さぶは困惑したように、包みを抱え直しながら、自分の足もとを見た。
「このまえにも云った筈だ」と栄二はさらに続けた、「おれはこの寄場で、口では云えないほどの厄介をみんなにかけた、それを返すまではここから出るわけにはいかないんだ」
さぶはちょっとまをおいて云った、「おら、いままで岡安さんと話して来たんだが」
栄二はさぶの顔をみつめた。
「岡安さんは」とさぶはまだるっこい口ぶりで続けた、「栄ちゃんはここから出るほうがいいって云ってた、これまでは口止めをされてたんで云わなかったが、北町奉行の与力で青木さんていう人も、栄ちゃんのことを心配して、たびたびここへたずねて来るそうなんだ、ここでは岡安さんが毎月一度、栄ちゃんのようすを書いて青木さんに送っているんだが、青木さんはそれを自分で慥かめに来るらしい、そして青木さんも同じように、もう寄場から出してやるほうがいいって、云ってるそうなんだよ」
「ちょっと待てよ」と栄二が遮って顔をしかめ、下唇を噛みながら首を捻った、「――おれにゃあまるでちんぷんかんだ、その話が本当だとすると、まるでおれが大名の御落胤かなんぞのように聞えるぜ」
「みんなは本気で心配してるんだよ」
「どうして」と栄二が問い返した、「どうしてそんなに、いろんな人がおれのことを心配するんだ、町奉行から寄場へ送られる者はおれだけじゃあねえ、おれなんかよりずっと気の毒な、助けの必要な者がいくらもいるんだ、それなのにおれ一人だけをそんなに心配するなんてどういうことだ、――なにかわけがあるんだろう、さぶ、おめえなにかまだ隠してるんじゃねえのか」
さぶはゆっくりと頭を振った。
「もう隠してることなんかない」とさぶは考え考え云った、「誰にもわけなんかないんだと思うよ」
「そんなことが信じられるか」
「おら、思うんだが」とさぶは口ごもりながら云った、「――人間のすることに、いちいちわけがなくっちゃならない、ってことはないんじゃないか、お互い人間てものは、どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからないようなことをするときがあるんじゃないだろうか」
「それは話が違うよ」
「覚えているかい、栄ちゃん」さぶは深い溜息をしてから云った、「十五の年の冬だったっけ、おれが店をとびだして、葛西の田舎へ帰ろうとした、雨に濡れながら両国橋を渡ってると、栄ちゃんが追っかけて来たっけ」
「よせよ、そんな古い話」
「おれが頑固に田舎へ帰るって云うと、栄ちゃんは雨の中をいつまでもついて来て、とうとうおれが店へ戻る、って云うまではなれなかった、――栄ちゃん、どういうわけであんなにまでしてくれたんだい、どうしてだい」
「そりゃあ、おめえが友達だからよ」
「ほかにも友達はいたぜ、店で仲がよかったのは五郎あにい、栄ちゃんのことをずいぶん可愛がっていたし、町内の菓子屋の清ちゃん、畳屋の増さん、みんな栄ちゃんと仲のいい友達だった、おらあその中でもいちばん能なしのぐずで、なんの取柄もねえ小僧だったんだ、そのおれをどうしてまた、あんなに親身になって心配してくれたんだい、どういうわけだい、栄ちゃん」
「だからよ」と栄二は吃った、「おめえはおれの友達だし、葛西のうちの内情も聞いていたからだろうさ、ともかく、おれはおめえに出ていかれたくなかったんだ」
さぶはさぐるような調子できき返した、「青木さんや岡安さんが心配するのも、それと同じことだとは思えないかい、栄ちゃん」
栄二は撞木杖を突いて、海端のほうへもっと近より、眼をそばめて、汐干狩をしている人たちを眺めやった。――崩れた石垣の下から救い出されたときのことが、そしてそれからあとの、みんなの心のこもった劬りと心遣いのことが、改めてなまなましく思いだされた。――おれを助けるために、あれだけの人数が逆上したようになり、おれを慰め励ますために、あれだけの人数がまわりに集まってくれた。
「これは人間どうしの絆だ」と栄二は口の中で囁いた、「この寄場とおれを結ぶ絆だ、この絆は簡単に切れるもんじゃないんだ」
「岡安さんは心配してた」と側へ歩みよりながらさぶが云った、「――いま栄ちゃんと同じ部屋に、たちの悪い男がはいってるって、その男はいまになにか間違いを起こすだろうし、栄ちゃんはそれを黙って見てはいないだろうって、だからそんなことにならないうちに、栄ちゃんをここから出したいんだって」
栄二は振り向いてさぶを見た、「岡安さんが本当にそう云ってたのか」
「ああ」とさぶは頷いた、「いま聞いて来たばかりなんだよ」
岡安さんはやっぱり知っていて、なにかを待っているんだ。なにを待ってるんだろう、やつらが暴れだすのをか、それならいますぐだっていい筈じゃないか、やつらは公然と禁制の博奕をやっているし、そのため幾人かの役人が買収され、もっこ部屋の中がめちゃめちゃになってしまった。やつらは現に暴れだしているんだ、これ以上なにを待つことがあるのか、と栄二は思った。
「仕事なんて云えるようなものじゃないが」とさぶは話していた、「――おら正月から、ぼつぼつ頼まれ仕事をやり始めてるんだ、貸長屋のからかみとか、障子張りとかね、それについこのあいだ、筆屋の平蔵さん――知ってるだろう、おすえちゃんのおやじさんだが、その人の紹介で、下谷おかち町の経師屋からも仕事をもらうことになった、主人は茂三郎といってね」
「そりゃあよかった」と栄二はうわのそらで云った、「そりゃあきっとうまくいくよ」
「それでその、経師屋の主人と話したんだが、栄ちゃんが芳古堂にいたって云うと、それならいい仕事があるから、ぜひやってもらいたいって云うんだ」
「おれはまだここから出られないんだ、諄いぞさぶ」
「そうかもしれねえが」と云ってさぶは空いているほうの手で額を撫でた、「青木さんや岡安さんもそう云っていることだし、仕事の手順もついたことだし、ここの義理は義理として、いちおう出る気になっちゃあくれめえか」
栄二は返辞をしなかった。