枕橋の手前を右へ曲ってゆくと、松平越前邸から一丁ほどいった右手に「むらた」と軒行燈を掛けた料理茶屋があった。
駕籠を門の中まで入れさせると、女中がみつけたのだろう、雨傘を持って迎えに出て来た。千之助は駕籠を待たせておき、
「離れにおしのという女客がいるか」と訊き、自分の名と身分を告げた。町方与力と聞いて、女中はちょっと驚いたようだったが、青木という名を告げられていたのだろう、「お待ちかねでございます」と云って、案内に立った。
その離れは母屋と棟がべつになっているが、踏石の上に屋根が掛けてあるので、傘をさす必要はなかったし、踏石からすぐに、離れの縁側へ続いていた。女中はその縁側のところで、お伴れさまがみえましたと声をかけ、千之助は女中に「もういい」という手まねをした。
「なにかお支度を致しましょうか」と女中が訊いた。
「あとで頼む」と千之助は答えた。
女中が去るのを待って、千之助は刀を右手に取り、縁側へあがって名をなのった。しかし返辞はない、座敷の中はしんとして、人のいるけはいも感じられなかった。
――逃げられたか。
しまったと思い、彼は手荒く障子をあけた。雨の日の黄昏で、座敷の中はすでに暗く、香を炷くかおりが噎せるほど強く匂っていた。
「おしの」と云って、彼は咳こんだ、「おしの、いるか」
千之助は障子をいっぱいにあけ放った。
小机の上に香炉が煙をあげてい、火鉢の脇に、娘が俯伏せに倒れていた。千之助は棒立ちになり、上からじっと見おろしていたが、長い経験で、それがもう死躰であるということは一と眼でわかった。
「おそかったな」と彼は呟いた、「待てなかったのか」
彼は頭の中のどこかで、おしのを助けよう、と思っていたことに気づきながら、身を跼めて、死躰をそっと仰向きにした。娘の両手は、胸に突き刺した短刀の柄を握っていた、両足は膝のところを、着物の上から固く扱帯で縛ってあった。――千之助は娘の躯が楽になるように、仰向きにきちんと寝かせてから、踏石のところへ出て手を鳴らした。
女中に行燈の火を入れさせ、八丁堀へ使いをやるように命じた。座敷へはいれなかったので、女中はなにも気づかなかったろう。千之助としては、誰にもおしのの死躰を見せたくない気持だったが、役目の責任として、同心を呼ばないわけにはいかなかったのである。
行燈の光で座敷の中を見まわすと、小机の香炉の側に手紙があった。彼は小机を火鉢の脇へ移し、「青木さま」と上書のあるその手紙を、披いて読んだ。
――約束にそむいて申訳がない。
手紙は走り書きで、初めにまず詫びを云い、自首して出るつもりだったが、お仕置のことを考えると恐ろしくなった。その場になってみれんなまねをしそうに思えるので、あなたには済まないが自害をする、死骸はどうか御法どおりに処分してもらいたい。
――また、道灌山の下に「植茂」という植木屋があり、その隠居所におまさという召使がいます、これは雇人でなにも知らない人間ですから、まだそこにいるとしてもお構いなしにはからって下さいまし。そして、その部屋の机の中に金包みがございますが、それは父が遺してくれたものの残りで、決してうろんな金ではございません。もしそうしてもよいのなら、貧しい人たちへのお施米の足しにでもしていただければと存じます。
あなたにはずいぶんお手数をかけた。いちどおめにかかり、お詫びを申上げなければならないのに、こうして死ぬことをゆるしてもらいたい。もう一つ、最後のお願いがある。死骸がどういう処分を受けるかわからないが、処分するまえに、ぜひ腑分をしてくれるように頼む。
――わたくしのからだがよごれていず、むすめのままだということを知っていただきたいからです。
手紙はそうむすんであった。
千之助は小机の上に手紙を披いたまま、おしののほうへ眼をやった。庇を打つ雨の音はまだやまず、風が出たのか、横のほうで笹の葉の揺れ騒ぐのが聞えた。
おしのは平安な顔をしていた。白蝋のような頬にも、のびやかな眉にも、赤みの失せた唇にも、苦痛の色は些かもなく、まるで眠りながら微笑しているような、おちついた安らかな顔つきであった。
「おしの、私にはなにも云えないよ」と彼はおしのの死顔に向かって囁いた、「おまえのしたことが正当であったかなかったか、私にはわからない、だがおまえはそうしたかった、そうせずにはいられなかった、ということだけは真実だ、――しんじつそうせずにいられなかったとすれば、それをしたことについて悔やむ必要はないよ」
彼は眼をつむって、また続けた、「丸梅の源次郎は私が引受けた、彼には充分に、彼の罪の味を思い知らせてやるよ、――おまえはもう父親の側へいっているだろう、心をいためたり、人の眼を恐れたりすることもない、父親の側でゆっくり休むがいい、もう誰もおまえの邪魔をする者はないからな」
千之助はふところから、たたんだ手拭を出し、おしのの側へすり寄って、その顔を手拭で掩ってやった。香炉の煙はもう絶えていた。