← Library‹ ちいさこべ 十三

まただ、きっとまたあの子こだ。おりつはじっと耳みみをすました。

いつか茂次しげじに云いわれたことがあるので、彼かれにはなにも告つげなかったが、少すこしまえからときどきそんなことがある。おりつが寝床ねどこへはいって暫しばらくすると、そっと廊下ろうかを忍しのんで来きて、障子しょうじの外そとから中なかのようすをうかがっているらしい。まもなくまた忍しのび足あしで去さってゆくのだが、子供こども部屋へやの障子しょうじを閉しめる音おとが聞きこえるので、子供こどもたちの誰だれかだということ、とすれば菊二きくじだろうと見当けんとうがついていた。

――いやらしい。

おりつは心こころの中なかで呟つぶやきながら、このごろ目立めだって背丈せたけの伸のびた、菊二きくじのようすを思おもいうかべた。

足音あしおとは障子しょうじの外そとで止とまった。いつものようにこちらの寝息ねいきをうかがっているのだろう。おりつもじっと息いきをひそめた。すると障子しょうじがことりと音おとをたて、ついで静しずかに、極きわめて静しずかに、障子しょうじをあけるのが聞きこえた。おりつはぞっと総毛そうけ立たった。手足てあしがしぜんとちぢまり、呼吸こきゅうが喉のどに詰なじった。

――障子しょうじをあけた、どうする気きだろう。

おりつはぎゅっと眼めをつむった。不安ふあんというよりも殆ほとんど恐怖きょうふのために、全身ぜんしんが硬こわばり、そして、硬こわばったままでふるえだした。そのとき囁ささやく声こえが聞きこえた。かすれた、低ひくい喉声のどごえで、けれども緊張きんちょうのためするどくなっているおりつの耳みみに、はっきりと聞きこえた。

「おっ母ははさん」とその声こえが囁ささやいた、「――おやすみなさい」

そうしてまたごく静しずかに、そろそろと障子しょうじが閉しまり、忍しのび足あしの音おとが廊下ろうかをゆっくりと去さっていった。おりつはもうその足音あしおとも子供こども部屋へやの障子しょうじの音おとも聞きこうとはしなかった。彼女かのじょは大おおきく眼めをみはり、行燈あんどんを暗くらくしてある部屋へやのひとところを見みまもったまま、かなり長ながいあいだ身動みうごきもしずにいた。そのうちに、大おおきくみはった眼めから涙なみだがあふれだし、喉のどへ嗚咽おえつがこみあげてきた。おりつは啜すすり泣なきをしながら起おき、行燈あんどんに掛かけてあった半纒はんてんを取とると、寝衣ねまきの上うえからひっかけて廊下ろうかへ出でた。おりつは忍しのび足あしで廊下ろうかをゆき、茂次しげじの部屋へやへはいった。そして、そこへ坐すわって、両手りょうてで顔かおを掩おおって啜すすり泣ないた。

茂次しげじは眼めをさましていた。おりつのはいって来きたときに眼めをさまし、不審ふしんに思おもいながら、そっとようすをみていた。しかしおりつが泣ないているのを聞きいて、寝ねたままで、「なんだ」と呼よびかけた。

「あたし」とおりつが囁ささやいた、「明日あすおひまをもらいます」

茂次しげじは起おき直なおった、「なんだって」

「あたしが子供こどもを育そだてるなんて間違まちがいです、あたしは学問がくもんもないばかだし、それに」とおりつは喉のどを詰なじらせて云いった、「それに、心こころも卑いやしいいやな女おんななんです」

「ちょっと待まて」と茂次しげじが遮さえぎった、「こんなよるの夜中よなかにやって来きて、いきなりそんなことを云いわれたってわけがわからねえ、いったいどうしたっていうんだ」

おりつはいまの出来事できごとを話はなした。嗚咽おえつにさまたげられて、途切とぎれたり云いいそこなったりしたが、あったことを正直しょうじきに話はなし、いつか茂次しげじに云いわれたとおり、「みだらなのは自分じぶんのほうだ」ということに気きがついたと云いった。

「あの子こがいつもあたしにつきまとって、いつもなにか用ようをしたがったり、じっとみつめたりしていたのは、あたしを自分じぶんのおっ母ははさんだと思おもいたかったのよ」と云いっておりつはまた啜すすり泣ないた、「それをただいやらしいと思おもうばかりで、今日きょうまでそうと気きがつかなかったのはなさけないわ、こんなことで子供こどもたちが育そだてられる道理どうりがないわ」

「ちょっと待まて」と茂次しげじが云いった、「まあおれの云いうことを聞きけ」

彼かれは立たちあがり、おりつの前まえへ来きて坐すわった。「そう自分じぶんばかり責せめるな、おまえはまだ娘むすめなんだ、みだらな気持きもちがあるなしにかかわらず、些細ささいなことにも自分じぶんの身みをまもろうとするのは、娘むすめとして当然とうぜんなことじゃないか、当然とうぜんなことだろうとおれは思おもう」と茂次しげじは云いった、「だから、こんなときに云いうのはおかしいが、おまえが亭主ていしゅを持もち、子この親おやになれば、そういう思おもいちがいも、しなくなり、子供こどもたちともうまくゆくんじゃあないだろうか」

