← Library‹ 日日平安 七

「ええもちろんよ、お母ははさま」千鳥ちどりは頷うなずいた、(向むこうでまた十郎太じゅうろうたが咳せきをしたが)彼女かのじょは続つづけた、「わたくし一人ひとりでなんか来こられやしませんわ、いつでもつれて来きて頂いただきますの、いちどなんかわたくしじゅろうさまのお腕うでを枕まくらにして、ほんとに眠ねむってしまったことがありますわ」

「まああきれた、あなたそうして起おこされるまでおよってらしたんでしょ」

「いいえお母ははさま、まさかいくら千鳥ちどりだって」

菅田すがた平野へいやは戸惑とまどいをした。母親ははおやも娘むすめものんびりしたものである。この切迫せっぱくした状態じょうたいのなかで、男性だんせいと二人ふたりきりで乾ほし草くさ小屋こやへ隠かくれたなどと、平気へいきで告白こくはくする娘むすめも娘むすめだし、それを聞きいてそう驚おどろきもせず、かくべつ叱しかろうともしない母ははも母ははである。――育そだちが違ちがうんだな、と菅田すがた平野へいやは思おもった。これはのんびりどころではない、むしろみやびた趣おもむきというのだろう。

――これは一家いっかそろって日日にちにち平安へいあんだ。

菅田すがた平野へいやは心こころの中なかでそうつぶやいた。

母娘ははこの対話たいわは、帰かえって来きた寺田てらだたちによって中断ちゅうだんされた。かれらはやや強つよい降ふりになった雨あめの中なかを、首尾しゅびよく捕とらえた正門せいもんの二人ふたりを曳ひいて戻もどった。用心ようじんのためあとへ保川英之助えいのすけを残のこしたそうであるが、これで邸内ていないにいた敵てきの見張みはりは全部ぜんぶ押おさえたわけで、七しち人にんのうち一人ひとりは前まえ林家はやしやの小者こもの、他たの六ろく人にんはみな黒くろ藤ふじ源太夫げんだゆうの家士かしであった。――菅田すがた平野へいやは密告みっこく書しょを書かくために、料紙りょうしをひろげながら「みんなの集あつまる(仮定かていの)場所ばしょはどこにするか」と訊きいた。あまり遠とおくても近ちかくてもいけない、城下じょうか町ちょうからほぼ一いち里りくらいの距離きょりで、なるべくなら寺てらがいい。こういう条件じょうけんで十郎太じゅうろうたと寺田てらだ文治ぶんじが相談そうだんし、大里おおさと村むらの光明こうみょう寺じがよかろうということになった。

「光明こうみょう寺じなら約やく一いち里り」と十郎太じゅうろうたが云いった、「昨日きのう私わたくしたちの通かよって来きた、石いし鉢山はちやまの向むこうです」

菅田すがた平野へいやは書かきはじめた。

十郎太じゅうろうたは押籠おしこめられている家士かしたちを解放かいほうしにゆき、こいそは(やはり禁足きんそくされている)小者こものや召使めしつかいたちに知しらせて、朝食ちょうしょくの支度したくをさせるために出でていった。寺田てらだたち四よん人にんは、捕虜ほりょを一人ひとりずつ責せめて、陸田りくでん精兵せいへい衛の所在しょざいを自白じはくさせようとした。だが、かれらはまったく知しらないもようであった。自分じぶんたちは御ご城代じょうだいが伴つれ去さられたときあとに残のこされたので、知しっている道理どうりがない、と云いうのである。短気たんきな河原かわはら源内げんないはきみわるく微笑びしょうしながら、「きさまら正直しょうじきに云いわないと、この馬草まぐさ小屋こやといっしょに焼やき殺ころしてしまうぞ」などと威おどしたが、ついに聞ききだすことはできなかった。

侍さむらい長屋ながやから十郎太じゅうろうたが戻もどって来きた。彼かれは頭あたまから雨合羽あまがっぱをかぶっていた。家士かしの物ものを借かりたのだろう。雨あめはいまこの小屋こやの高たかい板屋根いたやねにやかましい音おとをたてるほど降ふりだし、しかも地雨じあめのようであった。しずくの垂たれる合羽かっぱをぬいで、十郎太じゅうろうたがこっちへ来くると、寺田てらだ文治ぶんじが陸田りくでん氏しの所在しょざいの知しれないことを告つげた。

