「かね、いるか」六兵衛は帰宅するなり叫んだ、「来てくれ、旅支度だ」
兄の居間へはいって来た妹のかねは、大きななりをして帰るそうそう、めしの支度だなんてなにごとですか、と云った。
「めしではない旅支度だ」
いよいよそうか、とでも云いたげに、かねは冷たい眼で兄を見た。世間の嘲笑に耐えかねて、いよいよ退国する気になったのか、と思ったようである。
「そういそがなくともいいでしょう」とかねは云った、「片づけなければならない荷物だってあるし、それに」
「荷物なんぞいらない」六兵衛は妹の言葉を遮って云った、「肌着と下帯が二三あればいいんだ、いそいでくれ」
おちつかない手つきで袴をぬぎ、帯を解いている兄を見ながら、かねは心配そうに「なにかあったのか」ときいた。
「あったとも」と六兵衛が云った、「ながいあいだの汚名をすすぐときがきた、御上意の討手を仰せつけられたんだ」
これを見ろと云って、脇に置いてあった奉書の包みを取って渡した。その表には「上意討之趣意」とあり、中には仁藤昂軒の罪状と、討手役双子六兵衛に便宜を与えてくれるように、ということが藩公の名でしたためてあった。藩公の名には墨印と花押がしるされているし、宛名のところには「道次諸藩御老職中」と書いてあった。かねは顔色を変えた。
「仁藤とは」とかねは兄に問いかけた、「あのお抱え武芸者の仁藤五郎太夫という人のことですか」
「そうだ、それに書いてあるとおり」と六兵衛は裸になりながら答えた、「あの仁藤昂軒だ、着物を出してくれ」
「とんでもない」かねはふるえだした、「やめて下さいそんなばかなこと、あの人は剣術と槍の名人だというではありませんか」
六兵衛はそう聞くなり両手で耳を塞ぎ、悲鳴をあげるような声で「着物を出してくれ、旅支度をいそいでくれ」と叫び、風呂舎のほうへ走り去った。かねはそのあとを追ってゆき、やめて下さいと哀願した。相手は名人といわれる武芸者、あなたは剣術の稽古もろくにしたことがない。返り討になるのは知れきっているし、そうなれば双子の家名も絶えてしまうだろう。わたくしがいつも不平や泣き言を云うので、あなたはついそんな気持になったのだろうが、あなたに死なれるより、まだ臆病者と云われるほうがいい。すぐにお城へ戻って辞退して下さい、これからはわたくしも、決して泣き言やぐちはこぼさない、どうかぜひとも辞退しにいって下さい。かねは涙をこぼしながらそうくどいた。
風呂舎で水を浴びながら、六兵衛は「だめだ」と云った。
「これは私のためだ」と彼は云った、「おまえの泣き言でやけになったのではない、私も一生に一度ぐらいは、役に立つ人間だということを証明してみせたいんだ」
「お兄さまは殺されてしまいます」
「そうかもしれない、だがうまくゆくかもしれない」六兵衛は躯を拭きながら云った、「道場での試合ならべつだが、こういう勝負には運不運がある、仁藤昂軒は名人といわれ、自分の腕前を信じているが、私は臆病者だと自分で認めている、この違いは大きいんだぞ、かね、私はこの違いに賭けて、討手の役を願い出たんだ」
「お兄さまは殺されます」と云ってかねは泣きだした、「お兄さまはきっと、返り討になってしまいますわ」
「たとえそうなったとしても」六兵衛はふるえ声で云った、「この役は御上意という名目だから、断絶するようなことはない、私はないと思う、おまえに婿を取っても家名は立ててもらえるだろう、必ず家名は立つと私は信じている」
「わたくしが悪いんです」かねは咽び泣きながら云った、「みんなわたくしが悪かったからです、お兄さま、堪忍して下さい」
「さあ早く」と六兵衛が云った、「旅支度を揃えてくれ、泣くのはあとのことだ」
「偏耳録」によると、双子六兵衛は昂軒のあとを追って、三日めに追いついたという。ところは松任、町の手前の畷道にかかったとき、六兵衛は昂軒の姿をみつけた。背丈が高く、肩の張った骨太の、逞しい躯つきは、うしろからひとめ見ただけで、それとわかった。六兵衛はわれ知らず逃げ腰になり、口をあいて喘いだ。口をあかなければ喉が詰まって、呼吸ができなくなりそうだったからである。心臓は太鼓の乱打のように高鳴り、膝から下の力が抜けて、立っているのが精いっぱい、という感じだった。
「待て、おちつくんだ」と六兵衛は自分に囁きかけた、「まずおちつくのが肝心だ、向うはまだ気づかない、いまのところはそれだけが、こっちの勝ちみだからな」
彼は全身のふるえを抑えようとし、幾たびも唾をのみこもうとした。ふるえはおさまらないし、口はからからで、一滴の唾も出てこなかった。昂軒はゆっくりと遠ざかってゆく、大きな編笠をかぶっているが、その笠が少しも揺れないし、歩調は静かで、その一歩々々が尺で計ったように等間隔を保ってい、乾ききっている道だのに、足もとから埃の立つようすもなかった。
「武芸者もあのくらいになると」と六兵衛は呟いた、「あるきかたまで違うんだな」
彼は感じいったように首を振り、そろそろあるきだした。
昂軒は松任で宿をとった。六兵衛はそれを見さだめてから同じ宿に泊り、明くる朝、昂軒がでかけるのを待って、あとからその宿を立った。昂軒と同宿しているということで、六兵衛はおちおち眠ることができなかった。どうすれば討てるかと、いろいろと思案したけれども、これといううまい手段が思いうかばず、ともすると「荒神さま」という言葉にひっかかった。
「なにが荒神さまだ」と彼は昂軒のあとを跟けてゆきながら首をひねった、「こんなところへなんのために荒神さまが出てくるんだ」