← Library‹ さぶ 十五の四

紙かみにのせた小判こばん五ご枚まいをぼんやりみつめながら、栄二えいじは湯呑ゆのみの水みずを啜すすった。

「さぬき屋や伊平いへい、本当ほんとうの話はなしかな」

「相州そうしゅうの江えノ島しま」とおのぶが云いった、「近ちかくはなくってよ」

「百ひゃく里りさきだって驚おどろきゃあしないが、話はなしがあんまり急きゅうのことなんで、まだ本当ほんとうのことのように思おもえないんだ」

「栄ひさしさんには急きゅうな話はなしでも、さぬき屋やさんはもう五いつ日かも捜さがしてたのよ」

そういう話はなしだった。さぬき屋やは相州そうしゅう江えノ島しまにある料理りょうり屋やで、客きゃく座敷ざしきが十じゅう二に。その襖ふすまをぜんぶ張はり替かえるため、江戸えどまで職人しょくにんを捜さがしに来きた。特とくに三みつの座敷ざしきは絵襖えぶすまなので、表具ひょうぐのできる職人しょくにんでなければならない。他ほかの座敷ざしきも額がく張ばりから地紙じがみまで、かなり贅沢ぜいたくな注文ちゅうもんがついていた。腕うでいっぱいにやれる本式ほんしきの仕事しごとらしいので、久方ひさかたぶりに栄二えいじは昂奮こうふんし、注文ちゅうもんに対たいして自分じぶんの意見いけんをこまかく述のべた。伊平いへいも栄二えいじの主張しゅちょうすることが気きにいったようすで、いちど下見したみに来きてくれと云いい、手付てつけとして五ご両りょうという金かねを置おいていったのだ。――伊平いへいは表具ひょうぐ屋やと経師きょうじ屋やを七、八しちはち軒けんもまわったという、芳かおる古こ堂どうにもいったそうだが、賃銀ちんぎんの点てんでみな纏まとまらなかった。どこでも職人しょくにんは五ご人にん以上いじょうと見積みつもり、しかも仕事しごとの内容ないようからいって腕うでっこきでなければならない。とすると、それだけでもこの季節きせつに江えノ島しまなどへ出で仕事しごとにはやれない、もしもやるとすれば、材料ざいりょうをべつとして職人しょくにんの手間てまだけでもこれこれと、伊平いへいの考かんがえていた予算よさんより、三さん倍ばいも高たかい金額きんがくを要求ようきゅうしたということであった。期限きげんは正月しょうがつにまにあえばいいと聞きいたから、栄二えいじはさぶと二人ふたりでやれると思おもった。賃銀ちんぎんなどはどうでも、なにより仕事しごとにありつきたかった。それも本筋ほんすじの仕事しごとなのだから、頼たのんでもやりたかったのである。

「酔よってたんだな」と栄二えいじは云いった、「酔よってたから、あんなにすらすらいっちゃったんだろうが、いま考かんがえてみるとまるで夢ゆめのようだ」

「現げんにお金かねがそこにあるじゃないの」とおのぶが云いった、「まさか栄ひさしさん、いまになっていやだなんて云いうんじゃないでしょうね」

「おれの云いうことがそんなふうに聞きこえたか」

「あたし忘わすれてたわ」と云いっておのぶは立たち、自分じぶんの盃さかずきを持もって来きながら、お松まつに向むかって酒さけをつけるように命めいじ、また栄二えいじの向むこうに腰こしを掛かけた、「さっきは文句もんくを云いうつもりで飲のむ気きだったけれど、こんどはお祝しゅくのためにあたしもいただくわ」

「おかみさんのほうはいいのか」

「ゆうべから御ご帰館きかんなしよ、その話はなしはあとでするわ」と云いっておのぶは手酌てじゃくで一ひとつ飲のんだ、「――さぬき屋やさんは五いつ日かまえから来きていたの、堀ほりの向むこうの吉田よしだ屋やっていう宿屋やどやに泊とまってるんですって、初はじめに仕事しごとの話はなしをしてくれれば、あたしから栄さかえさんに取次とりついだのに、なんにも云いわないから今日きょうまでわからなかったのよ、それでも栄ひさしさんが仕事しごとがないなんて云いわなかったら、あたし取次とりつぎなんかしなかったかもしれないわね、なにしろ江えノ島しまなんて箱根はこね山やまの向むこうですものね」

