食膳に向うと伝九郎はもういちど驚ろいた。
「おめえこれあ、これあどうして、ちゃんとしたもんじあねえか」
「――ちゃんとしたもの、とは、なにがだ」
「飯も上出来だし魚の焼きかたもいいし、おまけに芹のしたしたあ驚いた、こいつあたいした驚きだ、兜をぬいだぜ」
成信は笑ってなにも云わなかった。
「お侍は恐えてえことを云うがまったくだな、すまして肩肱を張ってるが、いざとなれあこんなこともできるんだ、やっぱり修業てえものが違うんだな」
「――そう褒めるな、まぐれ当りだ」
「御謙遜にあ及ばねえ、と、思いだしたんだが、おめえさっきこれにあわけがあるとか云ったようだが、あれあなんだ」
「――うん、しかしそれは、喰べてからに、しよう」
「気をもたせねえで呉れ、心配になるぜ」
食事をしながら話すつもりだった。しかし箸をとってみると口がきれない、それでいっとき延ばしたわけであるが、食事が済み、あと片づけが終って、いつもの炉端へ坐ってからも、胸さきの詰るような気持で、どうにも話しができなかった。
「どうしたんだ、わけてえのはなんだ」
「――なに、たいしたことでは、ないさ」
「たいしたことでねえにしても、話しを聞かなくちあおちつかねえ、云って呉んねえな」
成信は蚊遣りの煙にむせて、咳をしながら脇へ向き、笑いながら、じつはわけもなにもない、あのときのでまかせだと云った。
「冗談じあねえ本当かいそれあ、本当になんにもわけあねえのかい」
「――いちどぐらいは、おれが煮炊きをして、伝九に喰べて貰いたかった、おまえにはずいぶんながいあいだ、世話になったから」
「やめたやめた、そんな水臭えこたあ聞きたくあねえ、おらあ横にならして貰うぜ」
伝九郎はそこへ寝ころび、手足をうーんと思いきり踏みのばした。――いつもそうして、その日の仕事場の出来ごとなどを話し、終りのほうは舌がもつれて、欠伸が欠伸につぐようになると、そのままそこで眠ってしまう。夜中になって気温の下るじぶん、成信が起して寝床へいれてやるのだが、その夜はいつもより早く、十時頃にはゆり起した。
「――さあ寝るんだ、風邪をひくぞ」
伝九郎は殆んど夢中のようで、這って夜具までゆくとそれなり、手足を投げだして眠りこけた。――成信はその寝姿を、やや暫らく見まもっていたが、裏庭の樹をわたる風の音を聞いて、われに返ったように立上った。――今だ、今ゆかぬと気が挫ける。
時が経つほどみれんが強くなる。朝までというつもりだったが。早いほうがまちがいなしと思い切って、なにもかもそのまま、立っていってすばやく身仕度をした。――袴をはき、刀を持てばよい、広縁のきしみを除けて、沓脱ぎの草履をさぐり当てた。そうして前庭へ出てゆくとたん、うしろから伝九郎の声がした。
「おめえいっちまうのか、信さん」
成信は身の竦む思いで立停った。
「おれを置いて、いっちまうのか」
「――伝九郎、堪忍して呉れ」成信は頭を垂れ、声をころして云った、「――おまえはこの土地でりっぱに生きてゆける、おれも生きたい、おれも武士として生きたくなった、おまえがおまえらしく生きるように、おれもおれらしく生きたくなったんだ、……世話になり放しで済まない、まことに済まないがおれをゆかせて呉れ」
「晩の飯はこのためだったんだな」伝九郎は広縁の柱を抱いたまま云った、「おらあ信さんといっしょにいたかった、一生ふたりで暮せると思ってたんだ、信さんと暮すようになってから、初めておらあ生きる張合ができ、世のなかが明るくみえてきた、ようやっと人間らしい気持になれたのに、――いまんなっておめえにいかれちまう、信さんてえものがいなくなる、……伝九が可哀そうだたあ、思っちあ呉れねえのか」
成信は夜の空をふり仰いだ、頭をはげしく左右に振り、きっぱりと力をこめて云った。
「――また会おう、伝九、人間にはそれぞれの道がある、おれはおれの道をゆくんだ、達者でいて呉れ、さらばだ」
成信は思いきって、大股にぐんぐん歩きだした。
「それじあ、いっちまうんだな、信さん」伝九郎の声がうしろから追って来た、「おらあもうとめねえよ、――どうかりっぱに出世して呉んな、……祈ってるからな、病まねえようにして、――いつか、もしできたら、会いに来て呉んな、信さん、おらあ待ってるぜ」
歯をくいしばり、耳をふさぐおもいで、成信はずんずん門の外へ出た。するとそこに誰かいてつくばった。
「お供をつかまつります」
鮫島平馬である、成信は頷ずいて、そのまま道を下っていった。
まだ西風が強く、夜空はちりばめたような星であった。
――信さん、いっちまうのか信さん。
成信の耳には伝九郎のかなしい声がいつまでも聞えていた。