← Library‹ さぶ 十二の六

さぶは困惑こんわくしたように、包つつみを抱かかえ直なおしながら、自分じぶんの足あしもとを見みた。

「このまえにも云いった筈はずだ」と栄二えいじはさらに続つづけた、「おれはこの寄場よせばで、口くちでは云いえないほどの厄介やっかいをみんなにかけた、それを返かえすまではここから出でるわけにはいかないんだ」

さぶはちょっとまをおいて云いった、「おら、いままで岡安おかやすさんと話はなして来きたんだが」

栄二えいじはさぶの顔かおをみつめた。

「岡安おかやすさんは」とさぶはまだるっこい口くちぶりで続つづけた、「栄さかえちゃんはここから出でるほうがいいって云いってた、これまでは口止くちどめをされてたんで云いわなかったが、北町きたまち奉行ぶぎょうの与力よりきで青木あおきさんていう人ひとも、栄さかえちゃんのことを心配しんぱいして、たびたびここへたずねて来くるそうなんだ、ここでは岡安おかやすさんが毎月まいつき一いち度ど、栄さかえちゃんのようすを書かいて青木あおきさんに送おくっているんだが、青木あおきさんはそれを自分じぶんで慥たしかめに来くるらしい、そして青木あおきさんも同おなじように、もう寄場よせばから出だしてやるほうがいいって、云いってるそうなんだよ」

「ちょっと待まてよ」と栄二えいじが遮さえぎって顔かおをしかめ、下唇したくちびるを噛かみながら首くびを捻ひねった、「――おれにゃあまるでちんぷんかんだ、その話はなしが本当ほんとうだとすると、まるでおれが大名だいみょうの御落胤ごらくいんかなんぞのように聞きこえるぜ」

「みんなは本気ほんきで心配しんぱいしてるんだよ」

「どうして」と栄二えいじが問とい返かえした、「どうしてそんなに、いろんな人ひとがおれのことを心配しんぱいするんだ、町まち奉行ぶぎょうから寄場よせばへ送おくられる者ものはおれだけじゃあねえ、おれなんかよりずっと気きの毒どくな、助たすけの必要ひつような者ものがいくらもいるんだ、それなのにおれ一人ひとりだけをそんなに心配しんぱいするなんてどういうことだ、――なにかわけがあるんだろう、さぶ、おめえなにかまだ隠かくしてるんじゃねえのか」

さぶはゆっくりと頭あたまを振ふった。

「もう隠かくしてることなんかない」とさぶは考かんがえ考かんがえ云いった、「誰だれにもわけなんかないんだと思おもうよ」

「そんなことが信しんじられるか」

「おら、思おもうんだが」とさぶは口くちごもりながら云いった、「――人間にんげんのすることに、いちいちわけがなくっちゃならない、ってことはないんじゃないか、お互たがい人間にんげんてものは、どうしてそんなことをしたのか、自分じぶんでもわからないようなことをするときがあるんじゃないだろうか」

「それは話はなしが違ちがうよ」

「覚おぼえているかい、栄さかえちゃん」さぶは深ふかい溜息ためいきをしてから云いった、「十じゅう五ごの年としの冬ふゆだったっけ、おれが店みせをとびだして、葛西かさいの田舎いなかへ帰かえろうとした、雨あめに濡ぬれながら両国りょうこく橋きょうを渡わたってると、栄さかえちゃんが追おっかけて来きたっけ」

「よせよ、そんな古ふるい話はなし」

「おれが頑固がんこに田舎いなかへ帰かえるって云いうと、栄さかえちゃんは雨あめの中なかをいつまでもついて来きて、とうとうおれが店みせへ戻もどる、って云いうまではなれなかった、――栄さかえちゃん、どういうわけであんなにまでしてくれたんだい、どうしてだい」

「そりゃあ、おめえが友達ともだちだからよ」

「ほかにも友達ともだちはいたぜ、店みせで仲なかがよかったのは五郎ごろうあにい、栄さかえちゃんのことをずいぶん可愛かわいがっていたし、町内ちょうないの菓子かし屋やの清きよしちゃん、畳屋たたみやの増ぞうさん、みんな栄さかえちゃんと仲なかのいい友達ともだちだった、おらあその中なかでもいちばん能のうなしのぐずで、なんの取柄とりえもねえ小僧こぞうだったんだ、そのおれをどうしてまた、あんなに親身しんみになって心配しんぱいしてくれたんだい、どういうわけだい、栄さかえちゃん」

