正しく、菅田平野の策戦は成功した。
光明寺へ討手を出したために、黒藤邸の人数がごく少なかったのと、その少ない人数が火事を消すのに夢中で、井坂らの侵入に気づかなかったのとで、勝敗は瞬時に決定したようなものであった。
火事は部屋二つと屋根の一部を焼いただけで消された。三老職は一室に監禁し、陸田精兵衛は土蔵の中から救い出された。光明寺へいった討手に対しては武者押(演習)という触出しで、鉄炮組、槍組、徒士組の人数をすぐに差向け、かれら三十余騎の引返して来るところを、石鉢山の切通しで捕えた。この指揮には寺田兄弟と島口存平、守島仲太らの四人が当った。
この「武者押」の手配も菅田平野の建策であったが、彼の仕事はそれで完了したといってもよかった。十郎太が彼を陸田老にひきあわせたとき、彼は謙遜で品位のある態度を示した。
「いや私の力ではございません」と菅田平野は云った、「井坂さんたち御一同の団結した力と、幸運に恵まれたおかげです、私の策戦など取るに足らぬものでございます」
それから彼は、泥まみれの燧袋を、十郎太に返した。十郎太は不審そうに、それを指で摘んで受取った。
「拝借した燧袋です」と菅田平野は云った、「――よごしたままで失礼ですが、勘弁して下さい」
黒藤邸を閉鎖して、家士小者には禁足を命じた。仲島、前林らの居宅にもそれぞれ手配をし、三老職は城中へ護送した。こうして、さて陸田精兵衛らが屋敷へひきあげようとしたとき、みんなは菅田平野のいないことに気がついた。手分けをして邸内を捜してみたが、彼はどこにもいなかった。
「どうしたんだ」十郎太はあっけにとられて云った、「――いったいこれはどうしたことだ」
十郎太は茫然と、雨空の向うへ眼をやった。
菅田平野は脱走したのであった。
彼は雨の中をしょんぼりと歩いていた。江戸へゆく道とは反対の方向へ向って、――彼は黒藤邸の庭で(いちど捨てた)あのやぶれ傘をさしていた。片方の手には泥まみれで空っぽの旅嚢をさげ、足にはやはり黒藤邸でつっかけて来た、ちびた古下駄をはいていた。
彼は疲れているうえに、ひどく空腹で、おまけに眠かった。
「これは虚栄心だかもしれない」歩きながら彼はつぶやく、「――本当は虚栄心か、偽善かもしれない、おれはそうではないと思う、おれはそんなふうには思いたくない、あの燧袋、泥まみれの燧袋を拾って返したとき、こんな気持になったのだ、あれを井坂に返したとき、井坂がいぶかしそうな顔をして、二本の指で摘んで受取ったとき、おれの中でなにかが起こった、なにかが、……ちょっと口には云えないが、ともかく逃げだすのは今だ、たったいまここから逃げだせ、という気持だった」
彼の腹の中で妙な音がした、その音がなにを意味するかは知る者ぞ知るであろう、彼はなさけないような顔をして、ぐっと生唾をのんだ。
「いや虚栄心じゃない、これは虚栄や偽善じゃあない、良心の問題だかもしれない」と菅田平野は続けた、「――おれは恥ずかしいような、照れくさいような気持になった、そこがふしぎなんだが、いや、おれにはふしぎでもなんでもない、このへぼ頭から絞りだした策戦が、あんなにみごとに成功したということは恥ずかしい、策戦をたて、自分が行動しているあいだはよかった、心身とも爽快に緊張していたが、策戦が完全に成功し、一つの齟齬もなくすべてが完了したとき、そうだ、おれは索寞と恥ずかしくなり、いたたまれなくなった……どうしてそこにいられるか、事が完了した以上おれは余計な人間じゃないか、あとは、そうだ、はっきり云おう、あとはおれの功績が計算される番だ、おれはそれを願っていなかったろうか、おれは初めからそれを願っていた、おれは初めにこの蔓は放さないぞと思った、おれはその蔓をものにして仕官するつもりだった、万事が完了したとき、それがはっきりと浮きあがってきたんだ、……となれば、おれの良心としてそこにいられる道理がない、これは侍の良心の問題だ」
疲れきって、空腹で、死ぬほど眠いにも拘らず、菅田平野は高邁な感情に包まれていた。精神もすがすがしく、爽やかであった。もっとも腹の中のことはべつである。腹の中では(もうずっとまえから)まったく違う声が彼を非難していた。
「くうくうくうこの虚栄心の強い偽善者め」とその声は云うのであった。「きさま空腹のあまり切腹のまねまでしたじゃないか、なにが侍の良心だ、きさまは充分に役立ったし、仕官は確実に眼の前にあった、くうっ、くうっ、さあ戻れ、すぐ十郎太のところへ戻れ、仕官するのが照れくさいのなら約束の金だけでも借りろ、あの男の紙入の中にはおまえに約束した金があるんだ、さあ戻ってゆけ」
「頼むから戻ってくれ、お願いだから」と腹の中の声は続けるのであった、「こんなに空腹で無一物でどうするんだ、おれはいやだぞ、こんなに腹ぺこでなにが高邁だ、おれはいやだ、いやだいやだいやだ、やいこの……なにか食わせろ、やいなにか食わせろ」
菅田平野は唇を曲げて立停った。頬が痒いので手で擦ると、乾いた泥がぽろぽろと落ちた。彼は自分の躯を眺めまわし、半ば乾いた泥まみれの、古びて継ぎはぎだらけの着物や袴を見、やはり泥だらけの素足にはいた、古下駄を見た。
腹の中でまた鳴音がした。それは馬蹄の音のようであった。菅田平野はどきりとした、彼の名を呼ぶ声が聞えるのである、腹の中の鳴音から馬蹄の音が分離し、彼の名を呼ぶ声がはっきり聞えたからだ。
彼はどきりとしながら振返った。
井坂十郎太が馬をとばして来た。笠も合羽も着ず、鞭をあげてけんめいにとばして来た。馬蹄のあげる雨水のしぶきが、そのときほど爽快に、またたのもしくみえたこと(菅田平野にとって)はなかった。
「どうか戻って下さい、菅田さん」
乗りつけた馬からとびおりると、井坂十郎太は懇願するように云った。
「いやわかっています」と十郎太は息をはずませながら云った、「貴方がどうして立去られたか、私にはよくわかっています、しかしそれはいけません、貴方のお気持はあっぱれだが、それでは私どもが困るのです」
「――貴方がたがお困りになる」
「伯父にどなられたのです」と十郎太が云った、「こんどの事で、貴方に藩の内紛を知られてしまった、藩の内紛を知られたからには、このまま菅田さんをよそへやるわけにはいかない、ぜひ戻って任官されるか、客分として留まってもらわなければならない、すぐ手分けをして追いつけと云われたのです」
菅田平野は心の中でわれ知らず叫んだ。
――有難い、これで堂々と帰れるぞ。
だが、彼はできるだけ渋い顔をして頷いた。
「なるほど、それは仰しゃるとおりかもしれませんな」
「戻ってくれますか」
「やむを得ません」と菅田平野は云った、「――御藩の平安のためですから戻りましょう」
そしてつい知らずおじぎをし、十郎太を見て、もうがまんしきれずに笑いながら云った。
「どうも有難う」