← Library‹ ひとごろし 二

「かね、いるか」六兵衛ろくべえは帰宅きたくするなり叫さけんだ、「来きてくれ、旅たび支度したくだ」

兄あにの居間いまへはいって来きた妹いもうとのかねは、大おおきななりをして帰かえるそうそう、めしの支度したくだなんてなにごとですか、と云いった。

「めしではない旅たび支度したくだ」

いよいよそうか、とでも云いいたげに、かねは冷つめたい眼めで兄あにを見みた。世間せけんの嘲笑ちょうしょうに耐たえかねて、いよいよ退たい国くにする気きになったのか、と思おもったようである。

「そういそがなくともいいでしょう」とかねは云いった、「片かたづけなければならない荷物にもつだってあるし、それに」

「荷物にもつなんぞいらない」六兵衛ろくべえは妹いもうとの言葉ことばを遮さえぎって云いった、「肌着はだぎと下帯したおびが二に三さんあればいいんだ、いそいでくれ」

おちつかない手てつきで袴はかまをぬぎ、帯おびを解といている兄あにを見みながら、かねは心配しんぱいそうに「なにかあったのか」ときいた。

「あったとも」と六兵衛ろくべえが云いった、「ながいあいだの汚名おめいをすすぐときがきた、御ご上意じょういの討手うってを仰おおせつけられたんだ」

これを見みろと云いって、脇わきに置おいてあった奉書ほうしょの包つつみを取とって渡わたした。その表ひょうには「上意じょうい討うち之の趣意しゅい」とあり、中なかには仁藤にとう昂のぼる軒けんの罪状ざいじょうと、討手うって役やく双子ふたご六兵衛ろくべえに便宜べんぎを与あたえてくれるように、ということが藩公はんこうの名なでしたためてあった。藩公はんこうの名なには墨印ぼくいんと花押かおうがしるされているし、宛名あてなのところには「道どう次じ諸藩しょはん御ご老職ろうしょく中ちゅう」と書かいてあった。かねは顔色かおいろを変かえた。

「仁藤にとうとは」とかねは兄あにに問といかけた、「あのお抱かかえ武芸ぶげい者しゃの仁藤にとう五郎ごろう太夫たゆうという人ひとのことですか」

「そうだ、それに書かいてあるとおり」と六兵衛ろくべえは裸はだかになりながら答こたえた、「あの仁藤にとう昂のぼる軒けんだ、着物きものを出だしてくれ」

「とんでもない」かねはふるえだした、「やめて下くださいそんなばかなこと、あの人ひとは剣術けんじゅつと槍やりの名人めいじんだというではありませんか」

六兵衛ろくべえはそう聞きくなり両手りょうてで耳みみを塞ふさぎ、悲鳴ひめいをあげるような声こえで「着物きものを出だしてくれ、旅たび支度したくをいそいでくれ」と叫さけび、風呂舎ふろやのほうへ走はしり去さった。かねはそのあとを追おってゆき、やめて下くださいと哀願あいがんした。相手あいては名人めいじんといわれる武芸ぶげい者しゃ、あなたは剣術けんじゅつの稽古けいこもろくにしたことがない。返かえり討うちになるのは知しれきっているし、そうなれば双子ふたごの家名かめいも絶たえてしまうだろう。わたくしがいつも不平ふへいや泣なき言ごとを云いうので、あなたはついそんな気持きもちになったのだろうが、あなたに死しなれるより、まだ臆病おくびょう者しゃと云いわれるほうがいい。すぐにお城しろへ戻もどって辞退じたいして下ください、これからはわたくしも、決けっして泣なき言ごとやぐちはこぼさない、どうかぜひとも辞退じたいしにいって下ください。かねは涙なみだをこぼしながらそうくどいた。

風呂ふろ舎しゃで水みずを浴あびながら、六兵衛ろくべえは「だめだ」と云いった。

「これは私わたくしのためだ」と彼かれは云いった、「おまえの泣なき言ごとでやけになったのではない、私わたくしも一生いっしょうに一いち度どぐらいは、役やくに立たつ人間にんげんだということを証明しょうめいしてみせたいんだ」

