← Library‹ 五瓣の椿 第三話 一

「もう済すみました」と海野得石うんのとくせきが云いった、「起おきて支度したくをお直なおしなさい」

診察しんさつ用ようの夜具やぐの上うえに仰臥ぎょうがしているその女おんなは、小袖こそでの衿えりで胸乳むなぢを隠かくしたまま、はだかっている下か半身はんしんには気きもつかないようすで、いかにも満みち足たりたように、静しずかな深ふかい呼吸こきゅうをしていた。

「さあ、風邪かぜをひきますよ」

得とく石せきは手てを拭ふいてから、左右さゆうにひろげてある小袖こそでの裾すそをひき掛かけてやった。女おんなは恍惚うっとりと溜息ためいきをつき、細ほそく眼めをあいて彼かれを見みた。

「軽かるくなったでしょう」と得とく石せきが訊きいた。

女おんなは眼めで頷うなずいた、「おかげさまで」

「痛いたんだらまたいらっしゃい」と得とく石せきは云いった、「私わたくしは病家びょうかへみまいにゆかなければならない、いま家人けにんに薬くすりを持もたせてよこします」

得とく石せきは女おんなを残のこしてその座敷ざしきを出でた。

中ちゅう廊下ろうかを隔へだてた薬くすり部屋へやを覗のぞくと、妻つまのおくにが薬研やげんにかかっていた。彼かれと三みつ違ちがいの三十さんじゅう五ご歳さいであるが、四十よんじゅう歳さいより下したとみる者ものはないだろう。髪かみの毛けが少すくないので髷まげも小ちいさく、血ちのけのない乾かわいた皮膚ひふや、平ひらたい胸むねや、肉にくのそげたような腰こしなど、ぜんたいが干ひからびて縮ちぢんだようにみえる。顔かおだけは角かくばって大おおきく、尖とがった頬骨ほおぼねと、落おちくぼんでいながらとび出だしているような感かんじのする眼めつきとが衰おとろえた躯むくろつきとは不ふ調和ちょうわなほど精悍せいかんな、ねばり強づよさと逞たくましさを示しめしていた。

「野田のだ屋やの治療ちりょうが済すんだ」と得とく石せきは妻つまに云いった、「薬くすりはできているか」

おくには黙だまって、脇わきのほうへ顎あごをしゃくった。

「それを持もっていって薬礼やくれいを貰もらっておけ」と得とく石せきは云いった、「今日きょうの薬礼やくれいは『乙おつ』のほうだ」

おくには手てを止とめて良人おっとを見みた。得とく石せきは襖ふすまを閉しめ、勝手かってへいって念入ねんいりに手指しゅしを洗あらった。なにか汚きたない物ものでもこびり付ついているように、爪つめのあいだまできれいに洗あらい、それから、手拭てぬぐいを取とって丁寧ていねいに拭ふきながら、奥おくの居間いまへはいっていった。

「十じゅう月がつ二十にじゅう一いち日にち、今日きょうだな」彼かれはそう呟つぶやきながら、部屋へやの一隅いちぐうにある衣桁いこうへ手拭てぬぐいを掛かけ、窓まどのところへいって障子しょうじをあけた、「――浮世うきよ小路こうじの吉田よしだ屋やで七ななつ半はんか、時刻じこくはたっぷりある」

窓まどの外そとはすぐに三十さんじゅう間けん堀ほりであった。ここは京橋きょうばし水みず谷町たにまちだから、窓まどから見みると堀ほりを縦たてに一望いちぼうするわけで、ひき汐しおなのだろう、低ひくくなった水面すいめんに、午後ごごの冬空ふゆぞらの硬かたそうな青あおと、ぼやけたような白しろい雲くもが映うつっていた。得とく石せきは眼めを細ほそめて、堀ほりの両岸りょうがんの家並いえなみを眺ながめ、空そらの白しろい雲くもを見みあげた。

「今日きょうこそしめてやる」と彼かれは口くちの中なかで云いった、「たとえ力ちからずくでも、今日きょうこそしめてやるぞ」

得とく石せきは舌したで右みぎの頬ほおへ瘤こぶをつくり、それを静しずかに二に本ほんの指ゆびで撫なでた。娘むすめのように赤あかく、ふっくらと湿しめっている唇くちびるが歪ゆがみ、はっきりとした紛まぎれのない双眸そうぼうに、貪婪どんらんな、ぎらぎらするような膏あぶらぎった色いろがうかんだ。――舌したで押おした頬ほおの瘤こぶを撫なでている右手みぎての二に本ほんの指ゆびは、彼かれの意志いしとは関係かんけいがないように、押おしつけ、撫なであげ、撫なでおろし、揉もみほぐすという動作どうさを、巧たくみなしつっこさで続つづけていた。

