「もう済みました」と海野得石が云った、「起きて支度をお直しなさい」
診察用の夜具の上に仰臥しているその女は、小袖の衿で胸乳を隠したまま、はだかっている下半身には気もつかないようすで、いかにも満ち足りたように、静かな深い呼吸をしていた。
「さあ、風邪をひきますよ」
得石は手を拭いてから、左右にひろげてある小袖の裾をひき掛けてやった。女は恍惚と溜息をつき、細く眼をあいて彼を見た。
「軽くなったでしょう」と得石が訊いた。
女は眼で頷いた、「おかげさまで」
「痛んだらまたいらっしゃい」と得石は云った、「私は病家へみまいにゆかなければならない、いま家人に薬を持たせてよこします」
得石は女を残してその座敷を出た。
中廊下を隔てた薬部屋を覗くと、妻のおくにが薬研にかかっていた。彼と三つ違いの三十五歳であるが、四十歳より下とみる者はないだろう。髪の毛が少ないので髷も小さく、血のけのない乾いた皮膚や、平たい胸や、肉のそげたような腰など、ぜんたいが干からびて縮んだようにみえる。顔だけは角ばって大きく、尖った頬骨と、落ちくぼんでいながらとび出しているような感じのする眼つきとが衰えた躯つきとは不調和なほど精悍な、ねばり強さと逞しさを示していた。
「野田屋の治療が済んだ」と得石は妻に云った、「薬はできているか」
おくには黙って、脇のほうへ顎をしゃくった。
「それを持っていって薬礼を貰っておけ」と得石は云った、「今日の薬礼は『乙』のほうだ」
おくには手を止めて良人を見た。得石は襖を閉め、勝手へいって念入りに手指を洗った。なにか汚ない物でもこびり付いているように、爪のあいだまできれいに洗い、それから、手拭を取って丁寧に拭きながら、奥の居間へはいっていった。
「十月二十一日、今日だな」彼はそう呟きながら、部屋の一隅にある衣桁へ手拭を掛け、窓のところへいって障子をあけた、「――浮世小路の吉田屋で七つ半か、時刻はたっぷりある」
窓の外はすぐに三十間堀であった。ここは京橋水谷町だから、窓から見ると堀を縦に一望するわけで、ひき汐なのだろう、低くなった水面に、午後の冬空の硬そうな青と、ぼやけたような白い雲が映っていた。得石は眼を細めて、堀の両岸の家並を眺め、空の白い雲を見あげた。
「今日こそしめてやる」と彼は口の中で云った、「たとえ力ずくでも、今日こそしめてやるぞ」
得石は舌で右の頬へ瘤をつくり、それを静かに二本の指で撫でた。娘のように赤く、ふっくらと湿っている唇が歪み、はっきりとした紛れのない双眸に、貪婪な、ぎらぎらするような膏ぎった色がうかんだ。――舌で押した頬の瘤を撫でている右手の二本の指は、彼の意志とは関係がないように、押しつけ、撫であげ、撫でおろし、揉みほぐすという動作を、巧みなしつっこさで続けていた。
「お、――」彼は耳を傾けた、「半鐘じゃないか、昼火事だな」
数えると一つ半であった。遠いな、と呟きながら、得石は窓を閉めた。風もないし、これならすぐに消えるだろう、つまらねえ、などと独り言を云い云い、箪笥をあけて衣類を出した。すっかり出し終って、着替えをしようとしていると、手荒く障子をあけておくにがはいって来た。角ばった顔に、毒どくしい侮蔑と嫌悪の表情をうかべ、とびだしたようにみえるその眼は、嫉妬と嘲笑とで光っていた。
「またあの手を使ったんだね」とおくには唇の隅だけ動かして云った、「ふん、きたならしい、またあの手を使ったんだろう」
「きさまなどになにがわかる、おれのすることに口をだすな」
「薬礼だよ」おくには紙に包んだ物を、良人の足もとへ投げだした、「白ッ首やけころにも劣ったけがらわしいまねをして、大の男がよくもこんなお金が取れるもんだ」
得石のよく手入れのしてある口髭が片方へひきつった。だがそれは怒りのためではなく、ぬかるみへ坐りこむ酔漢の、居直るような表情に似ていた。
「そういう金できさまも雨露を凌いできたんだ」と彼は歯と歯のあいだから云った、「喰べる物を喰べ着る物を着、雨風にも曝されずに生きて来られたのはそのおかげだぞ」
「それを有難がれとでも云うのかい」おくには鼻で笑った、「ふん、そんなきたならしいお金で生きるくらいなら、あたしゃ飢え死をするほうがよっぽどましだよ」
「そうしたらどうだ」彼は着替えをしながら云った、「おれは止めやあしないぞ」
「そういうことはよく考えてから云うもんだ、迂濶に立派な口をきくとあとで引込みがつかなくなるよ」
得石は妻を見た。
「なんだと」彼の眼はすっと細くなった。
「なんでもないさ、いまはね」おくにはゆっくり云った、「おまえさんといっしょになって九年、薬研をすったり、客の応対から勝手仕事まで、代脈と下女の役をたった一人で、飽き飽きするほどやって来た、いつか夫婦らしい夫婦になれる、子供を産んで、海野得石の妻となって、恥ずかしくない世間づきあいができる、そう思って辛抱していたんだ、ところがこのごろになって、ようやくおまえさんの本心がわかった、おまえさんにはあたしと夫婦になる気なんか、初めっからなかったんだ」
得石は「なんだつまらない」という顔をし、帯をしめると、足もとにある紙包みを取って中をしらべてから袂へ入れた。
「九年の余もこき使われて、身も心もこんなにすりへらし、老いさらばえてから捨てられるなんて、あたしのことをよっぽどのばかだと思っているんだろう」とおくには続けた、「そうだよ、あたしゃあばかだよ、おまえさんのようなきたならしいことをする医者の側にいて、いつか仕合せになれると思うなんて底ぬけのばかさ」
「人間の悲しいのは」と彼は冷笑するように云った、「あとになって自分がばかなことをしたと気づくことだ、けものはそんなことに気づきゃあしないがね」
「あたしがけもの同様だったと云うのかい」