← Library‹ さぶ 十四の四

出でがらしですと云いって差出さしだされた茶ちゃは、言葉ことばどおり出でがらしだったし、舌したを焦こがすほど熱あつく淹いれてあった。栄二えいじとさぶは上あがり框がまちに腰こしをかけ、娘むすめは「いそがれているものだから」と断ことわって、ひろげてある縫物ぬいものを取とりあげた。

「こちらが」と娘むすめは針はりを髪かみでこすりながら、栄二えいじとさぶを等分とうぶんに見みてきいた、「――栄ひさしさんと仰おっしゃるんじゃないんですか」

「そうなんだよ」とさぶが答こたえた、「どうしてわかった」

「まぐれ当あたりよ」と娘むすめが云いった、「三郎さぶろうさんの話はなしは栄さかえさんのことばかりだったでしょ、寝ねている父ちちにまで栄ひさしさんの自慢じまんばなしだったんですもの、だからあたしすぐに、そうじゃないかなって思おもったのよ」

「おおげさなんだよ」さぶは栄二えいじに向むかってはにかみ笑わらいをした、「そんなに自慢じまんばなしなんかしやしなかった、ほんとだよ」

「さぶがいろいろお世話せわになったんでしょう」と栄二えいじは娘むすめに云いった、「私わたくしからもお礼れいを申上もうしあげます」

「いいえ、お世話せわになったのはあたしたち親子おやこのほうなんです」娘むすめは針はりの手てを止とめて云いった、「あたしたち、三郎さぶろうさんがいなければここから追おい出だされるところだったんです」

さぶはめんくらって、とんでもねえ、おせえちゃんはなんでもおおげさだから困こまる、などと吃どもりながら云いい、自分じぶんの声こえの高たかいのに気きづいて口くちを手てで塞ふさいだ。おとうさんの病気びょうきはながいのか、と栄二えいじがきき、娘むすめはせっせと針はりを進すすめながら語かたった。――父親ちちおやは長沼ながぬま十樫とがしといい、としは五十ごじゅう七なな歳さいになる。祖父そふの代だいまでは微禄びろくの御ご家人けにんで、本所ほんじょのほうの小こ屋敷やしきに住すんでいたらしい。父ちちが家督かとくをし、祖父そふが亡なくなるとまもなく、小普請組こぶしんぐみのうち十じゅう年ねん無役むやくの者ものが召放めしはなしになった。お上かみの勝手かって元もとの都合つごうによるもので、五十ごじゅう両りょうという金かねを貰もらい、小屋敷こやしきを出でなければならなかった。浪人ろうにんした十じゅう樫かしは料理りょうり屋やの女中じょちゅうだった女おんなと結婚けっこんし、寺子てらこ屋やのようなことをしてつましくくらしていた。そのあいだ幾いくたびとなく住居じゅうきょを移うつし、妻つまは三さん人にんの子こを生うんだが、上うえの二人ふたりは生うまれるとまもなく死しに、三さん人にんめのおせいだけが丈夫じょうぶに育そだった。生うまれたのは深川ふかがわのどことかで、それから神田かんだの柳原やなぎはら、いちじは日本橋にほんばしにも住すんだことがある。はっきり覚おぼえているのは、下谷したやの御成道おなりみちの太助たすけ店だなという長屋ながやにいたときのことで、おせいは五ご歳さいだったが、母親ははおやは良人おっとと娘むすめを捨すてて出奔しゅっぽんした。十じゅう樫かしは浪人ろうにんするときに貰もらった五十ごじゅう両りょうを、万一まんいちの場合ばあいに備そなえて隠かくしておき、どうしても必要ひつように迫せまられたときだけ、ちびちびと出だして使つかっていた。生活せいかつはごくつましかったので、その残のこりはまだ三十さんじゅう両りょう以上いじょうもあった。それを妻つまが発見はっけんし、出奔しゅっぽんするときに残のこらず持もっていってしまった。――皮肉ひにくなことではあるが、十じゅう樫かしが万一まんいちの場合ばあいにと大事だいじにしていた金かねが持もち去さられたあと、まもなくその「万一まんいちの場合ばあい」がやってきた。十じゅう樫かしはその年としの冬ふゆ、急きゅうに手足てあしの関節かんせつが病やみはじめて、寺子てらこ屋やで教おしえることもできず、寝ねたっきりで呻吟しんぎんするようになった。初はじめのうちは教おしえ子ごの親おやたちに頼たのんだり、相あい長屋ながやの人ひとたちの情なさけで食くいつないだが、そんなことが続つづくわけはなく、一いち年ねんと経たたないうちに態ていよく長屋ながやを追おいだされた。どうしようもない、十じゅう樫かしは恥はじを忍しのんで、長沼ながぬまの本家ほんけへ泣なき込こみ、そこで三さん年ねんのあいだくらした。本家ほんけの長沼ながぬまは二百にひゃく石こくあまりの小こ旗本はたもとで、麹町こうじまちに屋敷やしきがあった。家族かぞくが多おおいので生活せいかつも苦くるしかったのだろう、十じゅう樫かし親子おやこは物置ものおきのようなところへ入いれられ、乞食こじき同様どうように扱あつかわれた。――それでも飢うえ死じにをするよりはましだ、と十じゅう樫かしは云いっていたが、おせいは三さん年ねんめに「ここを出でよう」と泣ないて父ちちをくどいた。本家ほんけの末すえっ子こで十じゅう五ご歳さいになる男おとこの子こが、おせいにいたずらをしかけるのである。父ちちに告つげればどんな騒さわぎになるかもしれない、九きゅう歳さいの知恵ちえでそう判断はんだんし、理由りゆうは云いわずにせがみ続つづけた。そうして麹町こうじまちの家いえを出で、本所ほんじょの業平なりひらというところから、浅草あさくさの山谷さんや、新鳥越しんとりごえ、また本所ほんじょへ戻もどって清水町しみずちょうと移うつりあるいた。このあいだに十じゅう樫かしの病気びょうきがいちじ軽快けいかいし、清水しみず町ちょうにいた二に年ねんほどはほそぼそながら寺子てらこ屋やをひらくことができた。

