「しかし貴女という人はふしぎな人だ」得石は酔いのために軽くなった口ぶりで、口髭を舐め舐め云っていた、「むさし屋のかみさんとのことも知ってるし、海石のことから平松町の豊島屋のこと、豊島屋で小金貸しをやらせていることまで知ってるんだから、――まったくこっちは、首の根を押えられたようなこころもちですぜ」
「そんなことあたりまえよ」おみのは盃の酒を杯洗にあけて彼に差した、「一生添いとげる相手ですもの、女なら誰だってその人のことを知りたいと思うわ、ことに先生のような、女にもてる方はね」
「その眼だ」と彼は云った、「その殺し文句といまの眼つきでいつもこっちは骨抜きにされてしまう、おみのさん」
得石は盃を持ったまま、左手を伸ばした。おみのはやわらかにその手を避け、「だめ」とにらんでかぶりを振った。
「ひどい人だ」と彼は怨めしげに云った、「こんなに私をのぼせあがらせておいて、いざというときになるときまってすりぬけてしまう、私のことは根から葉までさぐりだしていながら、自分のことはなにもうちあけてくれない、――いどころさえ教えないんだから、いったい貴女はどういう気持なんです、ただ私をからかっているだけなんですか」
「ほんとのことを云いましょうか」おみのは微笑しながら、ながし眼で彼を見た、「――あたし今日は、どうなってもいいつもりで来たんです、二階にもそのつもりで、支度をするように頼んでおいたのよ」
「それが本当なら」
「いいえだめ」おみのはまたかぶりを振った、「先生は約束を守って下さらなかったでしょ、あんなに固い約束をしたのに、それを守って下さらないとすれば、あたしだって考え直さなければなりませんわ、女にとっては一生のことですもの、そうじゃなくって、先生」
「ふしぎな人だ、貴女は」得石は手酌で飲んだ、「私にはわからない、貴女ぐらいの年ごろで、金貸しに興味があるなんて聞いたこともない」
「あたし先生のことがなにもかも知りたいの、ただそれだけよ」
「それならいっしょになってから飽きるほど見られる」彼はまた手酌で飲んだ、「――なにもこういうときに、そんな色消しな物を見ることはないと思うがな」
「あら、あたしお金は好きよ」おみのは彼に酌をして云った、「こうして先生と逢うのだって、あたしの自由になるお金があればこそでしょ、先生もお医者でいながら料理茶屋をやらせ、宿屋と金貸しまでしていらっしゃる、――あたしと先生とは性が合っていると思うし、もし先生といっしょになることができたら、豊島屋のほうはあたしがやらせて頂くつもりでいるのよ」
「そのために証文を見たいというわけか」
「あるだけ全部ね」とおみのは云った、「それで先生のことはすっかりわかるし、先生があたしを信じて下さるということもわかるわ」
得石は膳の上にあるおみのの盃を見、彼女がまだ一と口も飲んでいない、ということに気づいた。盃を差せば受けるが、酒はみな杯洗へあけてしまう。これはうっかりするとこっちが潰れてしまうぞ、と彼は思った。
「よろしい、わかりました」と彼は口髭を指の背で撫で、酔っていない証拠をみせようとして膝を正した、「よくわかりました、貴女が本当にそのつもりなら、こんどこそ必ず持って来てごらんにいれます」
そして突然、倒れるような身振りでおみのの手を掴んだ。おみのは拒まなかった。手を掴まれたまま躯を反らせ、「痛いわ」と眉をひそめながら、立ちあがった。
「おみのさん」彼は伸びあがった。
「ここはいや」とおみのは囁いた、「あたし二階へいってます」
「本当だな」
おみのは眼で笑いかけた、「女中さんにそう云ったら、来てちょうだい」
「まさかまた、逃げるんじゃあないだろうな」
おみのは微笑しながら、掴まれている手をそっと放し、ゆったりとした歩きぶりで、廊下へ出ていった。
「また逃げられたかな」彼は自分に云いながら燗徳利を持った、「いや、そんなことはあるまい、今日はいつもとようすが違っていた、いくらなんでも今日こそは、――」
燗徳利には酒がなかった。得石はそれを置いて、乱暴に手を叩き、返辞が聞えないのでまた叩いたが、その動作で坐った躯がぐらっと傾き、倒れそうになって左手を突いた。
「おい、戦場だぞ」彼は自分に云った、「しっかりしろ得石、ここは関ヶ原だぞ、――これから一といくさ始まるんだぞ、しっかりしろ」
若い女中が酒を持って来、少しまをおいておときが来た。得石は手酌で飲んでいたが、おときが坐ろうとすると手を振った。
「云うにゃ及ぶだ、わかってる」と彼は手を振りながら云った、「二階の支度ができたんだろう、わかってるよ」
「二階へいらっしゃるんですか」
「いらっしゃるかって、――呼びに来たんじゃあないのか」
おときは燗徳利を持ち、口へ手を当てて笑いながら酌をした、「ごめんなさい、お伴れさまならお帰りになりましたわ」
得石の手が、酌をされた盃を持ったまま、動かなくなった。
「いけませんよ」とおときが云った、「あんな若いおきれいなお嬢さまをくどいたりなすっては、罪ですよ先生」
「帰ったって、――本当に帰ったのか」
「約束を守って下さらないからって」と云いながらおときは、おみのの盃を取って、冷えてしまった酒を飲み、その盃をさしだしながら云った、「一つ下さらない」
得石は自分のを飲み、おときに酌をしてやった。
「この次に知らせたとき、もし約束を守って下さらなかったら」とおときが云った、「もう二度とおめにはかかりませんって、そう申上げてくれと仰しゃってましたわ」
「ぎゃふんだな」と彼は云った、「ざまあねえ、いい面の皮だ」
「あんなにお若くておきれいでいて、ずいぶんしっかりしていらっしゃるのね」とおときは彼に盃を差しながら云った、「昨日ここへ初めておみえになったときも、十五、六の小間使らしい女の子を伴れていらしったけれど、御自分ではっきり仰しゃるんですよ、二階の静かな座敷がいい、お酒のあとで休むからその支度もするようにって、――こんなおばあちゃんのあたしたちでさえ云いにくいことを、はっきりと仰しゃるんですもの、みんなあとで顔を見合わせちまいましたわ」