← Library‹ ひとごろし 三

荒神こうじんさまといえば、とにかく神かみであろう。神かみならなにごともみとおしな筈はずであるのに、窓まどから捨すてられる湯ゆや茶ちゃがよけられず、ひっかけられてから怒おこって罰ばつを当あてる、というのはだらしのないはなしである。荒神こうじんさまが本当ほんとうに、だらしのない神かみであるかどうかはわからないが、神かみでさえ、不意ふいに投なげ捨すてられた湯茶ゆちゃを避さけられないとすれば、人間にんげんである昂のぼる軒けんはなおさら避さけることができないだろう。六兵衛ろくべえのあたまの中なかで、無む意識いしきにそのことがちらちらしていたのであった。

「そうか、そんなことだったのか、ばかばかしい」と彼かれは高たかい空そらを見みあげたままで呟つぶやき、大おおきな溜息ためいきをついた、「――そうだとすれば、追おいかけている相手あいてにうしろから呼よびとめられるなんて、おれこそ荒神こうじんさまみたようなもんじゃないか、ふざけたはなしだ」

ふざけたようなはなしだ、と呟つぶやきながら、六兵衛ろくべえは自分じぶんのみじめさに涙なみだぐんだ。これからどうしよう、福井ふくいへは帰かえれないし、重職じゅうしょくから与あたえられた路銀ろぎんには限かぎりがある。どこか知しらない土地とちへいって、人足にんそくにでもなってやろうか、――そんなふうに思おもいあぐねていると、くに訛なまりのつよい言葉ことばで、人ひとの話はなしあう声こえが聞きこえてきた。

「人殺ひとごろしだって、ほんとか」と一人ひとりの声こえが云いった、「それで、誰だれか殺ころされたのか」

「うまく逃にげた」と他ほかの声こえが云いった、「お侍さむらいだったがうまく逃にげた、逃にげたほうが勝かちよ、相手あいてはおめえ鬼おにのような凄すごい浪人ろうにん者しゃで、十じゅう人にんや二十にじゅう人にんは殺ころしたような面構つらがまえをしていた、嘘うそじゃねえ、往来おうらいの衆しゅうもみんなふるえあがって、てんでんばらばら逃にげだしたもんだ」

「ふーん」と初はじめの声こえが云いった、「おら、これから御ご城下じょうかまでゆくつもりだが、その浪人ろうにん者しゃはまだいるだかえ」

「いまごろは笠松かさまつの土橋どばしあたりかな」と片方かたほうの声こえが云いった、「御ご城下じょうかへゆくのは一いち本道ほんどうだ、危あぶねえからよしたほうがいいぞ」

そういうことならいそぐ用ようでもないから、今日きょうはここから帰かえることにしよう、と初はじめの男おとこの声こえが云いい、その二人ふたりの話はなし声ごえは遠とおのいていった。街道かいどうでゆき会あった百姓ひゃくしょうたちであろう、あたりが静しずかだから、ここまで聞きこえてきたのだろうが、十じゅう人にんや二十にじゅう人にんは殺ころしたような面構つらがまえ、という言葉ことばは、六兵衛ろくべえの耳みみに突つき刺ささり、改あらためてぞっと身みぶるいにおそわれた。

「だが、待まてよ」暫しばらくして彼かれはそう呟つぶやき、高たかい空そらの一いち点てんに眼めを凝こらした、「だが待まて、ちょっと待まて、なにかありそうだぞ、よく考かんがえてみよう」

彼かれの顔かおは仮面かめんのように強こわばり、呼吸こきゅうが静しずかに深ふかくなった。彼かれは荒神こうじんさまを押おしのけた。隙すきを覘ねらうという策さくはだめだ、現げんにそれは失敗しっぱいし、なさけないほどみじめなざまをさらしてしまった。とすれば、この失敗しっぱいを逆ぎゃくに利用りようしたらどうか、「人殺ひとごろし」という叫さけびを聞きいて、土地とちの者ものが恐おそれ惑まどった。いま街道かいどうで話はなしていた百姓ひゃくしょうも、城下じょうかまで用ようがあって来きたのに、そういう浪人ろうにん者しゃがいると聞きき、用事ようじを捨すてて引返ひきかえした。話はなしを聞きいただけで引返ひきかえした。聞きいただけで、ただ話はなしを聞きいただけで。

「そうか」と呟つぶやいて彼かれは上じょう半身はんしんを起おこした、「おれは臆病おくびょう者しゃだ、世間せけんには肝きもの坐すわった名人めいじん上手かみてよりも、おれやあの百姓ひゃくしょうたちのような、肝きもの小ちいさい臆病おくびょうな人間にんげんのほうが多おおいだろう、とすれば」

