞとか、もうすぐ助けてやるぞとか、声をからして呼びかけるのであった。おれは大丈夫だ、けれども胸が潰れちまう、この石をどけてくれ、栄二は苦しさのあまり身もだえをした。
「栄さん」誰かが肩をゆすった、「栄さん、うなされてるんだよ、さあ、栄さん」
栄二は深い泥沼の底から浮きあがるような、もどかしい苦悶を感じながら眼をさました。部屋の中は日光で明るく、自分は夜具の中で仰向きに寝てい、すぐ眼の前に心配そうな与平の顔があった。
「眼がさめたかね、大丈夫かね」
「ああ」栄二は咳をして答えた、「起こしてくれて助かったよ、いやな夢をみていたんだ」
「手拭はここだよ」
「済まない」与平の取ってくれた手拭で、栄二は額の汗を拭き、両腋の下や胸を拭いた、「ぐっしょりだ」
「もう一枚出そうかね」
栄二は首を振り、手拭をたたんで枕の脇に置いた。時刻をきくと午後二時ごろだという。では半刻ちかくも眠ったわけで、与平は疲れたからだと云った。いまは正月の十九日で、彼は五、六日まえからあるく稽古を始め、その日も朝から、まをおいては幾たびも繰返した。清七の作ってくれた撞木杖を腋の下にかって、土間の中をゆっくりと、一歩ずつ拾うようにあるくのである。――暮のうちから立つ練習はしていたが、あるき始めてからも、さいしょは躯の中心がとれず、ともするとぐらぐらとよろけた。与平はあせるなあせるなと、子供をあやすように側をはなれず、少しでもあぶないと見るとすぐに手を貸そうとする。うるさくって迷惑なのだが、栄二はおとなしく与平のするままにさせていた。
「今日で六日になるね」と与平が云った、「いっぺんにそう続けては却って悪いだろう、二、三日休んだほうがいいよ」
そうしようと答えて、栄二は眼をつむった。
いまみた夢の印象は、強烈な現実感で頭にやきついた。死なないでくれと、泣きながら訴えるさぶの顔と声とは、特になまなましくあざやかで、眼がさめてからも、まったく夢のようには思えないのである。
――そうだ、夢じゃあない、これは現実のことだ、と栄二は思った。いまこの瞬間にも、さぶはおれのために心配しているだろう、昔からそうだった、おれのまわりにはさぶの心と眼が、片ときもはなれず付いてまわっていたのだ。
それから寄場のなかまも、自分が石の下敷きになって以来、みんなが自分のために心配し、慰め劬ろうとして集まった。清七は撞木杖を作ってくれたし、与平は実の親よりも大事にしてくれる。しかも、誰一人として欲得ずくではない、礼を云ってもらおうとする者さえないのだ。――これはたいへんなことだ、と栄二は思った。石の下から救い出されたときも、そのあとでも、思いだすたびに深いおどろきを感じたものであるが、いまみた夢はその事実を改めてはっきりと、些かの紛れもなく彼の心に刻みつけた。
「いや、待ってくれさぶ」と彼は口の中で囁いた、「おれはまだ出ることはできない、ここのなかまにしてもらったことは大きい、ここのなかまになにかを返さずには、決してここを出るわけにはいかない」
彼は芳古堂の親方や、浅草の和助のことも考えてみた。そして、おととしの十二月の出来事そのものは赦せないにしても、そのために知った新しい世間や、多くの人たちとの経験が、どんなに貴重で有難いものだったか、ということをつくづくと感じた。
「綿文の旦那も、あの町内の頭も、そしてあの目明しの二人も赦せない」と栄二は囁いた、「あいつらにはきっと思い知らせてやる、生涯、忘れることのできないような手段でな、まあ待っていろ」
けれども、彼は自分で気づいていた。かれらに復讐しようという気持は、いまではずっと弱まっている。人間の一生が一枚の金襴の切で左右されてはならない、と思い当ったころからであろうか、自分の受けた屈辱や暴行の事実を、いちいち詳しく思いだしてみても、以前のように逆上するほどの怒りは感じられなくなった。
――いまに必ず思い知らせてやるぞ。
そういう誓いは、かつて栄二を強く支えていたものだ。復讐という執念がなければ、自分は死んでしまうだろう、とさえ思ったくらいである。それがいまではべつのものと入れ変ったようだ。――あのまま芳古堂を勤めあげ、自分の店を持っておすえと夫婦になり、平穏なくらしをするようになったとしたらどうだろう。こう想像してみると、いまの彼には却ってうとましい空虚なものにしか思えない。――ここへ来てからの四百日に比べれば、そういう生活はなんのあじわいもなく、平凡でつまらない、退屈そのもののように感じられる。たしかに、栄二の内部ではなにかが入れ変ったか、入れ変りつつあるようであった。
それから二日のち、二十一日の休みに、八人の無宿者が送られて来、そのうち三人がもっこ部屋へまわされた。伴れて来たのは赤鬼の松田権蔵で、義一、昌吉、りゅうと、三人を紹介し、仲よくやれと云って去った。休みの日だから部屋にはみんな揃ってい、年役ということで小頭の伝七が、みんなを紹介しようとした。すると義一という若者が断わった。
「それにゃあ及ばねえよ」とその若者は裾を捲ってあぐらをかき、毛脛を手で叩きながらみんなを睨みまわした、「ふん、どいつもこいつも田吾作づらあしてやがる、これからおれがちっとずつ性をつけてやるぜ」