← Library‹ 五瓣の椿 第六話 六

十じゅう二に月がつ二十にじゅう七しち日にちの午後ごご。

青木あおき千之助せんのすけは八丁堀はっちょうぼりの役宅やくたくで、溜たまっていた書類しょるいの整理せいりをしていた。朝あさからの雨あめが雪ゆきになるかと思おもったが、寒さむさがきびしいばかりで雪ゆきになるようすもなく、雨落あまおちの石いしを打うつあまだれの音おとが、気きのめいるような陰気いんきな調子ちょうしで、低ひくく、ゆっくりと呟つぶやいているのが聞きこえた。

手てが凍こごえてきたので、筆ふでを措おき、火桶ひおけで手指しゅしを暖あたためていると、声こえをかけて、同僚どうりょうの岡田おかだ朔太郎さくたろうがはいって来きた。

「精せいを出だすね、もう暗くらいじゃないか」

「正月しょうがつに休やすみたいからね」と千之助せんのすけは答こたえた、「――もうしまったのか」

「うん、おちつかなくってね」岡田おかだは眼めを細ほそくした、「だらしのない話はなしだが、この時刻じこくになるといけないんだ、どうなだめてもそわそわしちゃって、なんにも手てが付つかなくなってくるんだ」

「おれのせいじゃないさ、頼たのむから邪魔じゃまをしないでくれ、今日きょうは師走しわすの二十にじゅう七しち日にちだぜ」

「話はなしぐらい聞きいてくれてもいいだろう、じつはちょっと相談そうだんがあるんだ」

千之助せんのすけは手てをあげて制せいした、「あ、あ、それはだめだ、あの女おんなのことだけはおれに話はなさないでくれ、おれには別わかれろと云いうほかに意見いけんはないんだから」

「友情ゆうじょうのない男おとこだな」

「ああ、この事ことについては爪つめの先さきほどの友情ゆうじょうもないね」千之助せんのすけは机つくえに向むかって筆ふでを取とった、「ほかに用ようがなかったらいってもらおう」

「青木あおきはあの女おんなを誤解ごかいしているんだ」と云いって岡田おかだは立たちあがった、「いちど会あってゆっくり話はなしてくれれば、おれの女房にょうぼうとして立派りっぱに値打ねうちのあることがわかるんだがな」

「それも幾いくたびか聞きいたせりふだ」と書類しょるいを繰くりながら千之助せんのすけが云いった、「おまえの惚ほれる女おんなはみんな待まちの女房にょうぼうとして立派りっぱな値打ねうちがある、それが五十ごじゅう日にちも経たたないうちにすべたのおかめのおひきずりに変かわってしまう、おい、子供こどもだって同おなじ落おとし穴あなへは落おちないもんだぜ」

「こんどのお松まつは違ちがうんだっていったら」

「それもきまり文句もんくだ」千之助せんのすけは背せを向むけたままで、筆ふでを持もった手てを振ふった、「さあ出でていってくれ、おれはこれを片かたづけなくちゃならないんだ」

岡田おかだ朔太郎さくたろうは溜息ためいきをつき、首くびを振ふりながら出でていったが、閉しめた障子しょうじをすぐにあけて戻もどり、「忘わすれていたよ」と云いって、一いち通つうのふくらんだ手紙てがみをさし出だした。

「おれの書状しょじょう箱はこにこれが紛まぎれこんでいたんだ」と岡田おかだは云いった、「おしのという女おんなの名なまえだが、呼出よびだしじゃあないのか」

「おしの」千之助せんのすけは受取うけとって署名しょめいを見みた、「覚おぼえのない名なだな、なんだろう」

「おれのお松まつと同おなじ口くちじゃあないのか」と云いって岡田おかだはあとじさりをした、「そんな顔かおをするなよ、冗談じょうだんじゃないか」

そしてこんどはいそぎ足あしに出でていった。

千之助せんのすけは暫しばらく「おしの」という署名しょめいをみつめていたが、やがて封ふうを切きって、厚あつくふくらんだその手紙てがみを披ひらいた。厚あつさ一いち寸すんほどもある巻紙まきがみの上うえに、細長ほそながく折おった一いち枚まいの紙かみがあり、彼かれはまずそれを読よんだ。

