← Library‹ さぶ 十六の五

栄二えいじはしゃんと姿勢しせいを正ただし、おすえの顔かおを見みまもった。それから三さん本ほんめの徳利とっくりを取とって湯呑ゆのみに注そそぎ、それをひと息いきに呷あおった。

「おれはまえから腑ふにおちなかった」栄二えいじはぎらぎらした眼めを天床てんじょうへ向むけながら続つづけた、「たしかに、おれとさぶは小僧こぞうじぶんからのつきあいだ、けれども、おれが島送しまおくりになってからのあしかけ三さん年ねん、あいつがおれのためにしてくれたことはあたりまえじゃあねえ、どう考かんがえたって度たびがすぎてる、仕事しごとの暇ひまをみておれのゆくえを捜さがすだけでも、なみたいてえなことじゃあなかったろう、おれは自分じぶんの名なも云いわず、芳かおる古こ堂どうのほの字じも口くちにしなかった、まったくの無宿むしゅく者しゃとして島しまへ送おくられたんだから、――この広ひろい江戸えどで、そんな人間にんげんのゆくえをつきとめるのは、人間にんげんわざじゃあねえと云いってもいいくらいだ、まだそのあとのことがある、おれのゆくえをつきとめただけじゃあない、さぶのやつは芳かおる古こ堂どうから、暇ひまを出だされるほど足あししげく、島しまへおれをたずねて来きた」

「ちょっと待まって下ください」

「おめえこそ待まて」と云いって栄二えいじは湯呑ゆのみに酒さけを注そそぎ、それをひとくち啜すすった、「――仕事しごとのあいま、休やすみの日ひごとに、部屋へやなかまにまで土産物みやげものを持もってたずねて来きた、なんのためだ、やがてそれが芳かおる古こ堂どうの親方おやかたの耳みみにはいり、あいつは店みせを追おいだされた、なんのためだ、ただ小僧こぞうじぶんからつきあった、仲なかのいい友達ともだちだったというだけでか」

「ええ、そうだと思おもいます」蒼白あおじろく、ひきつったような顔かおで、おすえは頷うなずいた、「あたし綿めん文ぶんさんにいたころから聞きいていました、さぶちゃんは小ちいさいじぶんからのつきあいというだけではなく、あんたのことを一生いっしょうの頼たよりにしていたんでしょう、おれの一生いっしょうは栄さかえちゃんがあってこそだ、栄さかえちゃんていう人ひとがいなければ、おれは土方どかたかぼて振ふりになっていたところだって、あたしはさぶちゃんからじかに聞きいたこともあります」

「ふん」栄二えいじは酒さけを啜すすって、冷笑れいしょうするようにゆっくりと頭あたまを振ふった、「覚おぼえているかい、と云いいたいところだろう」

「なにが覚おぼえているかいなの」

栄二えいじはそっとまた頭あたまを振ふった、眼めの裏うらに思おもいうかんだ雨あめの両国りょうこく橋きょうの情景じょうけいを、かき消けそうとするかのような動作どうさであった。

「あたしはこう思おもうわ」とおすえは続つづけた、「金襴きんらんの切せつのまちがいがあったとき、さぶちゃんはあんたといっしょだった、あんたといっしょに仕事しごとをしていて、あの切きれがあんたの道具どうぐ袋ふくろの中なかへ入いれられるのを知しらなかった、側がわについていて、そんな大事だいじなことに気きがつかなかった、一生いっしょうの頼たのみだと思おもう人ひとの災難さいなんを、側がわにいながら防ふせぐことができなかった、――これは自分じぶんの罪つみだ、どんなことをしてもこの罪つみはつぐなわなければならない、――さぶちゃんならそう思おもうのがあたりまえでしょ、ほかの人ひとならともかく、さぶちゃんならきっとそう思おもう筈はずだわ」