「お兄あにさまは殺ころされてしまいます」

「そうかもしれない、だがうまくゆくかもしれない」六兵衛ろくべえは躯むくろを拭ふきながら云いった、「道場どうじょうでの試合しあいならべつだが、こういう勝負しょうぶには運うん不運ふうんがある、仁藤にとう昂のぼる軒けんは名人めいじんといわれ、自分じぶんの腕前うでまえを信しんじているが、私わたくしは臆病おくびょう者しゃだと自分じぶんで認みとめている、この違ちがいは大おおきいんだぞ、かね、私わたくしはこの違ちがいに賭かけて、討手うっての役やくを願ねがい出でたんだ」

「お兄あにさまは殺ころされます」と云いってかねは泣なきだした、「お兄あにさまはきっと、返かえり討うちになってしまいますわ」

「たとえそうなったとしても」六兵衛ろくべえはふるえ声ごえで云いった、「この役やくは御ご上意じょういという名目めいもくだから、断絶だんぜつするようなことはない、私わたくしはないと思おもう、おまえに婿むこを取とっても家名かめいは立たててもらえるだろう、必かならず家名かめいは立たつと私わたくしは信しんじている」

「わたくしが悪わるいんです」かねは咽むせび泣なきながら云いった、「みんなわたくしが悪わるかったからです、お兄あにさま、堪忍かんにんして下ください」

「さあ早はやく」と六兵衛ろくべえが云いった、「旅たび支度したくを揃そろえてくれ、泣なくのはあとのことだ」

「偏へん耳じ録ろく」によると、双子ふたご六兵衛ろくべえは昂のぼる軒けんのあとを追おって、三み日かめに追おいついたという。ところは松任まっとう、町まちの手前てまえの畷道なわてみちにかかったとき、六兵衛ろくべえは昂のぼる軒けんの姿すがたをみつけた。背丈せたけが高たかく、肩かたの張はった骨太ほねぶとの、逞たくましい躯むくろつきは、うしろからひとめ見みただけで、それとわかった。六兵衛ろくべえはわれ知しらず逃にげ腰ごしになり、口くちをあいて喘あえいだ。口くちをあかなければ喉のどが詰つまって、呼吸こきゅうができなくなりそうだったからである。心臓しんぞうは太鼓たいこの乱打らんだのように高鳴たかなり、膝ひざから下したの力ちからが抜ぬけて、立たっているのが精せいいっぱい、という感かんじだった。

「待まて、おちつくんだ」と六兵衛ろくべえは自分じぶんに囁ささやきかけた、「まずおちつくのが肝心かんじんだ、向むこうはまだ気きづかない、いまのところはそれだけが、こっちの勝かちみだからな」

彼かれは全身ぜんしんのふるえを抑おさえようとし、幾いくたびも唾つばをのみこもうとした。ふるえはおさまらないし、口くちはからからで、一いち滴てきの唾つばも出でてこなかった。昂のぼる軒けんはゆっくりと遠とおざかってゆく、大おおきな編笠あみがさをかぶっているが、その笠かさが少すこしも揺ゆれないし、歩調ほちょうは静しずかで、その一いち歩ほ々々が尺さしで計はかったように等とう間隔かんかくを保たもってい、乾かわききっている道みちだのに、足あしもとから埃ほこりの立たつようすもなかった。

「武芸ぶげい者しゃもあのくらいになると」と六兵衛ろくべえは呟つぶやいた、「あるきかたまで違ちがうんだな」

彼かれは感かんじいったように首くびを振ふり、そろそろあるきだした。

昂のぼる軒けんは松任まっとうで宿やどをとった。六兵衛ろくべえはそれを見みさだめてから同おなじ宿やどに泊とまり、明あくる朝あさ、昂のぼる軒けんがでかけるのを待まって、あとからその宿やどを立たった。昂のぼる軒けんと同宿どうしゅくしているということで、六兵衛ろくべえはおちおち眠ねむることができなかった。どうすれば討うてるかと、いろいろと思案しあんしたけれども、これといううまい手段しゅだんが思おもいうかばず、ともすると「荒神こうじんさま」という言葉ことばにひっかかった。

「なにが荒神こうじんさまだ」と彼かれは昂のぼる軒けんのあとを跟つけてゆきながら首くびをひねった、「こんなところへなんのために荒神こうじんさまが出でてくるんだ」

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