得石は外へ出ると、京橋まで歩いて駕籠をひろい、「永代まで」と云って乗った。
「かまきりの斧ということもあるんだな」駕籠の中で彼は呟いた、「踏んでも蹴っても音をあげたためしのない女だったが、――ふん、本当のことを知ったら、もう一と騒ぎやるだろうな」
駕籠を永代橋の袂でおり、得石は河岸の道を右のほうへいった。そこは大川端町というところで、舟宿や釣道具屋などのほかは漁師の家がたてこんでおり、堀のほうには舟を繋ぐ杭が、片方だけずらっと列をなしている。いまは漁に出ているのだろう、繋がれている舟は数えるほどしかなく、堀端の白く乾いた道の上で、幾組かの子供たちが遊んでいた。――大川に面した町の向う角に「海石」という、しゃれた掛け行燈を掲げた料理茶屋がある。門構えだが地所にゆとりがないので、門からひと跨ぎで玄関だし、板塀と建物とのあいだも三尺そこそこしかない。座敷の数も下に小さいのが三つ、二階に八帖と六帖があるだけだが、表の八帖は大川に面しており、縁側へ出れば広い川口と、佃島をまぢかに、品川沖までの海が眺められる。「海石」はその眺望と、海の活き魚料理が売りもので、開業してから二年足らずだが、かなり繁昌しているし、ひいき客も付いていた。
得石がはいってゆくと、小女が出て来、吃驚したように奥へとんでいった。すると、内所の障子をあけて、おかねが出て来た。得石は女の顔が赤くなっているのを認めた。
「お帰んなさい」とおかねが笑いかけた、「いま藤井さまのお相手をしていたところなの、二階へいらっしゃる」
「藤井とは誰だ」
「あらいやだ」おかねは打つまねをし、声をひそめた、「久世出雲さまのお下屋敷の、藤井新五郎さまよ、知ってるでしょ」
「それが内所で飲んでるのか」
「二階へいきましょ」おかねは巧みに彼を階段のほうへ押していった、「お友達とゆうべなか(新吉原)へいらしって、けさ別れ際に喧嘩をなすったんですって、飲み直したいから相手をしろって云われて」
「しょうばいを忘れやあしないだろうな」階段を登りきったところで、彼は女に振り返りながら云った、「うちは料理茶屋だ、客は座敷にとおすべきだし、気ばらしがしたければ芸妓でも幇間でも呼ばせるがいい、内所でおまえが相手をしたって、しょうばいにはならないだろう」
「芸妓だの幇間だのってとんでもない、藤井さまにはかなりお勘定が溜ってるのよ」とおかねは彼の着物の衿からなにか摘み取った、「だから今日だってあちらの仰しゃるとおり佃煮とお新香で、お酒は燗ざましを出してるの、来たときにもう酔ってたんだから、どうせなにを飲ませたってわかりゃしないわ」
そして大川のほうを見、「まあ、いい水の色だこと」と云って座敷へはいった。得石は指の背で口髭を撫でながら、おかねの出した座蒲団に坐り、鹿革の手提を脇に置いた。おかねは火鉢をひき寄せ、いま火を持って来ますから、と出てゆこうとした。
「燗ざましか」と得石が呟いた。
「え、――なにか云って」
「燗ざましか、と云ったんだ」彼は火のない火鉢の縁へ手をやった、「まあいい、火を貰おう」
はいただいま、と云いながら、おかねは脇を向いてしかめっ面をした。
「怒るなよ、世の中のことは怒るやつが負けだぞ」おかねが去ると、彼は口を歪めてそう呟いた、「――藤井はあいつの古い馴染だ、あいつが万清楼の女中をしていたときからできていたらしい、そのくらいのことが見えないおれとでも思っているのか」
得石は手提を取って紐を解き、中から矢立と小さな帳面を出した。そこへお初という小女が、炭取と十能を持ってあがって来、お帰りなさいまし、とお辞儀をしてから、火鉢へ火を移しにかかった。得石はふきげんに、下へいったらおかみさんに、帳合をするから来るように云ってくれ、と命じた。お初は承知して去り、次に茶を持って来たが、おかねの来るようすはなかった。――晦日と十一日、二十一日は帳合の日である、平松町へもまわらなければならないし、五時には吉田屋に約束がある。どういうつもりだ、と彼は舌打ちをし、怒ってはいけないと自制しながら、手を叩いた。
あがって来たのはお初であった。
「おかみさんはどうした」彼は穏やかに云った、「帳合をすると云ったんだろう」
「はい」お初はまるい頬をまっ赤にした、「そう云ったんですけれど、おかみさんはいまちょっとあれですから、もう少しお待ち下さいって仰しゃってます」
「いそぐんだ」と彼は云った、「ほかにも用があっていそぐから、すぐ来るようにもういちど云ってくれ」
お初はおりていったが、それからさらに四半刻の余を経って、ようやくおかねがあがって来た。すっかり酔っているようで、眼の中まで赤く、髪の根もゆるんでいるし、着物も前さがりに着崩れていて、よろよろしながらはいって来るとき、下っている裾を踏んであぶなく転びそうになった。
「ごめんなさい、飲まされちゃったのよ」おかねは火鉢の脇へぺたりと横坐りになり、ほつれかかる髪の毛を、うるさそうにふうと口で吹いた、「あら、なんにも来てないのね、しょうのないお初だこと」
「今日は二十一日だ」と彼は遮って云った、「私は帳合に来たんだ、今日が帳合をする日だということはわかっている筈じゃないか」
「あら嘘よ」おかねはにらんだ、「今日は二十日じゃないの、二十一日は明日だわ」
「今日が二十一日だ」
「二十日ですよ」
得石は矢立から筆を抜き取り、墨壺をあけた、「いいから帳面と金箱を持って来い」
「そんなこといま急に云われたって困るわ、二、三日こっちいそがしくって帳面どころじゃなかったし、それに、ああそうだ、あなたが来たらお願いするつもりでいたんだわ」おかねはくなっと躯を捻った、「ねえ、酒屋のほうが溜っていてうるさく催促をするの、済みませんけれど三両だけ都合をつけて下さいな」
得石はじっと女の顔をみつめた、「――私は帳合をして金を受取りに来たんだ、十一日の勘定にも三両二分残しておいたのに、三両貸せとはどういうわけだ」
「いま云ったじゃないの、酒屋がうるさく催促するからって」
「それはいつの勘定だ」
「先々月からのよ」