← Library‹ さぶ 十三の四

「役人やくにんというものも、世間せけんで考かんがえるほど安定あんていしたものではない」と岡安おかやすが云いった、「上役うわやくと下役したやくの区別くべつ、煩雑はんざつな規則きそく、それぞれの役目やくめの権限けんげん、これらの中なかで人間にんげんどうしのせりあいがある、出世しゅっせしたい者ものもあれば、役得やくとくをせしめるためになんでもやろうとする者ものもある、袖そでの下したの受授じゅじゅ、人足にんそくの労賃ろうちんのうわまえはね、出入でいり商人しょうにんとの不正ふせいな取引とりひき、――世間せけんにある忌いまわしいことは、ここでも殆ほとんど欠かけてはいない」

そこはかつて、栄二えいじが清七せいしちといっしょに手鎖てぐさりの仕置しおきを受うけて、三十さんじゅう日にちのあいだ押籠おしこめられていた部屋へやである。その部屋へやのある長屋ながやのうしろは大川おおかわで、あけてある小ちいさな高たかい明あかり窓まどから、石垣いしがきを洗あらう波なみの音おとや、水面すいめんをゆく船ふねの櫓音ろおとなどが、ときをおいてのんびりと聞きこえてきた。

人足にんそく寄場よせばは一ひとつの世界せかいであり、役人やくにんたちもまた一ひとつの世界せかいである、というように岡安おかやすは語かたり継ついだ。人間にんげんが集あつまってかたちづくる世界せかいには、必かならず善ぜんと悪あくとのせめぎあいがあり、善ぜんだけに統一とういつすることも、悪あくだけに占しめられることもない。特とくにこの寄場よせばの「牢ろうではない」という原則げんそくには、多おおくの矛盾むじゅんやあいまいな点てんがあって、掟おきてに違反いはんした者ものの処罰しょばつには、当惑とうわくする場合ばあいが少すくなくないし、それをよく見みぬいていて、巧たくみに法ほうを犯おかす者ものもあとを断たたない。これらは表面ひょうめんにはあらわれないが、自分じぶんなどには早はやくからわかっていた。

「義一よしかずらがなにをしているかも、私わたくしには初はじめからわかっていたのだ」と岡安おかやす喜兵衛きへえは云いった、「こういうことはこんどが初はじめてではなく、まえにも幾いくたびかあったことだし、その多おおくの場合ばあいは下か役人やくにんが買収ばいしゅうされたものだ」

もっこ部屋へやのことに気きづいたときは、すでに小島こじま良りょう二郎じろうと他ほかの二人ふたりの下した役人やくにんが、義一よしかずらにまるめこまれていることがわかった。自分じぶんは元締もとじめ役やくで、人足にんそくたちと直接ちょくせつのかかりあいはない。人見ひとみ張はり役やく、差配さはい、各かく部屋へやの世話せわ人にん、小頭こがしらなどの報告ほうこくによって、それぞれの裁決さいけつをするのであり、これを無視むしして人足にんそく部屋へやのことに手てを付つける権限けんげんはない。なにか表ひょう沙汰さたになるような事ことが起おこればべつだが、それを待またずにうっかり手出てだしをすると、寄場よせばぜんたいの騒動そうどうになりかねない。かれらが常つねに役人やくにんを抱だき込こもうとするのは、事ことがあらわれたとき、役所やくしょぜんたいに累るいが及およぶ、という威嚇いかくの道具どうぐにするのが本当ほんとうの目的もくてきなのだ。

「この事情じじょうがわかるか」と岡安おかやすがきいた。

栄二えいじは不服ふふくそうにではあるが、頷うなずいた。

「悪わるいことに」と岡安おかやすは続つづけた、「――小島こじまは寄場よせば奉行ぶぎょうの遠縁とおえんに当あたるし、奉行ぶぎょうの成島なるしまどのはいい人ひとだが、寄場よせばという制度せいどをこころよく思おもっていないうえに、人ひとをみる眼めがないから、小島こじまの云いうことを鵜呑うのみにしてしまう、私わたくしが人足にんそく部屋へやへ近ちかよれなくなったのもそのためだ」

義一よしかずらがだんだん図ずに乗のって、酒さけまで持もち込こむようになったと聞きいたとき、もう黙だまってはいられないと思おもった。けれども小島こじま良りょう二郎じろうら下役したやく人にんの手配てはいがゆき届とどいていて、寄よりつく隙すきもないようにみえた。

