「もういちどあるいてみてよ」とおのぶが云った、「もったいぶらないでさ、あたし見ていなかったんですもの、いいでしょ」
栄二は小座敷へあがろうとしたのをやめ、狭い土間の中を二、三歩あるいてみせた。
「あら、まるっきり平左じゃないの」
「平左ってなんだ」
「平気の平左衛門、知らないの」
先に小座敷へあがっていたさぶが笑い、おすえも口へ手を当てて笑った。
「平左なもんか」と栄二は云った、「よく見てみろよ」
彼はまた二、三歩あるいてみせた。注意して見ると、彼の右足は少しひきずるようであるが、そう云われなければ殆んど眼につかない程度であった。おのぶはそのようすを、うっとりしたような眼で見ていて、粋なもんじゃないのと云った。
「そのくらいに片足を曳いてあるくなんて、粋なもんだわ」
「そういう褒めかたもあるか」
「嘘じゃない、ほんとよ、ねえおすえちゃん、あんたもそう思うでしょ」
「そうね」急に呼びかけられておすえはどぎまぎし、ちょっと首をかしげてから云った、「――あたし粋でなくってもいいから、ちゃんと治ってもらいたいわ」
「あらいやだ、もうおかみさんぶってる」と云っておのぶは睨んだ、「うちの人をよその女に、粋だなんて見られたくないんでしょ」
「いやだわ、うちの人だなんて」
「いやだわ、うちの人だなんて」おのぶは口まねをし、それからまたおすえを睨んで云った、「――頬っぺたが火事よ」
その日は四月七日。北町奉行の仮牢から出された栄二を、さぶとおすえが引き取って来たところであった。栄二は仮牢に七日いた。石川島からは「再吟味」ということで差し戻されたが、吟味らしいことはなにもなく、五日のあいだ仮牢に入れられたあと、与力の青木又左衛門に呼出されて、自宅へ帰る気があるかときかれた。
――下谷坂本二丁目の家主源助とさぶがいっしょに来て、そのほうを引き取りたいと願い出た、住居も借り、しょうばいの手掛りもついたという、奉行所としても、そのほうは帰宅すべきだと思うが、どうか。
又左衛門はそう云った。自分がこの町奉行所にいることを、さぶがどうして知ったかは疑うまでもない。さぶは栄二のゆくえを捜すうちに、町廻りの青木功之進と会い、助力を頼んだという。又左衛門は功之進の一族であり、栄二のことではつねに功之進と連絡があったようだ。しぜん石川島から町奉行へ移されたことも、さぶにはすぐ知らせがいったに相違ない。――それにしても、寄場の出来事についての再吟味はどうなるのか、どんなに岡安喜兵衛が奔走しても、あの傷害の現場は部屋の者たちが見ていたのだから、このまま沙汰なしで済ませるわけにはいかないだろう。自分の気持だってそれではさっぱりしない、そう思って栄二は又左衛門に問い返した。すると又左衛門は静かに首を振り、そのことは忘れてしまえ、と云った。
――寄場の人足たち百余人から、そのほうを放免するようにと嘆願書が出ている、こちらの調べでも、そのほうを罰する事実はないということが明白になった。
いまそのほうにとって大事なことは、過去の出来事をいっさい忘れ、まじめな職人になるという気持で帰宅できるかどうか、ということだけなのだ、と又左衛門は云った。栄二は少し待ってもらいたいと頼み、仮牢へ戻って一日考えてみた。芳古堂のことを思い、綿文のことを思い、目明しのことを思った。まえにはそれだけでも、血が煮えたつような怒りにおそわれたものだ。けれども、いまはもうさして心も騒がず、怒りは小さな残り火のように、記憶の底のほうに消えかかっていた。彼は念を押すように、幾たびも同じことを回想してみた。そうして、かつてはあれほど誓った復讐の決意も、殆んどかたちを失っていることを知った。慥かだろうか、と彼は自分に問いかけた。人間のことだから、この気持が絶対なものだとはいえないが、いまは慥かだ。おそらくこのままおさまっていくだろう、そう思ったから、栄二は青木又左衛門にそのことを申出たのであった。
奉行所では預かっておいた栄二の衣類のほかに、寄場で稼いでためた賃銀を渡してくれた。それは五両二分と少しあり、栄二が心づもりにしていた額よりは多かった。彼はそれを二つに分け、半分を寄場へ送ってくれるようにと頼んだ。――長屋はまもなく建て直されると聞いたのでその費用の中へ加えてもらいたいのだ。栄二がそう云うと、又左衛門はじっと彼の眼を見ていてから、黙って頷いた。
引取りに来たのはさぶとおすえで、坂本町の家主というのはいなかった。返された着物や帯はよごれていたし、おすえが仕立ておろしの品を持って来ていたので、下からすっかり新しいのに着替えた。そのときおすえが、着替えに手を貸しながら、すみよしへ寄ってゆこうと云いだしたのであった。
「今日はほんのまねだけよ」おのぶは三人のために膳拵えをしながら云った、「このつぎにゆっくりお祝いをするわね」
女主人は銭湯へいったそうで、お松という小女がおのぶの手伝いをした。女中は三人いるが、みんなかよいで、四時にならなければ来ないという。膳が揃うと、おのぶも襷や前掛をとって三人の前に坐った。
「先に断わっておくが」と栄二が云った、「おれも礼は云わないから、みんなもおめでとうは云わないでくれ、本当のところ、おれはまだめでたくはないんだから、頼むよ」
そして彼は頭をさげた。さぶとおすえの顔がちょっと緊張し、おのぶはその緊張をほぐすように、徳利を持って栄二に酌をした。
「栄さんは人が変ったわ」とおのぶはそう云っておすえを見た、「あたしがついさっき、もういちどあるいてみせてって云ったでしょ、もとの栄さんならうるせえなって、どなりつけるにきまってたわ、だのにいまはいやな顔もしないし、云われるとおりあるいてみせてくれたわ、せんの栄さんには逆立ちをしたってできることじゃなかったわ」
「いくらおれだって」と栄二が云った、「逆立ちであるくようなきようなまねはできやしないさ、それよりのぶ公、いつかの縁談のことはどうなってるんだ」
「その話はこのつぎにするわ」
「片がついたのかどうか、それだけでも聞かせてくれないか」