そうだとすれば、と呟つぶやいて彼かれは微笑びしょうし、「とすれば」という言葉ことばをこれでもう三さん度ども口くちにした、と自分じぶんを非難ひなんし、口くちをあいて、声こえを出ださずに笑わらった。

「その手てだ」と彼かれは笑わらいやんで呟つぶやいた、「おれの臆病おくびょう者しゃはかくれもない事実じじつだからな、いまさら人ひとの評判ひょうばんを気きにする必要ひつようはない、よし、この手てでゆこう」

双子ふたご六兵衛ろくべえは立たちあがり、旅嚢りょのうを肩かたに、笠かさをかぶって松林まつばやしから出でていった。仁藤にとう昂のぼる軒けんはもうそこを通とおり過すぎていたが、大おおきな編笠あみがさと、際立きわだって逞たくましいうしろ姿すがたは、六兵衛ろくべえの眼めにすぐそれと判別はんべつすることができた。六兵衛ろくべえはいそぎ足あしに追おってゆき、二十にじゅう間けんばかり手前てまえで足あしをゆるめた。

「よしよし、そんなふうに威張いばっていろ」と六兵衛ろくべえは昂のぼる軒けんのうしろ姿すがたに向むかって呟つぶやいた、「威張いばっているのもいまのうちだからな、――いまにみていろよ」

稲田いなだにはさまれた道みちの右側みぎがわに、小高こだかくまるい塚つかのようなものがあり、そこだけひと固かたまりに松林まつばやしが陽蔭ひかげをつくってい、その陽ひ蔭かげに小ちいさな掛かけ茶屋ちゃやがあった。あの茶店ちゃみせへはいるなと、六兵衛ろくべえは思おもった。昂のぼる軒けんはその茶店ちゃみせへはいり、笠かさをぬぎ旅嚢りょのうを置おいて腰掛こしかけに掛かけて汗あせをぬぐった。六兵衛ろくべえはそれを見みさだめてから、十じゅう間けんほどこっちで立停たちどまり、大おおきな声こえで叫さけびたてた。

「ひとごろし」と彼かれは叫さけんだ、「その男おとこはひとごろしだぞ、越前えちぜん福井ふくいで人ひとを斬きり殺ころして逃にげて来きたんだ、いつまた人ひとを殺ころすかわからない、危あぶないぞ」

六兵衛ろくべえは三さん度ども続つづけて同おなじことを叫さけんだ。小説しょうせつとしてはここが厄介やっかいなことになる。その叫さけびを聞きいて昂のぼる軒けんが立たちあがるのと同時どうじに、茶店ちゃみせの裏うらから腰こしの曲まがった老婆ろうばと、四十よんじゅうがらみの女房にょうぼうがとびだし、小高こだかくまるい塚つかのような、円丘えんきゅうのほうへ逃にげてゆくのが見みえた。

「黙だまれ」と昂のぼる軒けんが喚わめき返かえした、「おれにはおれの意趣いしゅがあって加納かのうを斬きった、おれは逃にげも隠かくれもしない、北国きたぐに街道かいどうをとって江戸えどへゆくと云いい残のこした、討手うってのかかるのは承知しょうちのうえだ、きさまが討手うってならかかって来こい、勝負しょうぶだ」

六兵衛ろくべえはあとじさりながらどなった、「そううまくはいかない、勝負しょうぶだなんて、斬きりあいをすればそっちが勝かつにきまっているさ、私わたくしは私わたくしのやりかたでやる、この、ひとごろし」

「卑怯者ひきょうもの」と昂のぼる軒けんは喚わめき返かえした、「それでもきさまは討手うってか、勝負しょうぶをしろ」

昂のぼる軒けんは大股おおまたにこっちへあるいて来き、六兵衛ろくべえはすばやくうしろへ逃にげた。逃にげながら「ひとごろし」と叫さけんだ。その男おとこは人殺ひとごろしである、側がわへ寄よるな、いつまた人ひとを殺ころすかもしれない、危あぶないぞと、繰返くりかえし叫さけびたてた。道みちには往来おうらいの旅人たびびとや、ところの者ものらしい男女だんじょがちらほら見みえたが、六兵衛ろくべえの叫さけびを聞きき、昂のぼる軒けんのぬきんでた逞たくましい容姿ようしを見みると、北きたから来きた者ものは北きたへ、南みなみから来きた者ものは南みなみへと、みな恐おそろしそうに逃にげ戻もどっていった。昂のぼる軒けんは「勝負しょうぶをしろ」といって近ちかづいて来き、六兵衛ろくべえは「ひとごろし」と叫さけびながらあとじさりをした。

「卑怯ひきょう者しゃ」と昂のぼる軒けんは顔かおを赤あかくしながら喚わめきかけた、「きさまそれでも侍かしずか、きさまそれでも福井ふくい藩はんの討手うってか」

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