紙にのせた小判五枚をぼんやりみつめながら、栄二は湯呑の水を啜った。
「さぬき屋伊平、本当の話かな」
「相州の江ノ島」とおのぶが云った、「近くはなくってよ」
「百里さきだって驚きゃあしないが、話があんまり急のことなんで、まだ本当のことのように思えないんだ」
「栄さんには急な話でも、さぬき屋さんはもう五日も捜してたのよ」
そういう話だった。さぬき屋は相州江ノ島にある料理屋で、客座敷が十二。その襖をぜんぶ張り替えるため、江戸まで職人を捜しに来た。特に三つの座敷は絵襖なので、表具のできる職人でなければならない。他の座敷も額張りから地紙まで、かなり贅沢な注文がついていた。腕いっぱいにやれる本式の仕事らしいので、久方ぶりに栄二は昂奮し、注文に対して自分の意見をこまかく述べた。伊平も栄二の主張することが気にいったようすで、いちど下見に来てくれと云い、手付けとして五両という金を置いていったのだ。――伊平は表具屋と経師屋を七、八軒もまわったという、芳古堂にもいったそうだが、賃銀の点でみな纏らなかった。どこでも職人は五人以上と見積り、しかも仕事の内容からいって腕っこきでなければならない。とすると、それだけでもこの季節に江ノ島などへ出仕事にはやれない、もしもやるとすれば、材料をべつとして職人の手間だけでもこれこれと、伊平の考えていた予算より、三倍も高い金額を要求したということであった。期限は正月にまにあえばいいと聞いたから、栄二はさぶと二人でやれると思った。賃銀などはどうでも、なにより仕事にありつきたかった。それも本筋の仕事なのだから、頼んでもやりたかったのである。
「酔ってたんだな」と栄二は云った、「酔ってたから、あんなにすらすらいっちゃったんだろうが、いま考えてみるとまるで夢のようだ」
「現にお金がそこにあるじゃないの」とおのぶが云った、「まさか栄さん、いまになっていやだなんて云うんじゃないでしょうね」
「おれの云うことがそんなふうに聞えたか」
「あたし忘れてたわ」と云っておのぶは立ち、自分の盃を持って来ながら、お松に向って酒をつけるように命じ、また栄二の向うに腰を掛けた、「さっきは文句を云うつもりで飲む気だったけれど、こんどはお祝のためにあたしもいただくわ」
「おかみさんのほうはいいのか」
「ゆうべから御帰館なしよ、その話はあとでするわ」と云っておのぶは手酌で一つ飲んだ、「――さぬき屋さんは五日まえから来ていたの、堀の向うの吉田屋っていう宿屋に泊ってるんですって、初めに仕事の話をしてくれれば、あたしから栄さんに取次いだのに、なんにも云わないから今日までわからなかったのよ、それでも栄さんが仕事がないなんて云わなかったら、あたし取次ぎなんかしなかったかもしれないわね、なにしろ江ノ島なんて箱根山の向うですものね」
「へえ、箱根山の向うですかね」
「お酌してちょうだい」と盃を突きつけて、おのぶはすぐに舌を出した、「あ、だめか、盃のやりとりなし、酌のしっこなしね」
「酌をするよ、おかげで仕事にありついたんだからな」
「それで思い出したわ」
お松が燗のついた酒を持って来、かよいの女中が二人あらわれた。二人は「お早うございます」と挨拶したが、おのぶはそれにはうわのそらで、続けさまに飲みながら、むきになって栄二にくってかかった。
「栄さんはさっき、さぶちゃんが日稼ぎをすることや、女房に稼がせることがどうとかって云ったわね」
「よせよ、からむのはまだ早いぜ」
「これで三杯めじゃないの、酔って云うんじゃあない、本気よ」とおのぶは云った、「ねえ、栄さんは芳古堂でも指折りの腕を持っているでしょう、こんどの話がなくっても、いつかはきっと売れっこの職人になるわ、――女房に稼がせるようになっては男はもうだめだって、世間で云うのはあんたとはべつのことよ、それはもともとずくなしで、かみさんの稼ぎにおぶさって、のらくら遊んでるような人のことだわ、栄さんのはそうじゃない、したくても仕事がないからでしょ、仕事がなければ左甚五郎だって袖乞いのようなことをしたじゃないの」
「左甚五郎がね、そいつは初耳だな」
「はぐらかさないで、これからが本題なんだから」おのぶは手酌で飲んで続けた、「――栄さんはさっき、おすえさんに稼がせてる、って云ったわね、そしてあたしは、たいそうな思いあがりだって云ったでしょ、それがわかって栄さん」
栄二はあいまいに首を振った。
「怒らないでちょうだい、これは本気なんだから」とおのぶは云った、「おすえさんに稼がせるっていう気持はね、栄さんの仕事が繁昌するようになったとき、こんどは栄さんのはたらきでみんなを養っている、っていう考えになるのよ」
「男が稼いで妻子を養うのは、当りまえじゃないか」
おのぶは静かに首を振った、「とんでもない、冗談でしょ、人間が人間を養うなんて、とんでもない思いあがりだわ、栄さんが職人として立ってゆくには、幾人か幾十人かの者が陰で力をかしているからよ、――さぶちゃんはよく云ったでしょ、おれは能なしのぐずだって、けれどもさぶちゃんの仕込んだ糊がなければ、栄さんの仕事だって思うようにはいかないでしょ」
「さぶの仕込んだ糊は、決して誰にもひけはとらない、芳古堂でも右に出る者はなかった筈だ」
「まえから栄さんはよくそう云ってたわ」
近所に住む馴染客らしい男が、二人はいって来、いらっしゃいと云って、おのぶは女中たちを呼んだ。それから栄二に眼くばせをし、前にある燗徳利や皿小鉢を盆にのせて、立ちあがった。あっちへゆきましょう、と命令するように囁かれ、栄二も立って奥の小座敷へ移った。もう昏れかかる時刻で、小座敷の中は暗く、おのぶは行燈を持って来るようにと、お松に云った。