「役人というものも、世間で考えるほど安定したものではない」と岡安が云った、「上役と下役の区別、煩雑な規則、それぞれの役目の権限、これらの中で人間どうしのせりあいがある、出世したい者もあれば、役得をせしめるためになんでもやろうとする者もある、袖の下の受授、人足の労賃のうわまえはね、出入り商人との不正な取引、――世間にある忌わしいことは、ここでも殆んど欠けてはいない」
そこはかつて、栄二が清七といっしょに手鎖の仕置を受けて、三十日のあいだ押籠められていた部屋である。その部屋のある長屋のうしろは大川で、あけてある小さな高い明り窓から、石垣を洗う波の音や、水面をゆく船の櫓音などが、ときをおいてのんびりと聞えてきた。
人足寄場は一つの世界であり、役人たちもまた一つの世界である、というように岡安は語り継いだ。人間が集まってかたちづくる世界には、必ず善と悪とのせめぎあいがあり、善だけに統一することも、悪だけに占められることもない。特にこの寄場の「牢ではない」という原則には、多くの矛盾やあいまいな点があって、掟に違反した者の処罰には、当惑する場合が少なくないし、それをよく見ぬいていて、巧みに法を犯す者もあとを断たない。これらは表面にはあらわれないが、自分などには早くからわかっていた。
「義一らがなにをしているかも、私には初めからわかっていたのだ」と岡安喜兵衛は云った、「こういうことはこんどが初めてではなく、まえにも幾たびかあったことだし、その多くの場合は下役人が買収されたものだ」
もっこ部屋のことに気づいたときは、すでに小島良二郎と他の二人の下役人が、義一らにまるめこまれていることがわかった。自分は元締役で、人足たちと直接のかかりあいはない。人見張役、差配、各部屋の世話人、小頭などの報告によって、それぞれの裁決をするのであり、これを無視して人足部屋のことに手を付ける権限はない。なにか表沙汰になるような事が起こればべつだが、それを待たずにうっかり手出しをすると、寄場ぜんたいの騒動になりかねない。かれらが常に役人を抱き込もうとするのは、事があらわれたとき、役所ぜんたいに累が及ぶ、という威嚇の道具にするのが本当の目的なのだ。
「この事情がわかるか」と岡安がきいた。
栄二は不服そうにではあるが、頷いた。
「悪いことに」と岡安は続けた、「――小島は寄場奉行の遠縁に当るし、奉行の成島どのはいい人だが、寄場という制度をこころよく思っていないうえに、人をみる眼がないから、小島の云うことを鵜呑みにしてしまう、私が人足部屋へ近よれなくなったのもそのためだ」
義一らがだんだん図に乗って、酒まで持ち込むようになったと聞いたとき、もう黙ってはいられないと思った。けれども小島良二郎ら下役人の手配がゆき届いていて、寄りつく隙もないようにみえた。
「こう仔細を話しても、おまえにはもどかしく、私が臆病なように思えるかもしれない、もしも」と云って、岡安はちょっと息をつき、それからさらに云い継いだ、「――もしもそういうように思えたら、おまえ自身のことを考えてみるんだ、ここへ送られてきたおまえを、私たちがどのように扱ったか、仕事にも出ず、反抗的で、規則にも従わなかったおまえを、私たちがどういうぐあいに扱ったか、ということをだ」
栄二はその言葉を噛みしめるようにしていて、やがて静かに頭を垂れた。
「人間どうしの問題では、いそいで始末しなければならない場合と、辛抱づよく機の熟するのを待つ場合とがある」と岡安は心のこもった口ぶりで云った、「こんどの場合はおまえが辛抱をきらせたので、もっこ部屋の掃除がいちおうできた、まだその時期ではなかったかもしれないが、ちょうどいい時期だったかもしれない、どちらであったかはもう少し経たないとわからないが、ともあれ、いちおう区切りのついたことは慥かだ」
そうだ、区切りはついたようだ、と栄二は思った。彼は誰をも巻き添えにせず、初めから終りまで一人でやった。岡安の手で役所へ曳かれ、奉行立会いのうえ同心たちに吟味されたが、小島良二郎や下役人たちのことはもちろん、賭博の事実についても沈黙を守りとおした。――同心たちは知っていたろうが、奉行その人はなにも気づいていなかったのだろう、喧嘩だという栄二の申したてに対して、その手段の無残さをひどく怒り、大牢へ送ることになるだろうときめつけた。吟味のまえに打合せがしてあったとみえ、同心たちは相手が二人であり、二人とも禁制の刃物を持っていたこと、栄二はただ一人のうえ、片足が不自由だったという条件を述べて、強く栄二を弁護した。――奉行はそれをどう受取ったろうか、成島治右衛門は同心たちの弁護をとりあげるようすもなく、翌日すぐに町奉行へ使者を出した。寄場における賞罰は、すべて町奉行の許可を得なければならないからだ。そして栄二は、この部屋へ押籠められたのである。
「おまえが小島や下役人の名を出さず、博奕のことも口にしなかったのはよかった」と岡安は続けていた、「――もしもこれらのことが明らかになったら、もともと寄場の制度に反対な成島どのは、町奉行へどんな進言をするかわからないし、そうなれば事は、この寄場の存廃にかかわるところまで発展するかもしれなかった」
私はこの寄場を確保し、育ててゆきたいと思う。現在の制度にはいろいろ欠陥があるにしても、犯罪者になりそうな性格や境遇にある者を、犯罪者になることから護り、職業と資金を身につけて世間へ復帰させる、ということには大きな意義があるし、人口の増加と生活状態とで、ますますむずかしくなる江戸という大きな世帯では、これからもっと重要な役割を負うことになるだろう。
「おまえ一人に事を押しつけたようだが、私には私で思案があった、ということを知ってもらいたい」
「よくわかりました」と栄二は咳をしてから云った、「正直に申上げると、どうして役所が黙っているのか不審でしたし、岡安さんはなにを待っているんだと僻んだこともありました、けれどもそればかりじゃあありません、あっしは初めから、矢面に立つのは自分だときめていたんです」