「そのから証文に騙されて、今日まであなたのいいようにされて来た、面倒なこの店の切り盛りから、めかけの役まで勤めて、身に付いた物は着物が四、五枚に帯が二本きり、それでいざとなればお払い箱なんだから」おかねは無遠慮におくびをした、「めし屋の女中をしたっても少し稼ぎになったわ、ばからしい」
「その話はまたにしよう」得石はがまん強く云った、「時が来ればこの店はおまえのものになるのだし、いまの女房とは必ず別れる、私はおまえといっしょになり、ここを住居にして水谷町へかようことにする」
「あたし下へゆきますよ、お客さまが待っていますからね、ああ、それから酒屋へやる三両はどうして下さるの」
「そんな金はない」
「料理屋が酒を止められてもいいんですか」
「酒屋はほかに幾らでもあるだろう」
「いいわ、それなら新らしい酒屋を頼んで下さい」おかねは立ちあがった、「あたしは雇われているだけだから、そういうことにはかかわりませんからね」
「雇われているだと」
「いまはっきりさせるほうがいいかもしれないわね」と立ったままおかねが云った、「この店を始めてから今日までの給銀、女中の役とからだを貸した分と、両方まとめて払ってもらいますよ、これからのことはそのあとの相談にしましょう、よござんすね」
得石は「きさま」と云って立とうとした。そのとき階段を踏み鳴らして、「おかねはどうした」と喚きながら、一人の男があがって来、おかねが障子をあけて、ここにいてよ、と呼びかけた。男はよろよろとこっちへ来て、廊下から座敷の中を覗きこんだ。年は三十一か二であろう、着ながしに無腰という身なりも、痩せて骨ばった、色の黒い顔に険のある眼つきなども、侍というよりまるで渡世人という感じにしかみえない。――相手はこっちを知らないだろうが、得石のほうでは万清楼で、二度か三度みかけたことがあった。久世出雲守の家来で、ここから堀ひとつ隔てた、北新堀の下屋敷に勤めている、名は藤井新五郎、酒癖が悪いので、万清楼でも嫌われ者だったが、おかねのほうでのぼせあがっていたことは、女中たちなかまの評判であった。
「いつまでなにをしているんだ」藤井は得石の顔をみつめながらおかねに云った、「ひとを置きっ放しにして、こんなところでいちゃついているなどとはよろしくない、さあ、いいかげんに下へいって相手をしろ」
「あたしはいきたいんだけれど、この人が文句を云っていて」
「文句だ」と藤井が云った、「なんだその男は、客は自分一人だとでも云うのか」
「いいえお客じゃないんです、このうちの主人ですよ」
「主人だって、これが」藤井は左右へよろめきながら、眼をほそめ、唇を舐めた。すると険のある眼がぎらぎらし、頬の肉がひきつった、「これがあの強欲医者か、医者をしながら料理茶屋をやらせ、儲けはごっそり持ってゆくという、あこぎなやつか」
「おかね、下へ――」得石は眼くばせをしながら云った、「下へお伴れしてお相手をするがいい、今日はもう帰るから」
「あたしの頂く分はどうなるんです」
「それはこの次に話そう」
「播磨屋へ入れるお金は」
「明日にでも来るから、そのときなんとかしよう」
「おい強欲医者」と云った、「きさまはこんなしょうばいを隠れてするくらいだから、本業のほうでもうまい汁を吸っているんだろう、診立て違いで病人を何十人も殺しながら、儲けるだけはしこたま儲け、その金で日済し貸しでもやってるんじゃないのか」
「手きびしゅうございますな」と得石は軽くうけながしながら、帳面や矢立を手提の中へしまった、「おかね、こちらさまのお席をここへ移してあげたらどうだ、私はこれで帰るから」
「うしろ暗いことがあるとみえて逃げだすな」と藤井が嘲笑した、「口髭なんか生やしゃあがって、ふざけた野郎だ」
「ようござんすよ、もう」とおかねが藤井の手を掴んだ、「どうなさる、ここで召し上りますか」
得石はすばやく廊下へ出た。鼬のような野郎だ、と藤井新五郎が云い、彼はいそいで階段をおりた。
「女なんてものは、どいつもこいつも」外へ出ると彼は悲しそうに呟き、首を振って、こんどは狡そうに笑った、「――まあいい、そっちでそう出るなら却って好都合だ、おくにもおかねも放逐してやる、裸で放り出してやるからそう思え、可愛やなんにも知らねえんだから、こっちにはおみのという」
得石はどきっとしたように立停った、「そうだ、もう平松町へまわっている暇はない、平松町の帳合は手間がかかる、ちょっと早いがこのままいってしまおう」
おみのが来るまえに一杯やって、このいやな気分を直しておこう、そう思って彼は駕籠をひろった。――日本橋の浮世小路と呼ばれるその町内でも、吉田屋は一風変った料理茶屋であった。表は格子戸、規則だから水手桶は積んであるが、掛け行燈も暖簾もなく、知らない者には茶屋などとは思えない。まったくのしもたや造りであるが、中は広く、総二階の下に五つ、上に六つ座敷があった。
吉田屋へ着いたのが四時ちょっと前、もちろんおみのは来ていず、得石は階下の四帖半で酒を飲み始めた。その日は客が多く、二階にも下にも、幾組か賑やかに談笑する声や、三味線の音なども聞えていた。
「おみのという人から約束がしてある筈だが、座敷は大丈夫だろうな」
「ええわかってます」給仕に坐った中年の女中が云った、「お座敷はちゃんと支度してありますし、いまいるお客さまも、昏れるまえにはたいていお帰りになる筈ですから」
「一つ合をしてくれ」彼は女中に盃を差した、「名前はなんというんだ」
「おときです、どうぞごひいきに」
女中は盃に一つ飲むと、すぐ来るからと云って、用ありげに立っていった。
おかねのやつ、ことによると藤井に唆されたな、と彼は手酌で飲みながら思った。酒屋の話も腑におちない、十二両などという大枚な金を、番頭が横領したのにこっちへ押しつける。受取が偽造だといったところで、こっちの責任だなんていう理屈がどこにあるか。狎れあいだ、酒屋のほうとも狎れあいかもしれない、と彼は思った。