← Library‹ 五瓣の椿 第三話 三

「そのから証文しょうもんに騙だまされて、今日きょうまであなたのいいようにされて来きた、面倒めんどうなこの店みせの切きり盛もりから、めかけの役やくまで勤つとめて、身みに付ついた物ものは着物きものが四、五しご枚まいに帯おびが二に本ほんきり、それでいざとなればお払はらい箱ばこなんだから」おかねは無む遠慮えんりょにおくびをした、「めし屋やの女中じょちゅうをしたっても少すこし稼かせぎになったわ、ばからしい」

「その話はなしはまたにしよう」得とく石せきはがまん強つよく云いった、「時じが来くればこの店みせはおまえのものになるのだし、いまの女房にょうぼうとは必かならず別わかれる、私わたくしはおまえといっしょになり、ここを住居じゅうきょにして水谷みずたに町まちへかようことにする」

「あたし下もとへゆきますよ、お客きゃくさまが待まっていますからね、ああ、それから酒屋さかやへやる三さん両りょうはどうして下くださるの」

「そんな金かねはない」

「料理りょうり屋やが酒さけを止とめられてもいいんですか」

「酒屋さかやはほかに幾いくらでもあるだろう」

「いいわ、それなら新あたらしい酒屋さかやを頼たのんで下ください」おかねは立たちあがった、「あたしは雇やとわれているだけだから、そういうことにはかかわりませんからね」

「雇やとわれているだと」

「いまはっきりさせるほうがいいかもしれないわね」と立たったままおかねが云いった、「この店みせを始はじめてから今日きょうまでの給きゅう銀ぎん、女中じょちゅうの役やくとからだを貸かした分ぶんと、両方りょうほうまとめて払はらってもらいますよ、これからのことはそのあとの相談そうだんにしましょう、よござんすね」

得とく石せきは「きさま」と云いって立たとうとした。そのとき階段かいだんを踏ふみ鳴ならして、「おかねはどうした」と喚わめきながら、一人ひとりの男おとこがあがって来き、おかねが障子しょうじをあけて、ここにいてよ、と呼よびかけた。男おとこはよろよろとこっちへ来きて、廊下ろうかから座敷ざしきの中なかを覗のぞきこんだ。年としは三十さんじゅう一いちか二にであろう、着きながしに無腰むごしという身みなりも、痩やせて骨ほねばった、色いろの黒くろい顔かおに険けんのある眼めつきなども、侍さむらいというよりまるで渡世とせい人にんという感かんじにしかみえない。――相手あいてはこっちを知しらないだろうが、得とく石せきのほうでは万ばん清きよし楼ろうで、二に度どか三さん度どみかけたことがあった。久世くせ出雲いずも守まもるの家来けらいで、ここから堀ほりひとつ隔へだてた、北きた新堀にいぼりの下屋敷しもやしきに勤つとめている、名なは藤井ふじい新五郎しんごろう、酒癖しゅへきが悪わるいので、万ばん清きよし楼ろうでも嫌きらわれ者ものだったが、おかねのほうでのぼせあがっていたことは、女中じょちゅうたちなかまの評判ひょうばんであった。

「いつまでなにをしているんだ」藤井ふじいは得とく石せきの顔かおをみつめながらおかねに云いった、「ひとを置おきっ放ぱなしにして、こんなところでいちゃついているなどとはよろしくない、さあ、いいかげんに下したへいって相手あいてをしろ」

「あたしはいきたいんだけれど、この人ひとが文句もんくを云いっていて」

「文句もんくだ」と藤井ふじいが云いった、「なんだその男おとこは、客きゃくは自分じぶん一人ひとりだとでも云いうのか」

「いいえお客きゃくじゃないんです、このうちの主人しゅじんですよ」

「主人しゅじんだって、これが」藤井ふじいは左右さゆうへよろめきながら、眼めをほそめ、唇くちびるを舐なめた。すると険けんのある眼めがぎらぎらし、頬ほおの肉にくがひきつった、「これがあの強欲ごうよく医者いしゃか、医者いしゃをしながら料理りょうり茶屋ちゃやをやらせ、儲もうけはごっそり持もってゆくという、あこぎなやつか」

