← Library‹ 五瓣の椿 第三話 二

得とく石せきは外そとへ出でると、京橋きょうばしまで歩あるいて駕籠かごをひろい、「永代えいたいまで」と云いって乗のった。

「かまきりの斧おのということもあるんだな」駕籠かごの中なかで彼かれは呟つぶやいた、「踏ふんでも蹴けっても音ねをあげたためしのない女おんなだったが、――ふん、本当ほんとうのことを知しったら、もう一いちと騒さわぎやるだろうな」

駕籠かごを永代えいたい橋きょうの袂たもとでおり、得とく石せきは河岸かしの道みちを右みぎのほうへいった。そこは大川端おおかわばた町ちょうというところで、舟宿ふなやどや釣つり道具どうぐ屋やなどのほかは漁師りょうしの家いえがたてこんでおり、堀ほりのほうには舟ふねを繋つなぐ杭くいが、片方かたほうだけずらっと列れつをなしている。いまは漁りょうに出でているのだろう、繋つながれている舟ふねは数かぞえるほどしかなく、堀端ほりばたの白しろく乾かわいた道みちの上うえで、幾いく組くみかの子供こどもたちが遊あそんでいた。――大川おおかわに面めんした町まちの向むこう角かどに「海うみ石いし」という、しゃれた掛かけ行燈あんどんを掲かかげた料理りょうり茶屋ちゃやがある。門構もんがまえだが地所じしょにゆとりがないので、門もんからひと跨またぎで玄関げんかんだし、板塀いたべいと建物たてものとのあいだも三さん尺しゃくそこそこしかない。座敷ざしきの数かずも下したに小ちいさいのが三みつ、二に階かいに八はち帖じょうと六ろく帖じょうがあるだけだが、表ひょうの八はち帖じょうは大川おおかわに面めんしており、縁側えんがわへ出でれば広ひろい川口かわぐちと、佃島つくだじまをまぢかに、品川しながわ沖おきまでの海うみが眺ながめられる。「海うみ石いし」はその眺望ちょうぼうと、海うみの活いき魚さかな料理りょうりが売うりもので、開業かいぎょうしてから二に年ねん足たらずだが、かなり繁昌はんじょうしているし、ひいき客きゃくも付ついていた。

得とく石せきがはいってゆくと、小女こおんなが出でて来き、吃驚びっくりしたように奥おくへとんでいった。すると、内所ないしょの障子しょうじをあけて、おかねが出でて来きた。得とく石せきは女おんなの顔かおが赤あかくなっているのを認みとめた。

「お帰かえんなさい」とおかねが笑わらいかけた、「いま藤井ふじいさまのお相手あいてをしていたところなの、二に階かいへいらっしゃる」

「藤井ふじいとは誰だれだ」

「あらいやだ」おかねは打うつまねをし、声こえをひそめた、「久世出雲くぜいずもさまのお下屋敷しもやしきの、藤井ふじい新五郎しんごろうさまよ、知しってるでしょ」

「それが内所ないしょで飲のんでるのか」

「二に階かいへいきましょ」おかねは巧たくみに彼かれを階段かいだんのほうへ押おしていった、「お友達ともだちとゆうべなか(新しん吉原よしわら)へいらしって、けさ別わかれ際ぎわに喧嘩けんかをなすったんですって、飲のみ直なおしたいから相手あいてをしろって云いわれて」

「しょうばいを忘わすれやあしないだろうな」階段かいだんを登のぼりきったところで、彼かれは女おんなに振ふり返かえりながら云いった、「うちは料理りょうり茶屋ちゃやだ、客きゃくは座敷ざしきにとおすべきだし、気きばらしがしたければ芸妓げいぎでも幇間ほうかんでも呼よばせるがいい、内所ないしょでおまえが相手あいてをしたって、しょうばいにはならないだろう」

「芸妓げいぎだの幇間ほうかんだのってとんでもない、藤井ふじいさまにはかなりお勘定かんじょうが溜たまってるのよ」とおかねは彼かれの着物きものの衿えりからなにか摘つみ取とった、「だから今日きょうだってあちらの仰おっしゃるとおり佃煮つくだにとお新香しんこうで、お酒さけは燗かんざましを出だしてるの、来きたときにもう酔よってたんだから、どうせなにを飲のませたってわかりゃしないわ」

そして大川おおかわのほうを見み、「まあ、いい水みずの色いろだこと」と云いって座敷ざしきへはいった。得とく石せきは指ゆびの背せで口髭くちひげを撫なでながら、おかねの出だした座ざ蒲団ふとんに坐すわり、鹿革しかがわの手提てさげを脇わきに置おいた。おかねは火鉢ひばちをひき寄よせ、いま火ひを持もって来きますから、と出でてゆこうとした。

