← Library‹ 五瓣の椿 第三話 四

「しかし貴女あなたという人ひとはふしぎな人ひとだ」得とく石せきは酔よいのために軽かるくなった口くちぶりで、口髭くちひげを舐なめ舐なめ云いっていた、「むさし屋やのかみさんとのことも知しってるし、海うみ石いしのことから平松ひらまつ町まちの豊島としま屋やのこと、豊島としま屋やで小こ金貸かねかしをやらせていることまで知しってるんだから、――まったくこっちは、首くびの根ねを押おさえられたようなこころもちですぜ」

「そんなことあたりまえよ」おみのは盃さかずきの酒さけを杯洗はいせんにあけて彼かれに差さした、「一生いっしょう添そいとげる相手あいてですもの、女おんななら誰だれだってその人ひとのことを知しりたいと思おもうわ、ことに先生せんせいのような、女おんなにもてる方かたはね」

「その眼めだ」と彼かれは云いった、「その殺ころし文句もんくといまの眼めつきでいつもこっちは骨抜ほねぬきにされてしまう、おみのさん」

得とく石せきは盃さかずきを持もったまま、左手ひだりてを伸のばした。おみのはやわらかにその手てを避さけ、「だめ」とにらんでかぶりを振ふった。

「ひどい人ひとだ」と彼かれは怨うらめしげに云いった、「こんなに私わたくしをのぼせあがらせておいて、いざというときになるときまってすりぬけてしまう、私わたくしのことは根ねから葉はまでさぐりだしていながら、自分じぶんのことはなにもうちあけてくれない、――いどころさえ教おしえないんだから、いったい貴女きじょはどういう気持きもちなんです、ただ私わたくしをからかっているだけなんですか」

「ほんとのことを云いいましょうか」おみのは微笑びしょうしながら、ながし眼めで彼かれを見みた、「――あたし今日きょうは、どうなってもいいつもりで来きたんです、二に階かいにもそのつもりで、支度したくをするように頼たのんでおいたのよ」

「それが本当ほんとうなら」

「いいえだめ」おみのはまたかぶりを振ふった、「先生せんせいは約束やくそくを守まもって下くださらなかったでしょ、あんなに固かたい約束やくそくをしたのに、それを守まもって下くださらないとすれば、あたしだって考かんがえ直なおさなければなりませんわ、女おんなにとっては一生いっしょうのことですもの、そうじゃなくって、先生せんせい」

「ふしぎな人ひとだ、貴女きじょは」得とく石せきは手酌てじゃくで飲のんだ、「私わたくしにはわからない、貴女きじょぐらいの年としごろで、金貸かねかしに興味きょうみがあるなんて聞きいたこともない」

「あたし先生せんせいのことがなにもかも知しりたいの、ただそれだけよ」

「それならいっしょになってから飽あきるほど見みられる」彼かれはまた手酌てじゃくで飲のんだ、「――なにもこういうときに、そんな色消いろけしな物ものを見みることはないと思おもうがな」

「あら、あたしお金かねは好すきよ」おみのは彼かれに酌しゃくをして云いった、「こうして先生せんせいと逢あうのだって、あたしの自由じゆうになるお金かねがあればこそでしょ、先生せんせいもお医者いしゃでいながら料理りょうり茶屋ちゃやをやらせ、宿屋やどやと金貸かねかしまでしていらっしゃる、――あたしと先生せんせいとは性せいが合あっていると思おもうし、もし先生せんせいといっしょになることができたら、豊島としま屋やのほうはあたしがやらせて頂いただくつもりでいるのよ」

「そのために証文しょうもんを見みたいというわけか」

「あるだけ全部ぜんぶね」とおみのは云いった、「それで先生せんせいのことはすっかりわかるし、先生せんせいがあたしを信しんじて下くださるということもわかるわ」

得とく石せきは膳ぜんの上うえにあるおみのの盃さかずきを見み、彼女かのじょがまだ一いちと口くちも飲のんでいない、ということに気きづいた。盃さかずきを差させば受うけるが、酒さけはみな杯洗はいせんへあけてしまう。これはうっかりするとこっちが潰つぶれてしまうぞ、と彼かれは思おもった。