「おかね、下したへ――」得とく石せきは眼めくばせをしながら云いった、「下したへお伴つれしてお相手あいてをするがいい、今日きょうはもう帰かえるから」

「あたしの頂いただく分ぶんはどうなるんです」

「それはこの次つぎに話はなそう」

「播磨はりま屋やへ入いれるお金かねは」

「明日あすにでも来くるから、そのときなんとかしよう」

「おい強欲ごうよく医者いしゃ」と云いった、「きさまはこんなしょうばいを隠かくれてするくらいだから、本業ほんぎょうのほうでもうまい汁しるを吸すっているんだろう、診立みたて違ちがいで病人びょうにんを何十なんじゅう人にんも殺ころしながら、儲もうけるだけはしこたま儲もうけ、その金かねで日済ひなし貸かしでもやってるんじゃないのか」

「手てきびしゅうございますな」と得とく石せきは軽かるくうけながしながら、帳面ちょうめんや矢立やたてを手提てさげの中なかへしまった、「おかね、こちらさまのお席せきをここへ移うつしてあげたらどうだ、私わたくしはこれで帰かえるから」

「うしろ暗くらいことがあるとみえて逃にげだすな」と藤井ふじいが嘲笑ちょうしょうした、「口髭くちひげなんか生はやしゃあがって、ふざけた野郎やろうだ」

「ようござんすよ、もう」とおかねが藤井ふじいの手てを掴つかんだ、「どうなさる、ここで召めし上あがりますか」

得とく石せきはすばやく廊下ろうかへ出でた。鼬いたちのような野郎やろうだ、と藤井ふじい新五郎しんごろうが云いい、彼かれはいそいで階段かいだんをおりた。

「女おんななんてものは、どいつもこいつも」外そとへ出でると彼かれは悲かなしそうに呟つぶやき、首くびを振ふって、こんどは狡ずるそうに笑わらった、「――まあいい、そっちでそう出でるなら却かえって好こう都合つごうだ、おくにもおかねも放逐ほうちくしてやる、裸はだかで放ほうり出だしてやるからそう思おもえ、可愛かわいやなんにも知しらねえんだから、こっちにはおみのという」

得とく石せきはどきっとしたように立停たちどまった、「そうだ、もう平松ひらまつ町まちへまわっている暇ひまはない、平松ひらまつ町まちの帳合ちょうあいは手間てまがかかる、ちょっと早はやいがこのままいってしまおう」

おみのが来くるまえに一いち杯はいやって、このいやな気分きぶんを直なおしておこう、そう思おもって彼かれは駕籠かごをひろった。――日本橋にほんばしの浮世うきよ小路こうじと呼よばれるその町内ちょうないでも、吉田よしだ屋やは一風いっぷう変かわった料理りょうり茶屋ちゃやであった。表ひょうは格子こうし戸と、規則きそくだから水みず手桶ておけは積つんであるが、掛かけ行燈あんどんも暖簾のれんもなく、知しらない者ものには茶屋ちゃやなどとは思おもえない。まったくのしもたや造つくりであるが、中なかは広ひろく、総そう二に階かいの下したに五いつつ、上うえに六むいつ座敷ざしきがあった。

吉田よしだ屋やへ着ついたのが四よん時じちょっと前まえ、もちろんおみのは来きていず、得とく石せきは階下かいかの四よん帖じょう半はんで酒さけを飲のみ始はじめた。その日ひは客きゃくが多おおく、二に階かいにも下したにも、幾いく組くみか賑にぎやかに談笑だんしょうする声こえや、三味しゃみ線せんの音おとなども聞きこえていた。

「おみのという人ひとから約束やくそくがしてある筈はずだが、座敷ざしきは大丈夫だいじょうぶだろうな」

「ええわかってます」給仕きゅうじに坐すわった中年ちゅうねんの女中じょちゅうが云いった、「お座敷ざしきはちゃんと支度したくしてありますし、いまいるお客きゃくさまも、昏くれるまえにはたいていお帰かえりになる筈はずですから」

「一ひとつ合あいをしてくれ」彼かれは女中じょちゅうに盃さかずきを差さした、「名前なまえはなんというんだ」

「おときです、どうぞごひいきに」

女中じょちゅうは盃さかずきに一ひとつ飲のむと、すぐ来くるからと云いって、用ようありげに立たっていった。

おかねのやつ、ことによると藤井ふじいに唆そそのかされたな、と彼かれは手酌てじゃくで飲のみながら思おもった。酒屋さかやの話はなしも腑ふにおちない、十じゅう二に両りょうなどという大枚たいまいな金かねを、番頭ばんとうが横領おうりょうしたのにこっちへ押おしつける。受取うけとりが偽造ぎぞうだといったところで、こっちの責任せきにんだなんていう理屈りくつがどこにあるか。狎なれあいだ、酒屋さかやのほうとも狎なれあいかもしれない、と彼かれは思おもった。

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