← Library‹ さぶ 十五の二

九きゅう月がつになり、袷あわせに着替きがえてから暫しばらくしても、おすえが単衣ひとえのままでいるのに、栄二えいじは気きづいた。こまかい木綿もめん縞しまで、浴衣ゆかたではないが夏なつじゅうずっと着きていたものであった。

「単衣ひとえじゃありません、袷あわせですよ」そらと云いって、おすえは裾すそを返かえしてみせた、「ね、ちゃんと裏うらがあるでしょ、あたしこの柄がらが好すきだから縫ぬい直なおしたんです」

「うろこ崩くずしの袷あわせがあったろう、おれはあのほうが好すきだがな」

「あれは隣となりのおぶんさんにあげました」

「隣となりのおぶんさんって」

「おかみさんよ」とおすえが低ひくい声こえで云いった、「御ご亭主ていしゅの増ぞう六ろくさんは、かよい番頭ばんとうをしていた店みせが潰つぶれ、そのあとずっと担かつぎ呉服ごふくをしているんですって」

だがしょうばいはうまくゆかず、このごろはおぶんの賃ちん仕事しごとで、ようやくその日ひを凌しのぐありさまであり、夫婦ふうふの持物もちものはみな売うり払はらうか質草しちぐさになって、一いち枚まいの袷あわせを作つくることもできない。そう聞きいたので、うろこ崩くずしの着物きものをおぶんにやったのだ、とおすえは云いった。

「それで、頼たのまれたんだけれど、あんた怒おこるかしら」

「ちょっとそっちの端はしを押おさえててくれ」栄二えいじは刷毛はけで糊のりをならしながら云いった、「きっちり押おさえるんだ、そう」

おすえは云いわれたとおり、紙かみの一端いったんを両手りょうてで押おさえたまま、栄二えいじを上眼うわめづかいに見みた、「あんた怒おこるかしら」

「なにを頼たのまれたんだ」

「仕立物したてものの手伝てつだいなの」とおすえはさりげない口くちぶりで云いった、「いま注文ちゅうもんが多おおくておぶんさん独ひとりではまにあわないんですって、断ことわればあとの仕事しごとがもらえないから、注文ちゅうもんされただけは片かたづけたいっていうのよ」

「つまりそれを手伝てつだおうってわけか」

「いけないかしら」

「薄情はくじょうかもしれないが、よしたほうがいいな」と刷毛はけを使つかいながら栄さかえ二にが云いった、「――おまえはうちの仕事しごとだけで手ていっぱいだ、朝あさから晩ばんまで、働はたらきづめでうたた寝ねをする暇ひまさえないじゃないか、知しってるぜ」

「あらいやだ、そんなに働はたらくもんですか、楽たのしすぎるくらいよ」そして初はじめて、あまったれたような鼻声はなごえをだした、「ねえ、いいでしょ、うちのことはちゃんとしますから」

「いまの話はなしが本当ほんとうで、おまえがそうしたいっていうんなら」と栄二えいじが自分じぶんの手てもとをみつめながら云いった、「躯むくろにむりをしないようにやったらいいだろう、――行燈あんどんの油あぶらが少すくなくなったぜ」

「はい」と云いっておすえは立たった、「明日あすすぐにそう云いうわ、おぶんさんきっとよろこんでよ」

隣となりの家いえの内情ないじょうはなにも知しらなかった。増ぞう六ろくがどこの店みせへ勤つとめていたかも、その店みせが潰つぶれたかどうかも、そしてそのあと、本当ほんとうに担かつぎ呉服ごふくをしているかどうかも。その夜よるおすえから初はじめて聞きいたことだ。世間せけんが一般いっぱんにひどい不ふ景気けいきで、日本橋にほんばしの大おおきな問屋とんや筋すじでも、倒産とうさんした店みせが少すくなくないという話はなしだし、町まちをあるけば「店みせじめいにつき投売なげうり」とか、閉しめた店みせの大戸おおどに貼はった「売うり家や」の字じなどが眼めにつかないことはなかった。――この横丁よこちょうの左右さゆうにも幾筋いくすじかのろじがあり、古ふるい長屋ながやがびっしり並ならんでいる。住民じゅうみんたちの多おおくはその日ひ稼かせぎで、子供こどもでも七ななつか八ようつになれば、なにかしら働はたらいて家計かけいを助たすけなければならないようだ。いつか裏うらの井戸いど端はしで、おすえが洗濯せんたくをしていたら、赤児あかごを背負せおった八はち歳さいくらいの女おんなの子こが来きて、おすえの洗あらった物ものを絞しぼってくれた。さすがに女おんなの子こだと思おもい、礼れいを云いってから菓子かしを包つつんでやると、菓子かしはいらないから駄賃だちんを呉くれ、と云いって手てを出だしたそうである。そしてそのあとでも、似にたようなことにしばしばあい、世よの中なかにはこういうくらしもあるのね、とおすえは溜息ためいきをついたものであった。

