← Library‹ さぶ 十四の一

「もういちどあるいてみてよ」とおのぶが云いった、「もったいぶらないでさ、あたし見みていなかったんですもの、いいでしょ」

栄二えいじは小しょう座敷ざしきへあがろうとしたのをやめ、狭せまい土間どまの中なかを二、三にさん歩ほあるいてみせた。

「あら、まるっきり平左へいざじゃないの」

「平左へいざってなんだ」

「平気へいきの平左衛門へいざえもん、知しらないの」

先さきに小しょう座敷ざしきへあがっていたさぶが笑わらい、おすえも口くちへ手てを当あてて笑わらった。

「平左へいざなもんか」と栄二えいじは云いった、「よく見みてみろよ」

彼かれはまた二に、三さん歩ほあるいてみせた。注意ちゅういして見みると、彼かれの右足みぎあしは少すこしひきずるようであるが、そう云いわれなければ殆ほとんど眼めにつかない程度ていどであった。おのぶはそのようすを、うっとりしたような眼めで見みていて、粋いきなもんじゃないのと云いった。

「そのくらいに片足かたあしを曳ひいてあるくなんて、粋いきなもんだわ」

「そういう褒ほめかたもあるか」

「嘘うそじゃない、ほんとよ、ねえおすえちゃん、あんたもそう思おもうでしょ」

「そうね」急きゅうに呼よびかけられておすえはどぎまぎし、ちょっと首くびをかしげてから云いった、「――あたし粋いきでなくってもいいから、ちゃんと治なおってもらいたいわ」

「あらいやだ、もうおかみさんぶってる」と云いっておのぶは睨にらんだ、「うちの人ひとをよその女おんなに、粋いきだなんて見みられたくないんでしょ」

「いやだわ、うちの人ひとだなんて」

「いやだわ、うちの人ひとだなんて」おのぶは口くちまねをし、それからまたおすえを睨にらんで云いった、「――頬ほっぺたが火事かじよ」

その日ひは四よん月がつ七しち日にち。北町きたまち奉行ぶぎょうの仮かり牢ろうから出だされた栄二えいじを、さぶとおすえが引ひき取とって来きたところであった。栄二えいじは仮かり牢ろうに七しち日にちいた。石川島いしかわじまからは「再さい吟味ぎんみ」ということで差さし戻もどされたが、吟味ぎんみらしいことはなにもなく、五いつ日かのあいだ仮かり牢ろうに入いれられたあと、与力よりきの青木あおき又左衛門またざえもんに呼出よびだされて、自宅じたくへ帰かえる気きがあるかときかれた。

――下谷したや坂本さかもと二に丁目ちょうめの家主やぬし源助げんすけとさぶがいっしょに来きて、そのほうを引ひき取とりたいと願ねがい出でた、住居すまいも借かり、しょうばいの手掛てがかりもついたという、奉行ぶぎょう所しょとしても、そのほうは帰宅きたくすべきだと思おもうが、どうか。

又左衛門またざえもんはそう云いった。自分じぶんがこの町まち奉行ぶぎょう所しょにいることを、さぶがどうして知しったかは疑うたがうまでもない。さぶは栄二えいじのゆくえを捜さがすうちに、町廻まちまわりの青木あおき功いさお之の進すすむと会あい、助力じょりょくを頼たのんだという。又左衛門またざえもんは功いさお之の進すすむの一族いちぞくであり、栄二えいじのことではつねに功こう之進と連絡れんらくがあったようだ。しぜん石川島いしかわじまから町まち奉行ぶぎょうへ移うつされたことも、さぶにはすぐ知しらせがいったに相違そういない。――それにしても、寄場よせばの出来事できごとについての再さい吟味ぎんみはどうなるのか、どんなに岡安おかやす喜兵衛きへえが奔走ほんそうしても、あの傷害しょうがいの現場げんばは部屋へやの者ものたちが見みていたのだから、このまま沙汰さたなしで済すませるわけにはいかないだろう。自分じぶんの気持きもちだってそれではさっぱりしない、そう思おもって栄二えいじは又左衛門またざえもんに問とい返かえした。すると又左衛門またざえもんは静しずかに首くびを振ふり、そのことは忘わすれてしまえ、と云いった。

――寄場よせばの人足にんそくたち百ひゃく余よ人にんから、そのほうを放免ほうめんするようにと嘆願たんがん書しょが出でている、こちらの調しらべでも、そのほうを罰ばっする事実じじつはないということが明白めいはくになった。