おりつは茂次しげじを見みた。

「こんなときに云いいだすのはおかしいが」と茂次しげじは同おなじことをくり返かえし、ひどくぶきように云いった、「いや、こういう話はなしが出でたから云いうんだ、おまえはどう思おもってるかわからねえが、おれは、おまえにこのうちをやっていってもらいたいんだ」

おりつは「あ」というふうに口くちをあけた。声こえは出ださなかったが、口くちをあけて、あっけにとられたように茂次しげじを見みた。

「いやか」茂次しげじは怒おこったように云いった、「子供こどもたちにもそのほうがいいし、おれはおまえといっしょになりたいんだ、ずっとまえから、いつ云いいだそうかと迷まよっていたんだが、おまえはいやか」

おりつの顔かおが歪ゆがんだ。彼女かのじょは涙なみだの溜たまった眼めで彼かれをみつめながら、「棟梁とうりょうには利息りそくがついてるじゃないの」と云いった。

「利息りそくだって」と茂次しげじは訊きき返かえした、「利息りそくとはなんのことだ」

「ごめんなさい、口くちが辷すべっちゃったのよ」とおりつは狼狽ろうばいして云いった、「そういうふうに聞きいたし、みんなも知しってることだし、棟梁とうりょうだってそのつもりで」

「いや」と茂次しげじは首くびを振ふって遮さえぎった、「はっきり云いってくれ、利息りそくとはどういうこった」

おりつが答こたえた、「おゆうさんよ」

「おゆう――」と茂次しげじはけげんそうな眼めでおりつを見みた。

おりつは云いった。この近所きんじょではまえから、茂次しげじとおゆうが夫婦ふうふになるものときめていたようだ。自分じぶんもそう思おもっていたが、十じゅう二に月がつに出入でいりの米屋こめやが話はなすのを聞きいた。「魚ぎょ万よろず」の再さい普請ふしんに当あたって、茂次しげじが金かねを借かりたとき、福田ふくだ屋やの久兵衛きゅうべえがこの金かねには利息りそくが付つくと云いった。それは金利きんりのことではなく、おゆうを嫁よめにやるということ、つまり「おゆうが付つく」という意味いみで、今年ことしの秋あきあたりはそういうはこびになるだろう、というように聞きいた、とおりつは云いった。

茂次しげじは躯むくろのどこかに痛いたみでも起おこったような顔かおつきで、じっとおりつの眼めをみつめた。おりつは自分じぶんがへまなことを云いったとでも感かんじたのだろう、しりごみをするような調子ちょうしで、「こんなことを云いって悪わるかったかしら」と云いった。

「ばかなやつだ」と茂次しげじは静しずかに首くびを振ふった、「おれが福田ふくだ屋やで金かねを借かりたことは事実じじつだ、そのとき利息りそくが付つくよと断ことわられたのも事実じじつだ、しかし利息りそくというものは借かりた金かねに対たいしてこっちで払はらうもんだぜ、金かねを貸かしたうえに娘むすめを利息りそくにつけるなんて、ばかな話はなしがあってたまるか」

「でもそこを、福田ふくだ屋やさんが洒落しゃれて」と云いいかけたが、おりつは茂次しげじの顔色かおいろを見みて、慌あわてて口くちをつぐんだ。

「おい、よく聞きけ」と茂次しげじがゆっくりと云いった、「おれはうちの看板かんばんを質しつにおいて金きんを借かりた、福田ふくだ屋やは質屋しちやだから、返かえすときには金かねに利息りそくをつける、これ以上いじょうはっきりしたことがあるか、また、おゆうさんが片輪かたわとかばかとかいうんならともかく、そうでもねえのに福田ふくだ屋やがそんな手ての混こんだまねをするわけがねえじゃねえか、そうだろう」

「だって棟梁とうりょうはあのひとのこと好すきなんでしょ」

「好すきだよ」と茂次しげじは頷うなずいた。

「あのひとだって棟梁とうりょうが好すきなのよ」

「おい、よく聞きけ」と茂次しげじはまた云いった、「おれはおゆうさんが好すきだ、けれども女房にょうぼうにするのと、好すきだということはべつだ、それとも、ええ面倒めんどうくせえ」彼かれはじれったそうに立たちあがり、夜具やぐの上うえへいって仰向あおむけに寝ねころんだ、「もういいからいって寝ねちまえ」

おりつは黙だまって、うなだれたまま坐すわっていた。そして、かなり経たってから、低ひくいやわらかな声こえで囁ささやいた。

「あたしねえ、仮名かなならもうすっかり読よめるし、書かくこともできるのよ」

茂次しげじはなにも云いわなかった。おりつはなお暫しばらく坐すわっていたが、やがてそっと立たちあがると、仮かりの仏壇ぶつだんの前まえへゆき、合掌がっしょうし頭あたまを垂たれた。茂次しげじがうす眼めをあけて見みていると、おりつは仏壇ぶつだんに向むかっておじぎをし、口くちの中なかでなにか囁ささやきかけていた。茂次しげじにはお願ねがいしますという言葉ことばだけが聞きこえた。そうして、おりつは忍しのび足あしで出でていった。

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