十二月二十七日の午後。
青木千之助は八丁堀の役宅で、溜っていた書類の整理をしていた。朝からの雨が雪になるかと思ったが、寒さがきびしいばかりで雪になるようすもなく、雨落の石を打つあまだれの音が、気のめいるような陰気な調子で、低く、ゆっくりと呟いているのが聞えた。
手が凍えてきたので、筆を措き、火桶で手指を暖めていると、声をかけて、同僚の岡田朔太郎がはいって来た。
「精を出すね、もう暗いじゃないか」
「正月に休みたいからね」と千之助は答えた、「――もうしまったのか」
「うん、おちつかなくってね」岡田は眼を細くした、「だらしのない話だが、この時刻になるといけないんだ、どうなだめてもそわそわしちゃって、なんにも手が付かなくなってくるんだ」
「おれのせいじゃないさ、頼むから邪魔をしないでくれ、今日は師走の二十七日だぜ」
「話ぐらい聞いてくれてもいいだろう、じつはちょっと相談があるんだ」
千之助は手をあげて制した、「あ、あ、それはだめだ、あの女のことだけはおれに話さないでくれ、おれには別れろと云うほかに意見はないんだから」
「友情のない男だな」
「ああ、この事については爪の先ほどの友情もないね」千之助は机に向かって筆を取った、「ほかに用がなかったらいってもらおう」
「青木はあの女を誤解しているんだ」と云って岡田は立ちあがった、「いちど会ってゆっくり話してくれれば、おれの女房として立派に値打のあることがわかるんだがな」
「それも幾たびか聞いたせりふだ」と書類を繰りながら千之助が云った、「おまえの惚れる女はみんな待の女房として立派な値打がある、それが五十日も経たないうちにすべたのおかめのおひきずりに変ってしまう、おい、子供だって同じ落し穴へは落ちないもんだぜ」
「こんどのお松は違うんだっていったら」
「それもきまり文句だ」千之助は背を向けたままで、筆を持った手を振った、「さあ出ていってくれ、おれはこれを片づけなくちゃならないんだ」
岡田朔太郎は溜息をつき、首を振りながら出ていったが、閉めた障子をすぐにあけて戻り、「忘れていたよ」と云って、一通のふくらんだ手紙をさし出した。
「おれの書状箱にこれが紛れこんでいたんだ」と岡田は云った、「おしのという女の名まえだが、呼出しじゃあないのか」
「おしの」千之助は受取って署名を見た、「覚えのない名だな、なんだろう」
「おれのお松と同じ口じゃあないのか」と云って岡田はあとじさりをした、「そんな顔をするなよ、冗談じゃないか」
そしてこんどはいそぎ足に出ていった。
千之助は暫く「おしの」という署名をみつめていたが、やがて封を切って、厚くふくらんだその手紙を披いた。厚さ一寸ほどもある巻紙の上に、細長く折った一枚の紙があり、彼はまずそれを読んだ。
――わたくしは日本橋本石町三丁目の薬種問屋、むさし屋の娘しのでございます。
それにはこういう書きだしで、人を殺した罪で自首して出たいが、いつぞや「かね本」であなたを騙したことがあるし、あなたが自分のことをしらべていると聞いたので、ぜひあなたの手でお繩にしていただきたい。おいでになるまでここを動かずに待っているが、いらっしゃるまえに同封の書状を読んでおいてもらいたい。こんどのことはこみいった事情があって、口ではよく云いあらわせないかもしれないと思い、前後のゆくたてを書きとめておいたのである。文章もたどたどしい字も読みにくいだろうが、どうかひととおり眼をとおしておいていただきたい。という意味のことが書いてあった。
「本所枕橋の近く、松平越前さまの横のむらた、――茶屋だな」千之助はところ書きを読むと、下唇を噛んで呟いた、「やっぱりおしのという娘だったのか」
彼は机の上を片づけて、その書状を読みはじめた。
とそこに書かれていた告白は異常なもので、とうてい十八歳の娘などにできることとは思えなかったが、同時にまた「十八歳」という年齢の純粋な潔癖さがなければできなかったろう、とも思えるものであった。
彼女は父に対する深い愛情を切々と訴え、特に父が「山椿」について語った思い出ばなしに感動したことを、克明に書いていた。文章は少しも修飾がなく、事実をそのまま書き綴ったらしく、もどかしい云いまわしが多かったけれど、偽りのない感情をあらわしているようであった。
――わたくしは母が赦せませんでした。
母の不貞、不行跡についても、彼女は隠さずに怒りを述べていた。(これらは読者がすでに読まれている)そして、自分が不義の子であると聞かされたとき、しかも母自身が、平然としてそれを語るのを聞いて、殺す気になったという。
――母と子という気持はなくなっていました、人間として赦すことができない、女ぜんたいをけがすものだ、というように感じたのです。
人が生きてゆくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう。ことに男と女との関係は、お互いの誠実と信頼が根本である。わたくしはまだ情事を知らないから、それがどんなに人を迷わせ、あやまちを犯させるものかはわからないし、世間には密通ということが少なくないことも聞いている。
――けれども母の場合は違うのです。
母が男狂いをした、不義の子を産んだというだけなら、「殺す」などという気持にはならなかったでしょう。母にはそれが「あやまち」でもなく、不徳義とも感じなかった。父が知っていたようすから推察すると、わたくしが不義の子であるということを隠しもしなかったと思うのです。
――死ぬまえに一と言だけ。
たった一と言だけ云いたいことがある、と父は云った。二十年ちかいあいだ、抑えに抑えて来たおもいを、いちどだけ母に叩きつけたかったのであろう。しかし、仮にそうすることができたとしても、おそらく母は平気だったにちがいない。
父の死躰を見たとき、母は悲しそうな顔ひとつせず、「きみが悪い」と云って逃げだし、子供役者の菊太郎と、良人の死躰のある同じ家の中で、酒を飲み、たわむれていた。
――これが赦せることでしょうか。