「よろしい、わかりました」と彼かれは口髭くちひげを指ゆびの背せで撫なで、酔よっていない証拠しょうこをみせようとして膝ひざを正ただした、「よくわかりました、貴女きじょが本当ほんとうにそのつもりなら、こんどこそ必かならず持もって来きてごらんにいれます」

そして突然とつぜん、倒たおれるような身振みぶりでおみのの手てを掴つかんだ。おみのは拒こばまなかった。手てを掴つかまれたまま躯むくろを反そらせ、「痛いたいわ」と眉まゆをひそめながら、立たちあがった。

「おみのさん」彼かれは伸のびあがった。

「ここはいや」とおみのは囁ささやいた、「あたし二に階かいへいってます」

「本当ほんとうだな」

おみのは眼めで笑わらいかけた、「女中じょちゅうさんにそう云いったら、来きてちょうだい」

「まさかまた、逃にげるんじゃあないだろうな」

おみのは微笑びしょうしながら、掴つかまれている手てをそっと放はなし、ゆったりとした歩あるきぶりで、廊下ろうかへ出でていった。

「また逃にげられたかな」彼かれは自分じぶんに云いいながら燗かん徳利とっくりを持もった、「いや、そんなことはあるまい、今日きょうはいつもとようすが違ちがっていた、いくらなんでも今日きょうこそは、――」

燗かん徳利とっくりには酒さけがなかった。得とく石せきはそれを置おいて、乱暴らんぼうに手てを叩たたき、返辞へんじが聞きこえないのでまた叩たたいたが、その動作どうさで坐すわった躯むくろがぐらっと傾かたむき、倒たおれそうになって左手ひだりてを突ついた。

「おい、戦場せんじょうだぞ」彼かれは自分じぶんに云いった、「しっかりしろ得え石いし、ここは関ヶ原せきがはらだぞ、――これから一いちといくさ始はじまるんだぞ、しっかりしろ」

若わかい女中じょちゅうが酒さけを持もって来き、少すこしまをおいておときが来きた。得とく石せきは手酌てじゃくで飲のんでいたが、おときが坐すわろうとすると手てを振ふった。

「云いうにゃ及およぶだ、わかってる」と彼かれは手てを振ふりながら云いった、「二に階かいの支度したくができたんだろう、わかってるよ」

「二に階かいへいらっしゃるんですか」

「いらっしゃるかって、――呼よびに来きたんじゃあないのか」

おときは燗かん徳利とっくりを持もち、口くちへ手てを当あてて笑わらいながら酌しゃくをした、「ごめんなさい、お伴つれさまならお帰かえりになりましたわ」

得とく石せきの手てが、酌しゃくをされた盃さかずきを持もったまま、動うごかなくなった。

「いけませんよ」とおときが云いった、「あんな若わかいおきれいなお嬢じょうさまをくどいたりなすっては、罪つみですよ先生せんせい」

「帰かえったって、――本当ほんとうに帰かえったのか」

「約束やくそくを守まもって下くださらないからって」と云いいながらおときは、おみのの盃さかずきを取とって、冷ひえてしまった酒さけを飲のみ、その盃さかずきをさしだしながら云いった、「一ひとつ下くださらない」

得とく石せきは自分じぶんのを飲のみ、おときに酌しゃくをしてやった。

「この次つぎに知しらせたとき、もし約束やくそくを守まもって下くださらなかったら」とおときが云いった、「もう二に度どとおめにはかかりませんって、そう申上もうしあげてくれと仰おっしゃってましたわ」

「ぎゃふんだな」と彼かれは云いった、「ざまあねえ、いい面つらの皮かわだ」

「あんなにお若わかくておきれいでいて、ずいぶんしっかりしていらっしゃるのね」とおときは彼かれに盃さかずきを差さしながら云いった、「昨日きのうここへ初はじめておみえになったときも、十じゅう五ご、六ろくの小間こま使しらしい女おんなの子こを伴つれていらしったけれど、御ご自分じぶんではっきり仰おっしゃるんですよ、二に階かいの静しずかな座敷ざしきがいい、お酒さけのあとで休やすむからその支度したくもするようにって、――こんなおばあちゃんのあたしたちでさえ云いいにくいことを、はっきりと仰おっしゃるんですもの、みんなあとで顔かおを見合みあわせちまいましたわ」

Click a word · hold for the whole sentence 0%