九月になり、袷に着替えてから暫くしても、おすえが単衣のままでいるのに、栄二は気づいた。こまかい木綿縞で、浴衣ではないが夏じゅうずっと着ていたものであった。
「単衣じゃありません、袷ですよ」そらと云って、おすえは裾を返してみせた、「ね、ちゃんと裏があるでしょ、あたしこの柄が好きだから縫い直したんです」
「うろこ崩しの袷があったろう、おれはあのほうが好きだがな」
「あれは隣りのおぶんさんにあげました」
「隣りのおぶんさんって」
「おかみさんよ」とおすえが低い声で云った、「御亭主の増六さんは、かよい番頭をしていた店が潰れ、そのあとずっと担ぎ呉服をしているんですって」
だがしょうばいはうまくゆかず、このごろはおぶんの賃仕事で、ようやくその日を凌ぐありさまであり、夫婦の持物はみな売り払うか質草になって、一枚の袷を作ることもできない。そう聞いたので、うろこ崩しの着物をおぶんにやったのだ、とおすえは云った。
「それで、頼まれたんだけれど、あんた怒るかしら」
「ちょっとそっちの端を押えててくれ」栄二は刷毛で糊をならしながら云った、「きっちり押えるんだ、そう」
おすえは云われたとおり、紙の一端を両手で押えたまま、栄二を上眼づかいに見た、「あんた怒るかしら」
「なにを頼まれたんだ」
「仕立物の手伝いなの」とおすえはさりげない口ぶりで云った、「いま注文が多くておぶんさん独りではまにあわないんですって、断わればあとの仕事がもらえないから、注文されただけは片づけたいっていうのよ」
「つまりそれを手伝おうってわけか」
「いけないかしら」
「薄情かもしれないが、よしたほうがいいな」と刷毛を使いながら栄二が云った、「――おまえはうちの仕事だけで手いっぱいだ、朝から晩まで、働きづめでうたた寝をする暇さえないじゃないか、知ってるぜ」
「あらいやだ、そんなに働くもんですか、楽すぎるくらいよ」そして初めて、あまったれたような鼻声をだした、「ねえ、いいでしょ、うちのことはちゃんとしますから」
「いまの話が本当で、おまえがそうしたいっていうんなら」と栄二が自分の手もとをみつめながら云った、「躯にむりをしないようにやったらいいだろう、――行燈の油が少なくなったぜ」
「はい」と云っておすえは立った、「明日すぐにそう云うわ、おぶんさんきっとよろこんでよ」
隣りの家の内情はなにも知らなかった。増六がどこの店へ勤めていたかも、その店が潰れたかどうかも、そしてそのあと、本当に担ぎ呉服をしているかどうかも。その夜おすえから初めて聞いたことだ。世間が一般にひどい不景気で、日本橋の大きな問屋筋でも、倒産した店が少なくないという話だし、町をあるけば「店じめいにつき投売り」とか、閉めた店の大戸に貼った「売り家」の字などが眼につかないことはなかった。――この横丁の左右にも幾筋かのろじがあり、古い長屋がびっしり並んでいる。住民たちの多くはその日稼ぎで、子供でも七つか八つになれば、なにかしら働いて家計を助けなければならないようだ。いつか裏の井戸端で、おすえが洗濯をしていたら、赤児を背負った八歳くらいの女の子が来て、おすえの洗った物を絞ってくれた。さすがに女の子だと思い、礼を云ってから菓子を包んでやると、菓子はいらないから駄賃を呉れ、と云って手を出したそうである。そしてそのあとでも、似たようなことにしばしばあい、世の中にはこういうくらしもあるのね、とおすえは溜息をついたものであった。
隣りの女房のために、仕立物の手伝いをしてやりたい、とおすえが云いだしたとき、栄二はすぐに「おれたちもとうとうそこまできたか」と思った。注文仕事が少ないうえに、売物に作った三十枚ばかりの襖やからかみは、仕事場の隅に立てかけたまま埃をかぶっている。すず風が立つようになったらという希望も、すでにその季節になったいま、殆んどお先まっ暗というほかはなかった。
――どんなに困っても、女房に稼がせるようになっては男はおしまいだ。
芳古堂にいたころ、親方の芳兵衛はよくそう云ったものだ。そのとおりだと栄二も思う、現に小舟町のまわりにも、女房がよく稼ぎ、亭主がのらくらしている、という家が幾軒かあり、それがいちじはうまくゆくようにみえながら、いつかしら世帯じまいをしたり、夜逃げをしたりするのがきまりのようであった。ここでおすえに賃仕事などをさせてはだめだ、おれのこの腕で切りぬけなければ、仕事は決してほんものにはならないぞ。栄二はそう思ったけれども、明日の米代にも困っているようすがわかるので、歯をくいしばるおもいで「よせ」と云うのをがまんした。
そのちょっとまえから、さぶはどこかへ手伝い仕事にでかけ始めた。ぜひと頼まれたもんでと、弁解するように云うだけで、どこへどんな仕事をしにゆくのかは、口をにごして語らなかったが、二、三日するとやって来て、おすえに幾許かの銭をそっと渡すのである。銭か物かは判然としないが、栄二はたぶん銭だろうと思い、けれどそれを見もしないし慥かめようともしなかった。
「大手、搦手だな」と栄二は呟いた、「挾み討ちとこられてはかなわねえ、これじゃあ息が詰っちまう」
二人は栄二に気づかれないようにして、この急場を凌ごうとしているのだ。けれども、気づかれないようにという、かれらの心づかいは、実際にしてもらっていることよりも、栄二にとっては大きな重荷に感じられた。
十月になった或る日、銭湯へでかけた栄二は、湯から出ると家へは帰らず、濡れ手拭をたたんで持ったままあるきだした。どこへゆくというあてもない、二丁目の通りを裏へぬけ、曲り曲りゆくと、入谷の田圃道へ出る。多くはもう刈田で、黒い土に切株の並んだのが、細い道の右にも左にもひらけてい、からすかと思える黒い鳥が、舞いおりたり、急に飛び立ったりしていた。
「じいさんを呼ぶなんてお笑いぐさだったな」と彼はあるきながら呟いた、「――親代りだなんて云って、もしも呼び寄せていたとしたら、与平さんにまで苦労させるところだったぜ」