――わたくしは日本橋にほんばし本石ほんごく町ちょう三さん丁目ちょうめの薬種やくしゅ問屋とんや、むさし屋やの娘むすめしのでございます。

それにはこういう書かきだしで、人ひとを殺ころした罪つみで自首じしゅして出でたいが、いつぞや「かね本ほん」であなたを騙だましたことがあるし、あなたが自分じぶんのことをしらべていると聞きいたので、ぜひあなたの手てでお繩なわにしていただきたい。おいでになるまでここを動うごかずに待まっているが、いらっしゃるまえに同封どうふうの書状しょじょうを読よんでおいてもらいたい。こんどのことはこみいった事情じじょうがあって、口くちではよく云いいあらわせないかもしれないと思おもい、前後ぜんごのゆくたてを書かきとめておいたのである。文章ぶんしょうもたどたどしい字じも読よみにくいだろうが、どうかひととおり眼がんをとおしておいていただきたい。という意味いみのことが書かいてあった。

「本所ほんじょ枕橋まくらばしの近ちかく、松平まつだいら越前えちぜんさまの横よこのむらた、――茶屋ちゃやだな」千之助せんのすけはところ書かきを読よむと、下唇したくちびるを噛かんで呟つぶやいた、「やっぱりおしのという娘むすめだったのか」

彼かれは机つくえの上うえを片かたづけて、その書状しょじょうを読よみはじめた。

とそこに書かかれていた告白こくはくは異常いじょうなもので、とうてい十じゅう八はち歳さいの娘むすめなどにできることとは思おもえなかったが、同時どうじにまた「十じゅう八はち歳さい」という年齢ねんれいの純粋じゅんすいな潔癖けっぺきさがなければできなかったろう、とも思おもえるものであった。

彼女かのじょは父ちちに対たいする深ふかい愛情あいじょうを切々せつせつと訴うったえ、特とくに父ちちが「山やま椿つばき」について語かたった思おもい出でばなしに感動かんどうしたことを、克明こくめいに書かいていた。文章ぶんしょうは少すこしも修飾しゅうしょくがなく、事実じじつをそのまま書かき綴つづったらしく、もどかしい云いいまわしが多おおかったけれど、偽いつわりのない感情かんじょうをあらわしているようであった。

――わたくしは母ははが赦ゆるせませんでした。

母ははの不貞ふてい、不ふ行跡ぎょうせきについても、彼女かのじょは隠かくさずに怒いかりを述のべていた。(これらは読者どくしゃがすでに読よまれている)そして、自分じぶんが不義ふぎの子こであると聞きかされたとき、しかも母はは自身じしんが、平然へいぜんとしてそれを語かたるのを聞きいて、殺ころす気きになったという。

――母ははと子こという気持きもちはなくなっていました、人間にんげんとして赦ゆるすことができない、女じょぜんたいをけがすものだ、というように感かんじたのです。

人ひとが生いきてゆくためには、お互たがいに守まもらなければならない掟おきてがある。その掟おきてが守まもられなければ世よの中なかは成なり立たってゆかないだろうし、人間にんげんの人間にんげんらしさも失うしなわれてしまうであろう。ことに男おとこと女おんなとの関係かんけいは、お互たがいの誠実せいじつと信頼しんらいが根本こんぽんである。わたくしはまだ情事じょうじを知しらないから、それがどんなに人ひとを迷まよわせ、あやまちを犯おかさせるものかはわからないし、世間せけんには密通みっつうということが少すくなくないことも聞きいている。

――けれども母ははの場合ばあいは違ちがうのです。

母ははが男狂おとこぐるいをした、不義ふぎの子こを産うんだというだけなら、「殺ころす」などという気持きもちにはならなかったでしょう。母ははにはそれが「あやまち」でもなく、不ふ徳義とくぎとも感かんじなかった。父ちちが知しっていたようすから推察すいさつすると、わたくしが不義ふぎの子こであるということを隠かくしもしなかったと思おもうのです。

――死しぬまえに一ひと言ことだけ。

たった一ひと言ことだけ云いいたいことがある、と父ちちは云いった。二十にじゅう年ねんちかいあいだ、抑おさえに抑おさえて来きたおもいを、いちどだけ母ははに叩たたきつけたかったのであろう。しかし、仮かりにそうすることができたとしても、おそらく母ははは平気へいきだったにちがいない。

父ちちの死し躰からだを見みたとき、母ははは悲かなしそうな顔かおひとつせず、「きみが悪わるい」と云いって逃にげだし、子供こども役者やくしゃの菊太郎きくたろうと、良人おっとの死し躰からだのある同おなじ家いえの中なかで、酒さけを飲のみ、たわむれていた。

――これが赦ゆるせることでしょうか。

Click a word · hold for the whole sentence 0%