「へえ、箱根はこね山やまの向むこうですかね」

「お酌しゃくしてちょうだい」と盃さかずきを突つきつけて、おのぶはすぐに舌したを出だした、「あ、だめか、盃さかずきのやりとりなし、酌しゃくのしっこなしね」

「酌しゃくをするよ、おかげで仕事しごとにありついたんだからな」

「それで思おもい出だしたわ」

お松まつが燗かんのついた酒さけを持もって来き、かよいの女中じょちゅうが二人ふたりあらわれた。二人ふたりは「お早はようございます」と挨拶あいさつしたが、おのぶはそれにはうわのそらで、続つづけさまに飲のみながら、むきになって栄二えいじにくってかかった。

「栄ひさしさんはさっき、さぶちゃんが日ひ稼かせぎをすることや、女房にょうぼうに稼かせがせることがどうとかって云いったわね」

「よせよ、からむのはまだ早はやいぜ」

「これで三さん杯はいめじゃないの、酔よいって云いうんじゃあない、本気ほんきよ」とおのぶは云いった、「ねえ、栄さかえさんは芳かおる古こ堂どうでも指折ゆびおりの腕うでを持もっているでしょう、こんどの話はなしがなくっても、いつかはきっと売うれっこの職人しょくにんになるわ、――女房にょうぼうに稼かせがせるようになっては男おとこはもうだめだって、世間せけんで云いうのはあんたとはべつのことよ、それはもともとずくなしで、かみさんの稼かせぎにおぶさって、のらくら遊あそんでるような人ひとのことだわ、栄さかえさんのはそうじゃない、したくても仕事しごとがないからでしょ、仕事しごとがなければ左甚五郎ひだりじんごろうだって袖乞そでごいのようなことをしたじゃないの」

「左さ甚五郎じんごろうがね、そいつは初耳はつみみだな」

「はぐらかさないで、これからが本題ほんだいなんだから」おのぶは手酌てじゃくで飲のんで続つづけた、「――栄ひさしさんはさっき、おすえさんに稼かせがせてる、って云いったわね、そしてあたしは、たいそうな思おもいあがりだって云いったでしょ、それがわかって栄ひさしさん」

栄二えいじはあいまいに首くびを振ふった。

「怒おこらないでちょうだい、これは本気ほんきなんだから」とおのぶは云いった、「おすえさんに稼かせがせるっていう気持きもちはね、栄さかえさんの仕事しごとが繁昌はんじょうするようになったとき、こんどは栄さかえさんのはたらきでみんなを養やしなっている、っていう考かんがえになるのよ」

「男おとこが稼かせいで妻子さいしを養やしなうのは、当あたりまえじゃないか」

おのぶは静しずかに首くびを振ふった、「とんでもない、冗談じょうだんでしょ、人間にんげんが人間にんげんを養やしなうなんて、とんでもない思おもいあがりだわ、栄さかえさんが職人しょくにんとして立たってゆくには、幾いく人にんか幾十いくじゅう人にんかの者ものが陰かげで力ちからをかしているからよ、――さぶちゃんはよく云いったでしょ、おれは能のうなしのぐずだって、けれどもさぶちゃんの仕込しこんだ糊のりがなければ、栄さかえさんの仕事しごとだって思おもうようにはいかないでしょ」

「さぶの仕込しこんだ糊のりは、決けっして誰だれにもひけはとらない、芳かおる古こ堂どうでも右みぎに出でる者ものはなかった筈はずだ」

「まえから栄さかえさんはよくそう云いってたわ」

近所きんじょに住すむ馴染客なじみきゃくらしい男おとこが、二人ふたりはいって来き、いらっしゃいと云いって、おのぶは女中じょちゅうたちを呼よんだ。それから栄二えいじに眼めくばせをし、前まえにある燗かん徳利とっくりや皿さら小鉢こばちを盆ぼんにのせて、立たちあがった。あっちへゆきましょう、と命令めいれいするように囁ささやかれ、栄二えいじも立たって奥おくの小しょう座敷ざしきへ移うつった。もう昏くれかかる時刻じこくで、小しょう座敷ざしきの中なかは暗くらく、おのぶは行燈あんどんを持もって来くるようにと、お松まつに云いった。

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