いまそのほうにとって大事だいじなことは、過去かこの出来事できごとをいっさい忘わすれ、まじめな職人しょくにんになるという気持きもちで帰宅きたくできるかどうか、ということだけなのだ、と又左衛門またざえもんは云いった。栄二えいじは少すこし待まってもらいたいと頼たのみ、仮かり牢ろうへ戻もどって一いち日にち考かんがえてみた。芳古堂ほうこどうのことを思おもい、綿めん文ぶんのことを思おもい、目明めあかしのことを思おもった。まえにはそれだけでも、血ちが煮にえたつような怒いかりにおそわれたものだ。けれども、いまはもうさして心こころも騒さわがず、怒いかりは小ちいさな残のこり火びのように、記憶きおくの底そこのほうに消きえかかっていた。彼かれは念ねんを押おすように、幾いくたびも同おなじことを回想かいそうしてみた。そうして、かつてはあれほど誓ちかった復讐ふくしゅうの決意けついも、殆ほとんどかたちを失うしなっていることを知しった。慥たしかだろうか、と彼かれは自分じぶんに問といかけた。人間にんげんのことだから、この気持きもちが絶対ぜったいなものだとはいえないが、いまは慥たしかだ。おそらくこのままおさまっていくだろう、そう思おもったから、栄二えいじは青木あおき又左衛門またざえもんにそのことを申出もうしでたのであった。

奉行ぶぎょう所しょでは預あずかっておいた栄二えいじの衣類いるいのほかに、寄場よせばで稼かせいでためた賃銀ちんぎんを渡わたしてくれた。それは五ご両りょう二に分ふんと少すこしあり、栄二えいじが心こころづもりにしていた額がくよりは多おおかった。彼かれはそれを二ふたつに分わけ、半分はんぶんを寄場よせばへ送おくってくれるようにと頼たのんだ。――長屋ながやはまもなく建たて直なおされると聞きいたのでその費用ひようの中なかへ加くわえてもらいたいのだ。栄二えいじがそう云いうと、又左衛門またざえもんはじっと彼かれの眼めを見みていてから、黙だまって頷うなずいた。

引取ひきとりに来きたのはさぶとおすえで、坂本町さかもとちょうの家主やぬしというのはいなかった。返かえされた着物きものや帯おびはよごれていたし、おすえが仕立したておろしの品しなを持もって来きていたので、下したからすっかり新あたらしいのに着替きがえた。そのときおすえが、着替きがえに手てを貸かしながら、すみよしへ寄よってゆこうと云いいだしたのであった。

「今日きょうはほんのまねだけよ」おのぶは三さん人にんのために膳拵ぜんごしらえをしながら云いった、「このつぎにゆっくりお祝いわいをするわね」

女じょ主人しゅじんは銭湯せんとうへいったそうで、お松まつという小女こおんながおのぶの手伝てつだいをした。女中じょちゅうは三さん人にんいるが、みんなかよいで、四よん時じにならなければ来こないという。膳ぜんが揃そろうと、おのぶも襷たすきや前掛まえかけをとって三さん人にんの前まえに坐すわった。

「先さきに断ことわっておくが」と栄二えいじが云いった、「おれも礼れいは云いわないから、みんなもおめでとうは云いわないでくれ、本当ほんとうのところ、おれはまだめでたくはないんだから、頼たのむよ」

そして彼かれは頭あたまをさげた。さぶとおすえの顔かおがちょっと緊張きんちょうし、おのぶはその緊張きんちょうをほぐすように、徳利とっくりを持もって栄二えいじに酌しゃくをした。

「栄ひさしさんは人ひとが変かわったわ」とおのぶはそう云いっておすえを見みた、「あたしがついさっき、もういちどあるいてみせてって云いったでしょ、もとの栄さかえさんならうるせえなって、どなりつけるにきまってたわ、だのにいまはいやな顔かおもしないし、云いわれるとおりあるいてみせてくれたわ、せんの栄さかえさんには逆立さかだちをしたってできることじゃなかったわ」

「いくらおれだって」と栄二えいじが云いった、「逆立さかだちであるくようなきようなまねはできやしないさ、それよりのぶ公こう、いつかの縁談えんだんのことはどうなってるんだ」

「その話はなしはこのつぎにするわ」

「片かたがついたのかどうか、それだけでも聞きかせてくれないか」

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