「こう仔細しさいを話はなしても、おまえにはもどかしく、私わたくしが臆病おくびょうなように思おもえるかもしれない、もしも」と云いって、岡安おかやすはちょっと息いきをつき、それからさらに云いい継ついだ、「――もしもそういうように思おもえたら、おまえ自身じしんのことを考かんがえてみるんだ、ここへ送おくられてきたおまえを、私わたくしたちがどのように扱あつかったか、仕事しごとにも出でず、反抗はんこう的てきで、規則きそくにも従したがわなかったおまえを、私わたくしたちがどういうぐあいに扱あつかったか、ということをだ」

栄二えいじはその言葉ことばを噛かみしめるようにしていて、やがて静しずかに頭あたまを垂たれた。

「人間にんげんどうしの問題もんだいでは、いそいで始末しまつしなければならない場合ばあいと、辛抱しんぼうづよく機きの熟じゅくするのを待まつ場合ばあいとがある」と岡安おかやすは心こころのこもった口くちぶりで云いった、「こんどの場合ばあいはおまえが辛抱しんぼうをきらせたので、もっこ部屋へやの掃除そうじがいちおうできた、まだその時期じきではなかったかもしれないが、ちょうどいい時期じきだったかもしれない、どちらであったかはもう少すこし経たたないとわからないが、ともあれ、いちおう区切くぎりのついたことは慥たしかだ」

そうだ、区切くぎりはついたようだ、と栄二えいじは思おもった。彼かれは誰だれをも巻まき添ぞえにせず、初はじめから終おわりまで一人ひとりでやった。岡安おかやすの手てで役所やくしょへ曳ひかれ、奉行ぶぎょう立会たちあいのうえ同心どうしんたちに吟味ぎんみされたが、小島こじま良りょう二郎じろうや下か役人やくにんたちのことはもちろん、賭博とばくの事実じじつについても沈黙ちんもくを守まもりとおした。――同心どうしんたちは知しっていたろうが、奉行ぶぎょうその人ひとはなにも気きづいていなかったのだろう、喧嘩けんかだという栄二えいじの申もうしたてに対たいして、その手段しゅだんの無残むざんさをひどく怒おこり、大牢たいろうへ送おくることになるだろうときめつけた。吟味ぎんみのまえに打合うちあわせがしてあったとみえ、同心どうしんたちは相手あいてが二人ふたりであり、二人ふたりとも禁制きんせいの刃物はものを持もっていたこと、栄二えいじはただ一人ひとりのうえ、片足かたあしが不ふ自由じゆうだったという条件じょうけんを述のべて、強つよく栄二えいじを弁護べんごした。――奉行ぶぎょうはそれをどう受取うけとったろうか、成島なるしま治右衛門じえもんは同心どうしんたちの弁護べんごをとりあげるようすもなく、翌日よくじつすぐに町まち奉行ぶぎょうへ使者ししゃを出だした。寄場よせばにおける賞罰しょうばつは、すべて町まち奉行ぶぎょうの許可きょかを得えなければならないからだ。そして栄二えいじは、この部屋へやへ押おし籠こめられたのである。

「おまえが小島こじまや下か役人やくにんの名なを出ださず、博奕ばくえきのことも口くちにしなかったのはよかった」と岡安おかやすは続つづけていた、「――もしもこれらのことが明あきらかになったら、もともと寄場よせばの制度せいどに反対はんたいな成島なるしまどのは、町まち奉行ぶぎょうへどんな進言しんげんをするかわからないし、そうなれば事ことは、この寄場よせばの存廃そんぱいにかかわるところまで発展はってんするかもしれなかった」

私わたくしはこの寄場よせばを確保かくほし、育そだててゆきたいと思おもう。現在げんざいの制度せいどにはいろいろ欠陥けっかんがあるにしても、犯罪はんざい者しゃになりそうな性格せいかくや境遇きょうぐうにある者ものを、犯罪はんざい者しゃになることから護まもり、職業しょくぎょうと資金しきんを身みにつけて世間せけんへ復帰ふっきさせる、ということには大おおきな意義いぎがあるし、人口じんこうの増加ぞうかと生活せいかつ状態じょうたいとで、ますますむずかしくなる江戸えどという大おおきな世帯しょたいでは、これからもっと重要じゅうような役割やくわりを負おうことになるだろう。

「おまえ一人ひとりに事ことを押おしつけたようだが、私わたくしには私わたくしで思案しあんがあった、ということを知しってもらいたい」

「よくわかりました」と栄二えいじは咳せきをしてから云いった、「正直しょうじきに申上もうしあげると、どうして役所やくしょが黙だまっているのか不審ふしんでしたし、岡安おかやすさんはなにを待まっているんだと僻ひがんだこともありました、けれどもそればかりじゃあありません、あっしは初はじめから、矢面やおもてに立たつのは自分じぶんだときめていたんです」

Click a word · hold for the whole sentence 0%