栄二はしゃんと姿勢を正し、おすえの顔を見まもった。それから三本めの徳利を取って湯呑に注ぎ、それをひと息に呷った。
「おれはまえから腑におちなかった」栄二はぎらぎらした眼を天床へ向けながら続けた、「たしかに、おれとさぶは小僧じぶんからのつきあいだ、けれども、おれが島送りになってからのあしかけ三年、あいつがおれのためにしてくれたことはあたりまえじゃあねえ、どう考えたって度がすぎてる、仕事の暇をみておれのゆくえを捜すだけでも、なみたいてえなことじゃあなかったろう、おれは自分の名も云わず、芳古堂のほの字も口にしなかった、まったくの無宿者として島へ送られたんだから、――この広い江戸で、そんな人間のゆくえをつきとめるのは、人間わざじゃあねえと云ってもいいくらいだ、まだそのあとのことがある、おれのゆくえをつきとめただけじゃあない、さぶのやつは芳古堂から、暇を出されるほど足しげく、島へおれをたずねて来た」
「ちょっと待って下さい」
「おめえこそ待て」と云って栄二は湯呑に酒を注ぎ、それをひとくち啜った、「――仕事のあいま、休みの日ごとに、部屋なかまにまで土産物を持ってたずねて来た、なんのためだ、やがてそれが芳古堂の親方の耳にはいり、あいつは店を追いだされた、なんのためだ、ただ小僧じぶんからつきあった、仲のいい友達だったというだけでか」
「ええ、そうだと思います」蒼白く、ひきつったような顔で、おすえは頷いた、「あたし綿文さんにいたころから聞いていました、さぶちゃんは小さいじぶんからのつきあいというだけではなく、あんたのことを一生の頼りにしていたんでしょう、おれの一生は栄ちゃんがあってこそだ、栄ちゃんていう人がいなければ、おれは土方かぼて振りになっていたところだって、あたしはさぶちゃんからじかに聞いたこともあります」
「ふん」栄二は酒を啜って、冷笑するようにゆっくりと頭を振った、「覚えているかい、と云いたいところだろう」
「なにが覚えているかいなの」
栄二はそっとまた頭を振った、眼の裏に思いうかんだ雨の両国橋の情景を、かき消そうとするかのような動作であった。
「あたしはこう思うわ」とおすえは続けた、「金襴の切のまちがいがあったとき、さぶちゃんはあんたといっしょだった、あんたといっしょに仕事をしていて、あの切があんたの道具袋の中へ入れられるのを知らなかった、側についていて、そんな大事なことに気がつかなかった、一生の頼みだと思う人の災難を、側にいながら防ぐことができなかった、――これは自分の罪だ、どんなことをしてもこの罪はつぐなわなければならない、――さぶちゃんならそう思うのがあたりまえでしょ、ほかの人ならともかく、さぶちゃんならきっとそう思う筈だわ」
栄二はじっとおすえの顔を見まもった、「――おめえ、ふるえているな」
「さぶちゃんがあんたのために、人なみ以上のことをしたからって、それであの人を疑うなんてあんたらしくないことだわ」
「そんなら、ここに書いてあるこの、この文句はどうとったらいいんだ」
おすえは硬ばった顔を俯向け、それから「水を飲んできます」と云って立ちあがった。栄二は湯呑に酒を注ぎ、それを口まで持っていったが、眉をしかめて飲むのをやめ、湯呑を持った手を膝の上へおろした。そこへおすえが戻って来て、坐った。
「あたし、あやまることがあるの」おすえは自分の膝をみつめながら、囁くような声で云った、「――これは一生、どんなことがあっても云わないつもりだったけれど、あんたがさぶちゃんを疑って、そのために二人の仲が割れるようなことになったら、それこそ取返しがつかないから云ってしまいます」
栄二は黙っておすえを見まもった。
「済みません、堪忍して下さい」おすえは板の間へ両手を突いた、「――金襴の切を、あんたの道具袋の中へ入れたのは、あたしです」
「おいおい」と栄二が遮った、「さぶのやつをとりなすためなら、そんなへたな拵えごとはよしたほうがいいぜ」
「拵えごとじゃありません、本当のことなんです」おすえは両手を膝へ戻し、大きくみはった眼で栄二を見た、「――あたしはあんたのおかみさんになりたかった、栄さんに貰ってもらうためなら、どんなことでもするつもりだったんです」
栄二は頭を左右に振り、眸子をさだめておすえの表情を見た。それからふいと立ちあがり、仕事場から出ていって、表の戸閉りをした。それは、おすえの云った言葉の意味をのみこむため、自分の頭にゆとりをつけようとする動作のようであった。
「聞かしてもらおう」元のところへ戻って来て坐りながら、栄二が云った、「それはどういうことなんだ」
「あんたは綿文さんのにんき者でした」とおすえは云った、「――お嬢さんのおきみさん、おそのさんの二人とも、お店の娘と出入りの職人というより、まるできょうだいのように仲がよかったし、いつかは、どっちか一人が栄さんと御夫婦になる、っていう噂でした」
「栄さんなんて云うのはよせ」
「そんな噂を聞いて」とおすえは続けた、「そんな噂を聞くたびに、あたしは胸がつかえてごはんも喰べられなかったくらいです」
「おれの気持はわかっていた筈だぜ」
おすえは頷いた、「わかっていました、わかっていましたけれど、女って気のせまいものなんでしょうか、耳からはいる噂のほうが、本当のことのように思えたんです、このままではだめだ、自分は中働き、相手は綿文のお嬢さん、このままではとてもかなわない、いつかはあんたを取られてしまう、どうしよう、どうしたらいいだろうって、――思い悩み、考えあぐねて、あたしずっと、夜も眠れないような日が続いたんです」
「わかった」と栄二が云った、「それが本当のことならもうよせ」