「こいつらはあとへ残のこされたので、本当ほんとうに知しらないらしいんだ」

十郎太じゅうろうたはひどく失望しつぼうした。それがいちばん肝心かんじんな点てんである。伯父おじを救すくい出だすことが第だい一いちの目的もくてきなので、その所在しょざいがわからないとなると、こっちは行動こうどうできなくなる。十郎太じゅうろうたは濡ぬれた草鞋わらじで地面じめんを踏ふみつけながら、腹立はらだたしそうに菅田すがた平野へいやへ振返ふりかえった。

「するとどうしますか、菅田すがたさん」

「ちょっと待まって下ください」菅田すがた平野へいやは太息といきをついた。「――ひとつ考かんがえてみましょう」

十郎太じゅうろうたは伯母おばのほうへいった。どうやら策戦さくせんはすべて菅田すがた平野へいやに任まかせたというふうである。彼かれは伯母おばのそばへいって、菅田すがた平野へいやのことを話はなそうとした。おの女おんなはすでに娘むすめから聞きいていたらしい、「知しっていますよ」と云いってそっと笑わらった。それから彼女かのじょは、自害じがいすると云いったのではなく、自害じがいのまねをすると云いったのだそうで、だが、いざとなったら「自分じぶんで恥はずかしいような照てれくさいような気持きもち」になり、どうにもそんなまねはできなかったと云いって、いかにも照てれたように赤あかくなりながら笑わらった。

そのとき菅田すがた平野へいやがくしゃみをした。思案しあんしながらまた鼻毛はなげを抜ぬいたのだろう、すばらしく大おおきなくしゃみなので、みんなびっくりして彼かれのほうへ振向ふりむいた。

「失礼しつれいしました」と菅田すがた平野へいやは云いった。するとまたくしゃみが出でた。「どうも失礼しつれい」と彼かれはみんなに目礼もくれいし、十郎太じゅうろうたに云いった、「――とにかくこうしましょう、井坂いさかさん」

十郎太じゅうろうたは彼かれのそばへ戻もどった。他ほかの四よん人にんも集あつまった。菅田すがた平野へいやは云いった。

「ほかに応急おうきゅうの手段しゅだんもなさそうだから、まず密書みっしょを投とうじてかれらの動うごきをみるのです、かれらがもし密会みっかい所しょへ人数にんずうを出だすとすれば、同時どうじに陸田りくでんさんを奪回だっかいされないような方法ほうほうもとると思おもう」

「どうもそれは、たしかとはいえないようですが」と十郎太じゅうろうたが口くちごもった、「――ほかに手てはないですか」

「問題もんだいは時間じかんですからね」

こう云いって、それから突然とつぜん「あっ」と菅田すがた平野へいやは声こえをあげた。彼かれは本能ほんのう的てきに鼻はなの穴あなへ指ゆびをもっていったが、鼻毛はなげを抜ぬくのはやめ、その手てを拳こぶしにして自分じぶんの額がくを叩たたいた。

「なんという頓馬とんまだろう」と彼かれは云いった、「このおれはなんという頓馬とんまの、へぼ頭あたまだろう、自分じぶんで自分じぶんを忘わすれているとはあきれはてたものだ」

「なにかあるんですか」

「この私わたくしですよ」と菅田すがた平野へいやは云いった、「――私わたくし自身じしんが密書みっしょになるんです」

みんなけげんな顔かおをした。

「こうです」と彼かれは続つづけた、「私わたくしはごらんのとおり尾羽おはうち枯からした姿すがたです、この私わたくしが黒くろ藤ふじ邸ていへいって密告みっこくするんです、宿賃やどちんがないので寺てらの縁えん下かに寝ねたと云いってもいいでしょう、そこで密会みっかいしている貴方あなたがたの密談みつだんを聞きいた、耳みみにはさんだ名前なまえはこれこれ、どうです、これなら間違まちがいはないでしょう」

十郎太じゅうろうたは寺田てらだに振返ふりかえった。寺田てらだ文治ぶんじは珍めずらしく微笑びしょうしたし、他たの三さん人にんも頷うなずいた。

「ではそれで計画けいかくをたて直なおしましょう」

菅田すがた平野へいやは書かきかけの密書みっしょをひき裂さいた。

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