「燗かんざましか」と得とく石せきが呟つぶやいた。

「え、――なにか云いって」

「燗かんざましか、と云いったんだ」彼かれは火ひのない火鉢ひばちの縁えんへ手てをやった、「まあいい、火ひを貰もらおう」

はいただいま、と云いいながら、おかねは脇わきを向むいてしかめっ面つらをした。

「怒おこるなよ、世よの中なかのことは怒おこるやつが負まけだぞ」おかねが去さると、彼かれは口くちを歪ゆがめてそう呟つぶやいた、「――藤井ふじいはあいつの古ふるい馴染なじみだ、あいつが万ばん清きよし楼ろうの女中じょちゅうをしていたときからできていたらしい、そのくらいのことが見みえないおれとでも思おもっているのか」

得とく石せきは手提てさげを取とって紐ひもを解とき、中なかから矢立やたてと小ちいさな帳面ちょうめんを出だした。そこへお初はつという小女こおんなが、炭取すみとりと十能じゅうのうを持もってあがって来き、お帰かえりなさいまし、とお辞儀じぎをしてから、火鉢ひばちへ火ひを移うつしにかかった。得とく石せきはふきげんに、下したへいったらおかみさんに、帳合ちょうあいをするから来くるように云いってくれ、と命めいじた。お初はつは承知しょうちして去さり、次つぎに茶ちゃを持もって来きたが、おかねの来くるようすはなかった。――晦日みそかと十じゅう一いち日にち、二十にじゅう一いち日にちは帳合ちょうあいの日ひである、平松ひらまつ町まちへもまわらなければならないし、五ご時じには吉田よしだ屋やに約束やくそくがある。どういうつもりだ、と彼かれは舌打したうちをし、怒おこってはいけないと自制じせいしながら、手てを叩たたいた。

あがって来きたのはお初はつであった。

「おかみさんはどうした」彼かれは穏おだやかに云いった、「帳合ちょうあいをすると云いったんだろう」

「はい」お初はつはまるい頬ほおをまっ赤かにした、「そう云いったんですけれど、おかみさんはいまちょっとあれですから、もう少すこしお待まち下くださいって仰おっしゃってます」

「いそぐんだ」と彼かれは云いった、「ほかにも用ようがあっていそぐから、すぐ来くるようにもういちど云いってくれ」

お初はつはおりていったが、それからさらに四半刻はんときの余あまりを経たって、ようやくおかねがあがって来きた。すっかり酔よっているようで、眼めの中なかまで赤あかく、髪かみの根ねもゆるんでいるし、着物きものも前まえさがりに着崩きくずれていて、よろよろしながらはいって来くるとき、下くだっている裾すそを踏ふんであぶなく転ころびそうになった。

「ごめんなさい、飲のまされちゃったのよ」おかねは火鉢ひばちの脇わきへぺたりと横坐よこすわりになり、ほつれかかる髪かみの毛けを、うるさそうにふうと口くちで吹ふいた、「あら、なんにも来きてないのね、しょうのないお初はつだこと」

「今日きょうは二十にじゅう一いち日にちだ」と彼かれは遮さえぎって云いった、「私わたくしは帳合ちょうあいに来きたんだ、今日きょうが帳合ちょうあいをする日ひだということはわかっている筈はずじゃないか」

「あら嘘うそよ」おかねはにらんだ、「今日きょうは二十はつ日かじゃないの、二十にじゅう一いち日にちは明日あすだわ」

「今日きょうが二十にじゅう一いち日にちだ」

「二十はつ日かですよ」

得とく石せきは矢立やたてから筆ふでを抜ぬき取とり、墨壺すみつぼをあけた、「いいから帳面ちょうめんと金箱かねばこを持もって来こい」

「そんなこといま急きゅうに云いわれたって困こまるわ、二に、三み日かこっちいそがしくって帳面ちょうめんどころじゃなかったし、それに、ああそうだ、あなたが来きたらお願ねがいするつもりでいたんだわ」おかねはくなっと躯むくろを捻ひねった、「ねえ、酒屋さかやのほうが溜たまっていてうるさく催促さいそくをするの、済すみませんけれど三さん両りょうだけ都合つごうをつけて下くださいな」

得とく石せきはじっと女おんなの顔かおをみつめた、「――私わたくしは帳合ちょうあいをして金きんを受取うけとりに来きたんだ、十じゅう一いち日にちの勘定かんじょうにも三さん両りょう二に分ふん残のこしておいたのに、三さん両りょう貸かせとはどういうわけだ」

「いま云いったじゃないの、酒屋さかやがうるさく催促さいそくするからって」

「それはいつの勘定かんじょうだ」

「先々さきざき月つきからのよ」

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