「お、――」彼かれは耳みみを傾かたむけた、「半鐘はんしょうじゃないか、昼ひる火事かじだな」

数かぞえると一ひとつ半はんであった。遠とおいな、と呟つぶやきながら、得とく石せきは窓まどを閉しめた。風かぜもないし、これならすぐに消きえるだろう、つまらねえ、などと独ひとり言ごとを云いい云いい、箪笥たんすをあけて衣類いるいを出だした。すっかり出だし終おわって、着替きがえをしようとしていると、手荒てあらく障子しょうじをあけておくにがはいって来きた。角かくばった顔かおに、毒どくどくしい侮蔑ぶべつと嫌悪けんおの表情ひょうじょうをうかべ、とびだしたようにみえるその眼めは、嫉妬しっとと嘲笑ちょうしょうとで光ひかっていた。

「またあの手てを使つかったんだね」とおくには唇くちびるの隅すみだけ動うごかして云いった、「ふん、きたならしい、またあの手てを使つかったんだろう」

「きさまなどになにがわかる、おれのすることに口くちをだすな」

「薬礼やくれいだよ」おくには紙かみに包つつんだ物ものを、良人おっとの足あしもとへ投なげだした、「白しろッ首くびやけころにも劣おとったけがらわしいまねをして、大だいの男おとこがよくもこんなお金かねが取とれるもんだ」

得とく石せきのよく手入ていれのしてある口髭くちひげが片方かたほうへひきつった。だがそれは怒いかりのためではなく、ぬかるみへ坐すわりこむ酔漢すいかんの、居直いなおるような表情ひょうじょうに似にていた。

「そういう金かねできさまも雨露うろを凌しのいできたんだ」と彼かれは歯はと歯はのあいだから云いった、「喰たべる物ものを喰たべ着きる物ものを着き、雨風あめかぜにも曝さらされずに生いきて来こられたのはそのおかげだぞ」

「それを有難ありがたがれとでも云いうのかい」おくには鼻はなで笑わらった、「ふん、そんなきたならしいお金かねで生いきるくらいなら、あたしゃ飢うえ死じにをするほうがよっぽどましだよ」

「そうしたらどうだ」彼かれは着替きがえをしながら云いった、「おれは止とめやあしないぞ」

「そういうことはよく考かんがえてから云いうもんだ、迂濶うかつに立派りっぱな口くちをきくとあとで引込ひっこみがつかなくなるよ」

得とく石せきは妻つまを見みた。

「なんだと」彼かれの眼めはすっと細ほそくなった。

「なんでもないさ、いまはね」おくにはゆっくり云いった、「おまえさんといっしょになって九きゅう年ねん、薬研やげんをすったり、客きゃくの応対おうたいから勝手かって仕事しごとまで、代脈だいみゃくと下女げじょの役やくをたった一人ひとりで、飽あき飽あきするほどやって来きた、いつか夫婦ふうふらしい夫婦ふうふになれる、子供こどもを産うんで、海野うんの得とく石せきの妻つまとなって、恥はずかしくない世間せけんづきあいができる、そう思おもって辛抱しんぼうしていたんだ、ところがこのごろになって、ようやくおまえさんの本心ほんしんがわかった、おまえさんにはあたしと夫婦ふうふになる気きなんか、初はつめっからなかったんだ」

得とく石せきは「なんだつまらない」という顔かおをし、帯おびをしめると、足あしもとにある紙包かみづつみを取とって中なかをしらべてから袂たもとへ入いれた。

「九きゅう年ねんの余あまりもこき使つかわれて、身みも心こころもこんなにすりへらし、老おいさらばえてから捨すてられるなんて、あたしのことをよっぽどのばかだと思おもっているんだろう」とおくには続つづけた、「そうだよ、あたしゃあばかだよ、おまえさんのようなきたならしいことをする医者いしゃの側がわにいて、いつか仕合しあわせになれると思おもうなんて底そこぬけのばかさ」

「人間にんげんの悲かなしいのは」と彼かれは冷笑れいしょうするように云いった、「あとになって自分じぶんがばかなことをしたと気きづくことだ、けものはそんなことに気きづきゃあしないがね」

「あたしがけもの同様どうようだったと云いうのかい」

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