← Library‹ 日日平安 十

正ただしく、菅田すがた平野へいやの策戦さくせんは成功せいこうした。

光明こうみょう寺じへ討手うってを出だしたために、黒くろ藤ふじ邸ていの人数にんずうがごく少すくなかったのと、その少すくない人数にんずうが火事かじを消けすのに夢中むちゅうで、井坂いさからの侵入しんにゅうに気きづかなかったのとで、勝敗しょうはいは瞬時しゅんじに決定けっていしたようなものであった。

火事かじは部屋へや二ふたつと屋根やねの一部いちぶを焼やいただけで消けされた。三さん老職ろうしょくは一室いっしつに監禁かんきんし、陸田りくでん精兵せいへい衛まもるは土蔵どぞうの中なかから救すくい出だされた。光明こうみょう寺じへいった討手うってに対たいしては武者押むしゃおし(演習えんしゅう)という触出ふれだしで、鉄炮てっぽう組くみ、槍組やりぐみ、徒士組かちぐみの人数にんずうをすぐに差向さしむけ、かれら三十さんじゅう余よ騎きの引返ひきかえして来くるところを、石いし鉢山はちやまの切通きりどおしで捕とらえた。この指揮しきには寺田てらだ兄弟きょうだいと島口しまぐち存あり平たいら、守島もりしま仲太なかのろらの四よん人にんが当あたった。

この「武者むしゃ押おし」の手配てはいも菅田すがた平野へいやの建策けんさくであったが、彼かれの仕事しごとはそれで完了かんりょうしたといってもよかった。十郎太じゅうろうたが彼かれを陸田りくでん老ろうにひきあわせたとき、彼かれは謙遜けんそんで品位ひんいのある態度たいどを示しめした。

「いや私わたくしの力ちからではございません」と菅田すがた平野へいやは云いった、「井坂いさかさんたち御ご一同いちどうの団結だんけつした力ちからと、幸運こううんに恵めぐまれたおかげです、私わたくしの策戦さくせんなど取とるに足たらぬものでございます」

それから彼かれは、泥どろまみれの燧ひきり袋ふくろを、十郎太じゅうろうたに返かえした。十郎太じゅうろうたは不審ふしんそうに、それを指ゆびで摘つんで受取うけとった。

「拝借はいしゃくした燧ひきり袋ふくろです」と菅田すがた平野へいやは云いった、「――よごしたままで失礼しつれいですが、勘弁かんべんして下ください」

黒くろ藤ふじ邸ていを閉鎖へいさして、家士かし小者こものには禁足きんそくを命めいじた。仲島なかじま、前林まえばやしらの居宅きょたくにもそれぞれ手配てはいをし、三さん老職ろうしょくは城中じょうちゅうへ護送ごそうした。こうして、さて陸田りくでん精兵せいへい衛まもるらが屋敷やしきへひきあげようとしたとき、みんなは菅田すがた平野へいやのいないことに気きがついた。手分てわけをして邸内ていないを捜さがしてみたが、彼かれはどこにもいなかった。

「どうしたんだ」十郎太じゅうろうたはあっけにとられて云いった、「――いったいこれはどうしたことだ」

十郎太じゅうろうたは茫然ぼうぜんと、雨空あまぞらの向むこうへ眼めをやった。

菅田すがた平野へいやは脱走だっそうしたのであった。

彼かれは雨あめの中なかをしょんぼりと歩あるいていた。江戸えどへゆく道みちとは反対はんたいの方向ほうこうへ向むかって、――彼かれは黒くろ藤ふじ邸ていの庭にわで(いちど捨すてた)あのやぶれ傘かさをさしていた。片方かたほうの手てには泥どろまみれで空からっぽの旅嚢りょのうをさげ、足あしにはやはり黒くろ藤ふじ邸ていでつっかけて来きた、ちびた古こ下駄げたをはいていた。

彼かれは疲つかれているうえに、ひどく空腹くうふくで、おまけに眠ねむかった。

「これは虚栄きょえい心しんだかもしれない」歩あるきながら彼かれはつぶやく、「――本当ほんとうは虚栄きょえい心しんか、偽善ぎぜんかもしれない、おれはそうではないと思おもう、おれはそんなふうには思おもいたくない、あの燧ひきり袋ふくろ、泥どろまみれの燧ひきり袋ふくろを拾ひろって返かえしたとき、こんな気持きもちになったのだ、あれを井坂いさかに返かえしたとき、井坂いさかがいぶかしそうな顔かおをして、二に本ほんの指ゆびで摘つんで受取うけとったとき、おれの中なかでなにかが起おこった、なにかが、……ちょっと口くちには云いえないが、ともかく逃にげだすのは今いまだ、たったいまここから逃にげだせ、という気持きもちだった」

彼かれの腹はらの中なかで妙みょうな音おとがした、その音おとがなにを意味いみするかは知しる者ものぞ知しるであろう、彼かれはなさけないような顔かおをして、ぐっと生唾なまつばをのんだ。