「だからよ」と栄二えいじは吃どもった、「おめえはおれの友達ともだちだし、葛西かさいのうちの内情ないじょうも聞きいていたからだろうさ、ともかく、おれはおめえに出でていかれたくなかったんだ」

さぶはさぐるような調子ちょうしできき返かえした、「青木あおきさんや岡安おかやすさんが心配しんぱいするのも、それと同おなじことだとは思おもえないかい、栄さかえちゃん」

栄二えいじは撞木しゅもく杖つえを突ついて、海端うみばたのほうへもっと近ちかより、眼めをそばめて、汐干しおひ狩かりをしている人ひとたちを眺ながめやった。――崩くずれた石垣いしがきの下したから救すくい出だされたときのことが、そしてそれからあとの、みんなの心こころのこもった劬りと心遣こころづかいのことが、改あらためてなまなましく思おもいだされた。――おれを助たすけるために、あれだけの人数にんずうが逆上ぎゃくじょうしたようになり、おれを慰なぐさめ励はげますために、あれだけの人数にんずうがまわりに集あつまってくれた。

「これは人間にんげんどうしの絆きずなだ」と栄二えいじは口くちの中なかで囁ささやいた、「この寄場よせばとおれを結むすぶ絆きずなだ、この絆きずなは簡単かんたんに切きれるもんじゃないんだ」

「岡安おかやすさんは心配しんぱいしてた」と側がわへ歩あゆみよりながらさぶが云いった、「――いま栄さかえちゃんと同おなじ部屋へやに、たちの悪わるい男おとこがはいってるって、その男おとこはいまになにか間違まちがいを起おこすだろうし、栄さかえちゃんはそれを黙だまって見みてはいないだろうって、だからそんなことにならないうちに、栄さかえちゃんをここから出だしたいんだって」

栄二えいじは振ふり向むいてさぶを見みた、「岡安おかやすさんが本当ほんとうにそう云いってたのか」

「ああ」とさぶは頷うなずいた、「いま聞きいて来きたばかりなんだよ」

岡安おかやすさんはやっぱり知しっていて、なにかを待まっているんだ。なにを待まってるんだろう、やつらが暴あばれだすのをか、それならいますぐだっていい筈はずじゃないか、やつらは公然こうぜんと禁制きんせいの博奕ばくえきをやっているし、そのため幾いく人にんかの役人やくにんが買収ばいしゅうされ、もっこ部屋へやの中なかがめちゃめちゃになってしまった。やつらは現げんに暴あばれだしているんだ、これ以上いじょうなにを待まつことがあるのか、と栄二えいじは思おもった。

「仕事しごとなんて云いえるようなものじゃないが」とさぶは話はなしていた、「――おら正月しょうがつから、ぼつぼつ頼たのまれ仕事しごとをやり始はじめてるんだ、貸かし長屋ながやのからかみとか、障子しょうじ張ばりとかね、それについこのあいだ、筆ふで屋やの平蔵へいぞうさん――知しってるだろう、おすえちゃんのおやじさんだが、その人ひとの紹介しょうかいで、下谷したやおかち町まちの経師屋きょうじやからも仕事しごとをもらうことになった、主人しゅじんは茂三郎もさぶろうといってね」

「そりゃあよかった」と栄二えいじはうわのそらで云いった、「そりゃあきっとうまくいくよ」

「それでその、経師きょうじ屋やの主人しゅじんと話はなしたんだが、栄さかえちゃんが芳かおる古こ堂どうにいたって云いうと、それならいい仕事しごとがあるから、ぜひやってもらいたいって云いうんだ」

「おれはまだここから出でられないんだ、諄くどいぞさぶ」

「そうかもしれねえが」と云いってさぶは空あいているほうの手てで額がくを撫なでた、「青木あおきさんや岡安おかやすさんもそう云いっていることだし、仕事しごとの手順てじゅんもついたことだし、ここの義理ぎりは義理ぎりとして、いちおう出でる気きになっちゃあくれめえか」

栄二えいじは返辞へんじをしなかった。

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