隣となりの女房にょうぼうのために、仕立物したてものの手伝てつだいをしてやりたい、とおすえが云いいだしたとき、栄二えいじはすぐに「おれたちもとうとうそこまできたか」と思おもった。注文ちゅうもん仕事しごとが少すくないうえに、売物うりものに作つくった三十さんじゅう枚まいばかりの襖ふすまやからかみは、仕事場しごとばの隅すみに立たてかけたまま埃ほこりをかぶっている。すず風かぜが立たつようになったらという希望きぼうも、すでにその季節きせつになったいま、殆ほとんどお先さきまっ暗くらというほかはなかった。

――どんなに困こまっても、女房にょうぼうに稼かせがせるようになっては男おとこはおしまいだ。

芳かおる古こ堂どうにいたころ、親方おやかたの芳兵衛よしべえはよくそう云いったものだ。そのとおりだと栄二えいじも思おもう、現げんに小舟こぶね町まちのまわりにも、女房にょうぼうがよく稼かせぎ、亭主ていしゅがのらくらしている、という家いえが幾いく軒けんかあり、それがいちじはうまくゆくようにみえながら、いつかしら世帯せたいじまいをしたり、夜逃よにげをしたりするのがきまりのようであった。ここでおすえに賃ちん仕事しごとなどをさせてはだめだ、おれのこの腕うでで切きりぬけなければ、仕事しごとは決けっしてほんものにはならないぞ。栄二えいじはそう思おもったけれども、明日あすの米代こめだいにも困こまっているようすがわかるので、歯はをくいしばるおもいで「よせ」と云いうのをがまんした。

そのちょっとまえから、さぶはどこかへ手伝てつだい仕事しごとにでかけ始はじめた。ぜひと頼たのまれたもんでと、弁解べんかいするように云いうだけで、どこへどんな仕事しごとをしにゆくのかは、口くちをにごして語かたらなかったが、二に、三さん日にちするとやって来きて、おすえに幾許いくばくかの銭ぜにをそっと渡わたすのである。銭ぜにか物ものかは判然はんぜんとしないが、栄二えいじはたぶん銭ぜにだろうと思おもい、けれどそれを見みもしないし慥たしかめようともしなかった。

「大手おおて、搦手からめてだな」と栄二えいじは呟つぶやいた、「挾はさみ討うちとこられてはかなわねえ、これじゃあ息いきが詰なじっちまう」

二人ふたりは栄二えいじに気きづかれないようにして、この急場きゅうばを凌しのごうとしているのだ。けれども、気きづかれないようにという、かれらの心こころづかいは、実際じっさいにしてもらっていることよりも、栄二えいじにとっては大おおきな重荷おもにに感かんじられた。

十じゅう月がつになった或ある日ひ、銭湯せんとうへでかけた栄二えいじは、湯ゆから出でると家いえへは帰かえらず、濡ぬれ手拭てぬぐいをたたんで持もったままあるきだした。どこへゆくというあてもない、二に丁目ちょうめの通とおりを裏うらへぬけ、曲まがり曲まがりゆくと、入谷いりやの田圃たんぼ道みちへ出でる。多おおくはもう刈田かったで、黒くろい土つちに切株きりかぶの並ならんだのが、細ほそい道みちの右みぎにも左ひだりにもひらけてい、からすかと思おもえる黒くろい鳥とりが、舞まいおりたり、急きゅうに飛とび立たったりしていた。

「じいさんを呼よぶなんてお笑わらいぐさだったな」と彼かれはあるきながら呟つぶやいた、「――親代おやがわりだなんて云いって、もしも呼よび寄よせていたとしたら、与平よへいさんにまで苦労くろうさせるところだったぜ」

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