「いや虚栄きょえい心しんじゃない、これは虚栄きょえいや偽善ぎぜんじゃあない、良心りょうしんの問題もんだいだかもしれない」と菅田すがた平野へいやは続つづけた、「――おれは恥はずかしいような、照てれくさいような気持きもちになった、そこがふしぎなんだが、いや、おれにはふしぎでもなんでもない、このへぼ頭あたまから絞しぼりだした策戦さくせんが、あんなにみごとに成功せいこうしたということは恥はずかしい、策戦さくせんをたて、自分じぶんが行動こうどうしているあいだはよかった、心身しんしんとも爽快そうかいに緊張きんちょうしていたが、策戦さくせんが完全かんぜんに成功せいこうし、一ひとつの齟齬そごもなくすべてが完了かんりょうしたとき、そうだ、おれは索寞さくばくと恥はずかしくなり、いたたまれなくなった……どうしてそこにいられるか、事ことが完了かんりょうした以上いじょうおれは余計よけいな人間にんげんじゃないか、あとは、そうだ、はっきり云いおう、あとはおれの功績こうせきが計算けいさんされる番ばんだ、おれはそれを願ねがっていなかったろうか、おれは初はじめからそれを願ねがっていた、おれは初はじめにこの蔓つるは放はなさないぞと思おもった、おれはその蔓つるをものにして仕官しかんするつもりだった、万事ばんじが完了かんりょうしたとき、それがはっきりと浮うきあがってきたんだ、……となれば、おれの良心りょうしんとしてそこにいられる道理どうりがない、これは侍さむらいの良心りょうしんの問題もんだいだ」

疲つかれきって、空腹くうふくで、死しぬほど眠ねむいにも拘かかわらず、菅田すがた平野へいやは高邁こうまいな感情かんじょうに包つつまれていた。精神せいしんもすがすがしく、爽さわやかであった。もっとも腹はらの中なかのことはべつである。腹はらの中なかでは(もうずっとまえから)まったく違ちがう声こえが彼かれを非難ひなんしていた。

「くうくうくうこの虚栄きょえい心しんの強つよい偽善ぎぜん者しゃめ」とその声こえは云いうのであった。「きさま空腹くうふくのあまり切腹せっぷくのまねまでしたじゃないか、なにが侍さむらいの良心りょうしんだ、きさまは充分じゅうぶんに役立やくだったし、仕官しかんは確実かくじつに眼めの前まえにあった、くうっ、くうっ、さあ戻もどれ、すぐ十郎太じゅうろうたのところへ戻もどれ、仕官しかんするのが照てれくさいのなら約束やくそくの金かねだけでも借かりろ、あの男おとこの紙入かみいれの中なかにはおまえに約束やくそくした金かねがあるんだ、さあ戻もどってゆけ」

「頼たのむから戻もどってくれ、お願ねがいだから」と腹はらの中なかの声こえは続つづけるのであった、「こんなに空腹くうふくで無む一物いちもつでどうするんだ、おれはいやだぞ、こんなに腹はらぺこでなにが高邁こうまいだ、おれはいやだ、いやだいやだいやだ、やいこの……なにか食くわせろ、やいなにか食くわせろ」

菅田すがた平野へいやは唇くちびるを曲まげて立停たちどまった。頬ほおが痒かゆいので手てで擦すると、乾かわいた泥どろがぽろぽろと落おちた。彼かれは自分じぶんの躯むくろを眺ながめまわし、半なかば乾かわいた泥どろまみれの、古ふるびて継つぎはぎだらけの着物きものや袴はかまを見み、やはり泥どろだらけの素足すあしにはいた、古こ下駄げたを見みた。

腹はらの中なかでまた鳴音おんがした。それは馬蹄ばていの音おとのようであった。菅田すがた平野へいやはどきりとした、彼かれの名なを呼よぶ声こえが聞きこえるのである、腹はらの中なかの鳴音おんから馬蹄ばていの音おとが分離ぶんりし、彼かれの名なを呼よぶ声こえがはっきり聞きこえたからだ。

彼かれはどきりとしながら振返ふりかえった。

井坂いさか十郎太じゅうろうたが馬うまをとばして来きた。笠かさも合羽かっぱも着きず、鞭むちをあげてけんめいにとばして来きた。馬蹄ばていのあげる雨水あまみずのしぶきが、そのときほど爽快そうかいに、またたのもしくみえたこと(菅田すがた平野へいやにとって)はなかった。

「どうか戻もどって下ください、菅田すがたさん」

乗のりつけた馬うまからとびおりると、井坂いさか十郎太じゅうろうたは懇願こんがんするように云いった。

「いやわかっています」と十郎太じゅうろうたは息いきをはずませながら云いった、「貴方あなたがどうして立去たちさられたか、私わたくしにはよくわかっています、しかしそれはいけません、貴方あなたのお気持きもちはあっぱれだが、それでは私わたくしどもが困こまるのです」

「――貴方あなたがたがお困こまりになる」

「伯父おじにどなられたのです」と十郎太じゅうろうたが云いった、「こんどの事ことで、貴方あなたに藩はんの内紛ないふんを知しられてしまった、藩はんの内紛ないふんを知しられたからには、このまま菅田すがたさんをよそへやるわけにはいかない、ぜひ戻もどって任官にんかんされるか、客分きゃくぶんとして留とまってもらわなければならない、すぐ手分てわけをして追おいつけと云いわれたのです」

菅田すがた平野へいやは心こころの中なかでわれ知しらず叫さけんだ。

――有難ありがたい、これで堂々どうどうと帰かえれるぞ。

だが、彼かれはできるだけ渋しぶい顔かおをして頷うなずいた。

「なるほど、それは仰おっしゃるとおりかもしれませんな」

「戻もどってくれますか」

「やむを得えません」と菅田すがた平野へいやは云いった、「――御ご藩はんの平安へいあんのためですから戻もどりましょう」

そしてつい知しらずおじぎをし、十郎太じゅうろうたを見みて、もうがまんしきれずに笑わらいながら云いった。

「どうも有難ありがとう」

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