おようは番頭に、あとのことを一切任せ、旅支度で六兵衛といっしょに高岡を立った。土地では古い宿とみえ、旅切手もすぐ手にはいったし、旅費の金もたっぷり用意したらしい。
そんなことよりも「お手伝い」というのがさらに現実的であり、大きな効果をあげた。これまでは六兵衛ひとりで追い詰めて来たのだが、高岡からはおようという交代者ができたのだ。
すなわち、六兵衛が休んだり眠ったりしているとき、おようが代って「ひとごろし」と叫びたてるのである。
「その侍は人殺しです」と彼女は昂軒を指さして叫ぶ、「越前の福井で人を殺して逃げたんです、いつまた暴れだして人を殺すかもしれません、みなさん用心して下さい」
そうして充分に休息し、眠りたいだけ眠った六兵衛が、おように代るという仕組であった。これは昂軒にとって大打撃であった。
彼は掛け茶屋にも寄れず、宿屋でゆっくり眠ることもできなかった。
「ひとごろし」という叫びを聞くと、茶店の者は逃げてしまうし、宿屋でも相手にしない。客が満員だからとか、食事の給仕をする者もろくにない。
泊り客たちが逃げだすのはいうまでもないし、宿の者や雇人たちも近よろうとしないのであった。こちらの二人はゆうゆうとしていた。
「あたし本当のことを云うわ」おようは娘らしいしなをつくりながら云った、「あたしの本当の名はおとらっていうんです、兄が一人、姉が一人、小さいときに死んだものですから、この子は丈夫に育つようにって付けたんですって」
「よくあるはなしですよ」
「だっていやだわ、おとらだなんて」おようは鼻柱に皺をよせた、「ですからあたし、自分で名を選びましたの、初めに付けたのがおゆみ、それも気にいらなくって次ははな、それからせき、去年まではさよっていってましたの」
「そしておようさんですか」
「昔のお友達に同じ名の、しとやかで温和しい人がいたんです」
「しとやかで温和しいとね」
「いやだわ」おようは赤くなった、「そういうお友達がいたって云っただけですのよ」
その他もろもろのことで、二人の話はしだいにやわらかく、親密になっていったが、六兵衛がそんなことで役目を忘れた、などとは思わないでいただきたい。現に富山城下へ着いたときのことだが、昂軒が宿屋へはいろうとするのを見て、当番だった六兵衛が、例のとおり喚きだし、宿の前はこわいもの見たさの群集が、遠巻きに集まって来た。すると、町方与力とみえる中年の侍が、同心らしい二人の男をつれてあらわれ、六兵衛の前に立ちはだかった。
「ここは松平淡路守さま十万石の御城下である」とその中年の侍が云った、「かような時刻に町なかで、ひとごろしなどと叫びたて、往来の者を威し騒ぎを起こすとは不届きなやつだ、役所まで同行しろ」
越前の言葉も訛りがひどい。
だが富山の言葉はもっと訛りがひどいので、正確なところは解釈しにくかったけれども、大体な意味だけは推察することができた。
そこで六兵衛は事情のあらましを語り、上意討趣意書を出して、その中年の侍に読ませた。
「これはこれは」とその中年の侍は読み終って封へ入れてから、三拝して趣意書を彼に返し、これはまことに御無礼と、急に態度を改めた、「かような仔細があるとは少しも知らず、失礼をつかまつった」
その中年の侍は古風な育ちとみえ、道にころがっている石ころのように古くさい、きまり文句でながながと詫び言を並べ、自分の思い違いを悔やんだ。六兵衛にはその半分もわからず、この男は正真正銘の田舎侍だな、などと思いながら聞いていた。
「かように仔細がわかった以上」と中年の侍は続けた、「わが藩としても拱手傍観はできません、すぐさま奉行所の人数を繰出して、この宿の見張りをさせましょう、あなたはゆっくり休息して下さい、その武芸者になにかあったら即刻お知らせをします、宿はこの向うの田川がいいでしょう」
宿賃の心配は無用、ほかになにか希望があったら、それも聞いておきましょうと、念のいった親切ぶりをみせた。
「あなたにうかがいたいことがあるんだけれど」と、田川屋へ泊ってからおようが云った、「こんなことうかがうのは失礼かしら」
宿帳にはこれまでどおり兄妹と書いたので、二人は八帖の座敷に夜具を並べて寝ていた。
「聞いてみなければわからないな」と六兵衛は答えた、「――尤も、なにをきかれるかはおよそ見当がつくけれどね」
「あらほんと」おようは枕の上で頭をこっちに向け、つぶらな眼をみはった、「そんならなにをきくと思って」
「うう」と彼はあいまいな声をだし、それから溜息をついて云った、「たぶん私には、上意討ができないだろう、ということじゃないかな」
「そのことなら心配はしていません」
こんどは六兵衛が振り向いた。
「ええそうよ」とおようは彼に微笑してみせた、女が心から信頼する男にだけしか見せないような、匂やかな微笑であった、「昂軒っていうんですか、あの人はもう疲れきって、身も心もくたくたになっています、いまならあたしにだってやっつけられますわ」
「そうはいかない、武芸の名人ともなれば、いざという場合になると吃驚するように変るものだ、吃驚するようにね」と云って六兵衛は深い太息をついた、「――あいつを仕止めるには、まだ相当に日数がかかるよ」
「あたしがうかがいたいのはそんなことではないんです」とおようが云った、「思いきって云いますけれど、はしたない女だと思わないで下さい」
彼は「そんなことは思わない」と答えた。肝心の話にはいるまでの男女の問答は、およそ紋切り型であるし、退屈至極なものときまっているようだ。そこでその部分をはしょって、本題にはいることにしよう。
「あなたにはもう奥さまがいらっしゃるんですか」とおようがきいた。
「私にですか」と六兵衛はおどろいたように問い返した、「私が隠れもない臆病者だということは、初めての晩に話した筈です、そのため妹は二十一にもなるのに縁談もない、そんな人間のところへ来るような嫁がありますか」
「では結婚なすったことは一度もないんですのね」
六兵衛は黙って頷いた。
「でも」とおようは疑わしげにきいた、「お好きな方の二人や三人はいらっしゃるんでしょう」