栄二えいじはじっとおすえの顔かおを見みまもった、「――おめえ、ふるえているな」

「さぶちゃんがあんたのために、人ひとなみ以上いじょうのことをしたからって、それであの人ひとを疑うたがうなんてあんたらしくないことだわ」

「そんなら、ここに書かいてあるこの、この文句もんくはどうとったらいいんだ」

おすえは硬こわばった顔かおを俯向うつむけ、それから「水みずを飲のんできます」と云いって立たちあがった。栄二えいじは湯呑ゆのみに酒さけを注そそぎ、それを口くちまで持もっていったが、眉まゆをしかめて飲のむのをやめ、湯呑ゆのみを持もった手てを膝ひざの上うえへおろした。そこへおすえが戻もどって来きて、坐すわった。

「あたし、あやまることがあるの」おすえは自分じぶんの膝ひざをみつめながら、囁ささやくような声こえで云いった、「――これは一生いっしょう、どんなことがあっても云いわないつもりだったけれど、あんたがさぶちゃんを疑うたがって、そのために二人ふたりの仲なかが割われるようなことになったら、それこそ取返とりかえしがつかないから云いってしまいます」

栄二えいじは黙だまっておすえを見みまもった。

「済すみません、堪忍かんにんして下ください」おすえは板いたの間まへ両手りょうてを突ついた、「――金襴きんらんの切きれを、あんたの道具どうぐ袋ふくろの中なかへ入いれたのは、あたしです」

「おいおい」と栄二えいじが遮さえぎった、「さぶのやつをとりなすためなら、そんなへたな拵こしらえごとはよしたほうがいいぜ」

「拵こしらえごとじゃありません、本当ほんとうのことなんです」おすえは両手りょうてを膝ひざへ戻もどし、大おおきくみはった眼めで栄二えいじを見みた、「――あたしはあんたのおかみさんになりたかった、栄さかえさんに貰もらってもらうためなら、どんなことでもするつもりだったんです」

栄二えいじは頭あたまを左右さゆうに振ふり、眸子ひとみをさだめておすえの表情ひょうじょうを見みた。それからふいと立たちあがり、仕事場しごとばから出でていって、表ひょうの戸と閉しまりをした。それは、おすえの云いった言葉ことばの意味いみをのみこむため、自分じぶんの頭あたまにゆとりをつけようとする動作どうさのようであった。

「聞きかしてもらおう」元もとのところへ戻もどって来きて坐すわりながら、栄二えいじが云いった、「それはどういうことなんだ」

「あんたは綿めん文ぶんさんのにんき者しゃでした」とおすえは云いった、「――お嬢じょうさんのおきみさん、おそのさんの二人ふたりとも、お店たなの娘むすめと出入でいりの職人しょくにんというより、まるできょうだいのように仲なかがよかったし、いつかは、どっちか一人ひとりが栄さかえさんと御ご夫婦ふうふになる、っていう噂うわさでした」

「栄ひさしさんなんて云いうのはよせ」

「そんな噂うわさを聞きいて」とおすえは続つづけた、「そんな噂うわさを聞きくたびに、あたしは胸むねがつかえてごはんも喰たべられなかったくらいです」

「おれの気持きもちはわかっていた筈はずだぜ」

おすえは頷うなずいた、「わかっていました、わかっていましたけれど、女おんなって気きのせまいものなんでしょうか、耳みみからはいる噂うわさのほうが、本当ほんとうのことのように思おもえたんです、このままではだめだ、自分じぶんは中なか働はたらき、相手あいては綿めん文ぶんのお嬢じょうさん、このままではとてもかなわない、いつかはあんたを取とられてしまう、どうしよう、どうしたらいいだろうって、――思おもい悩なやみ、考かんがえあぐねて、あたしずっと、夜よるも眠ねむれないような日ひが続つづいたんです」

「わかった」と栄二えいじが云いった、「それが本当ほんとうのことならもうよせ」

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