義一はへらへらと笑った。花札をこっちへよこせと叫んだとき、松田権蔵の怒りは頂点に達していたようだ。それを聞いた栄二は、自分がどなりつけられたように思い、恥ずかしさで身がすくんだ。義一は松田をからかっているのだ。そして、そうすることで、自分をみんなに誇示しようとしているのである。このおれ自身がそうであったように、――実際にはそんなことにはなんの意味もなく、却って自分を道化にしているにすぎないのに。栄二がそう思っているとき、義一はおひゃらかし笑いをしながら、集めた花札を持って立ってゆき、松田の手に渡した。
「冗談だよ、松田さん」と義一は云った、「ここじゃあ冗談ひとつ云えないのかい」
「きさまにはこのおれがばか者にみえるらしいな」松田は荒い呼吸をしながら云った、「元締役はここを牢ではないと云われた、慥かにそのとおりだが、寄場をあまくみると後悔するぞ」
「わかりましたよ」と云って義一はうしろにいるりゅうへ振り向いた、「――いまのお差配の仰しゃったことを覚えておけよ、りゅう、ここは伝馬町よりおっかねえところらしいからな、おとなしくしようぜ」
「あのこと怒ってるのかい、あにき」とりゅうは面白そうに云った、「それとも、怯えちゃってるんじゃねえかな」
松田は大股に出てゆき、手荒に引戸を閉めた。
花札は松田権蔵が持っていった。それはみんなが見ていたことだ。しかしその翌日になると、義一はまた茣蓙に向って花札をもてあそんでいた。寄場では持物を厳重に検査され、刃物とか花札、賽ころなどはもちろん取りあげられてしまう。にもかかわらず、義一はまたあっさりと花札を手にしていた。どこかに隠してあったのか、それとも寄場の中で手に入れたのか、誰にも見当はつかなかった。
「おめえは喧嘩でここへ来たと云ったな」と或る日栄二は万吉に云った、「このあいだもあぶなく立ちそうにしたが、決して相手になるなよ」
「だがあにい、おらあがまんが続きそうもねえと思う」
栄二は首を振った、「だめだ、あのりゅうというやつは匕首を持ってる」
「まさか」万吉は眼をみはった、「匕首だなんてそんな」
「持ってるんだ、みんなには隠してるが、おれ一人になるとふところから出して、刃にぬぐいをかけたりしている、むろんおれへの威しだろうが、あのとしごろがいちばんあぶないんだ、人をあやめれば名に箔が付くと思ってる、きっかけさえあればあれを使うだろう、わかったか」と栄二は念を押した、「――どんなことがあっても、決して相手になるんじゃあねえぞ」
「いまになにか起こるな」と万吉は不安そうに云った、「なにか起こらずにはいねえような気がするよ」
だから側へ寄るな、と栄二は云った。
半月ほど経つうち、義一の誘惑に負けて花札へ手をだす者が出はじめた。金太がまず茣蓙の前へ坐り、参平や武や富三郎、それによその部屋からも二人三人と加わるようになった。――栄二は生れつき賭博というものに対して、恐怖に近い嫌悪感をもっていた。芳古堂の親方もまた賭け事が嫌いで、弟子たちが夜の茶菓子を買うとき、使いにゆく者をきめるあみだくじさえ禁じるくらいであった。酒や女の道楽はいつかやむが、賭け事は生涯やまないものだ、賭け事をする人間は芳古堂には置けない、とつねに繰返していたし、現に賭博に熱中したため義理の悪いことをして、店にいられなくなった者が幾人かいたものだ。――義一のまわりに集まって、撒かれたりめくられたりする花札の一枚々々に、息もつけないほどひき入れられているかれらを眺めるたびに、栄二は身を誤っていった兄弟子たちの姿を、そのままそこに見るような気がした。
――こんなことがいつまでも続く筈はない、まもなく役所のほうへ知れるだろう。
栄二はそう思っていたが、まもなく、自分の考えが浅かったことを知った。義一がそうするには、それだけの手が打ってあったらしい。人見張役の小島良二郎が来ると、すぐに花札は片づけられ、集まっていた者は散ってしまう。そういうことを三度、五たびと見るうちに、それは誰かが見廻りに来るぞ、という警告であることがわかった。
「ひどいことになったぜ、あにい」と万吉がそっと栄二に囁いた、「今日でかけた仕事先で金太から聞いたんだが、義一のやつは役人たちを金で抱きこんでるそうだ」
「そんなことを口にするな」
「だってこのまんまでいいと思うかい」万吉は強い調子で囁いた、「もう気がついてるだろうが、このもっこ部屋の人間は三つに割れちまった、あにいに字を習うなかまと、義一のまわりに集まる連中、それから小頭や与平さんたちのような、なんにもできない弱い者たちさ、そう思わねえか」
栄二は答えなかった。
「博奕をやる連中は、あにいとおれたちなかまをけむったがってた、だがいまでは憎んでる、おれたちが博奕をしねえだけでなく、手習いをやってるってことが癪なんだ」と万吉は続けた、「金太のやつまでが、おれたちのことを白い眼で見ていることを知ってるか、あにい」
栄二はごくかすかに頷いたが、やはりなにも云わなかった。
「仕事場へいっても以前のようじゃあねえ、みんな怠け癖が出はじめた、ほんとだぜ」万吉は深い呼吸をしてから云った、「――まじめに仕事をするのは半分ぐらいで、あとはみせかけだけに動いてるか、ひでえのはまるっきり投げちまってる、もっとひでえのは、隙をみちゃあ博奕をやってるんだぜ、あにい」
この部屋の中もそうだ、と栄二は心の中で呟いた。いつか与平が云ったとおり、男ばかりが寝起きしているにもかかわらず、この部屋はいつもきちんと片づいていたし、きれいに掃除もゆき届いていた。けれどもいまはそうではない、自分のいまわりだけは片づけ、欠かさず掃除をする者もあるが、それも日を追って少なくなり、ときたま小頭の伝七と与平とで、部屋ぜんたいの掃除をするというふうになっていた。
「おらもうがまんができねえ」と万吉は囁いていた、「お奉行さまへ訴えて出るつもりだ」
栄二はゆっくりと首を振った、「よしたほうがいい、むだなことだ」
「お奉行さまへ、じかにだぜ」