「あたし父ちちよりも母ははに似にているらしいんです」と云いって娘むすめは微笑びしょうした、「――父ちちは温和おんわしい一方いっぽうでしょ、母ははのことはほんのうろ覚おぼえなんですけれど、父ちちの話はなしやなんか思おもい合あわせると、気きの強つよい、はきはきした、どっちかというと派手はで好すきな性分しょうぶんだったようですわ」

本所ほんじょ清水町しみずちょうで寺子てらこ屋やを始はじめたのも、おせいが父ちちにすすめたのだし、二に年ねんそこそこで病気びょうきが再発さいはつしても、おやめなさいとは云いわなかった。おせいは麹町こうじまちを出でてから、ゆくさきざきで子守こもりや走はしり使づかいをし、ときには長屋ながやの狭せまい土間どまへ、駄だ菓子かしの箱はこを並ならべたりした。そうしながら一方いっぽうでは、縫物ぬいものの上手じょうずな人ひとがいれば、むりに頼たのんで教おしえてもらった。どこの町内ちょうないにもそういう人ひとはいるもので、十じゅう五ごの年としにはもう絹物きぬものが扱あつかえるようになった。

「ごめんなさい、こんな勝手かってななが話はなしをして」と云いって娘むすめは二人ふたりに頬笑ほうえんだ、「――父ちちがまた倒たおれ、それからまもなくここへ移うつって来きましたの、ここなら知しっている人ひとはいませんから、としを隠かくしてもわからないでしょ、去年きょねんの三さん月がつに来きたとき、あたし十じゅう八はちだっていったんです、そのほうがいいお仕事しごとも貰もらえるし、仕立したて賃ちんもね」

そしていたずらっぽく首くびをすくめてみせた。栄二えいじはもういちど、おとうさんの病気びょうきは、ときき直なおした。娘むすめはあっさりした口くちぶりで、痛いたんできたらあたためるだけで、そのほかに治療ちりょう法ほうはないそうだと答こたえた。父親ちちおやに愛情あいじょうをもっていないというのではなく、それがそうであるならどうしようもない、といったふうな、さっぱりと割わり切きった調子ちょうしであった。

やがて雨あめがあがり、二人ふたりは礼れいを述のべて外そとへ出でた。いまの夕立ゆうだちの名残なごりで、道みちの上うえには水溜みずたまりができ、道みちの両端りょうたんにある溝みぞは、溢あふれるほどの流ながれになっていた。

「くたびれやしないかい」とさぶが栄二えいじにきいた。

「しっかりした娘むすめだな」栄二えいじは殆ほとんど眼めにつかないくらいに片足かたあしをひきずりながら云いった、「あの身みの上うえばなしなんかも、むだがなくって要領ようりょうがいい、頭あたまが切きれるんだな」

「おいらがあの長屋ながやへはいったのは十じゅう月がつで、十じゅう二に月がつには坂本さかもとのうちを借かりたから、本当ほんとうにつきあったのは八十はちじゅう五ご、六むい日かなんだが」とさぶはいつもの舌したったるい調子ちょうしで云いった、「――そのあいだにいまの身みの上うえばなしを十じゅう回かいくらいも聞きいたよ」

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