← Library‹ 柳橋物語 前篇 一

青あおみを帯おびた皮かわの、まだ玉虫たまむし色いろに光ひかっている、活いきのいいみごとな秋鯵あきあじだった。皮かわをひき三さん枚まいにおろして、塩しおで緊しめて、そぎ身みに作つくって、鉢はちに盛もった上うえから針はりしょうがを散ちらして、酢すをかけた。……見みるまに肉にくがちりちりと縮ちぢんでゆくようだ、心こころははずむように楽たのしい、つまには、青あおじそを刻きざもうか、それとも蓼酢たでずを作つくろうか、歌うたうような気持きもちでそんなことを考かんがえていると、店みせのほうから人ひとのはなし声ごえが聞きこえて来きた。

「いったいいつまでにやればいいんだ」

「無理むりだろうが明日あすのひるまでに頼たのみたいんだ」

「そいつはむつかしいや、明日あすまでというのがまだ此処ここにこれだけあるんだから、まずできない相談そうだんだよ」

「そうだろうけれど、どうしても爺じいさんの手てで研といで貰もらいたいんだ、そいつを持もって旅たびに出でるんだから」

「旅たびへ出でるって」源六げんろくのびっくりしたような声こえが聞きこえた、「……おまえが旅たびへ出でるのかい」

「だから頼たのむのさ、爺じいさんに研とぎこんで置おいて貰もらえば安心あんしんだからな、無理むりだろうけれどそれでやって来きたんだよ」

庄吉しょうきちの声こえだった。おせんは胸むねがどきっとした、庄しょうさんが旅たびに出でる、出で仕事しごとだろうかそれとも、そう思おもってわれにもなく耳みみを澄すました。

「そうかい」と源六げんろくが返辞へんじをするまでにはかなりの間あいだがあった、「……じゃいいよ、やっておくから置おいてゆきな」

「済すまない、恩おんに衣きるよ爺じいさん」

そしてその声こえの主ぬしは店みせを出でた。おせんがその足音あしおとを耳みみで追おうと、それが忍しのびやかに、けれどすばやくこの勝手口かってぐちへ近ちかづいて来きた。おせんはそこの腰高こしだか障子しょうじをそっと明あけた、庄吉しょうきちが追おわれてでもいるような身みぶりですっと寄よって来きた。血ちのけのひいた顔かおに、両りょうの眼めが怖こわいような光ひかりを帯おびておせんを見みた、彼かれは唇くちびるを舐なめながら囁ささやくように云いった。

「これから柳河岸やなぎがしへいって待まっているよ、大事だいじなはなしがあるんだ、おせんちゃん、来きて呉くれるかい」

「ええ」おせんは夢中むちゅうで頷うなずいた「……ええいくわ」

「大川端おおかわばたのほうだからね、きっとだよ」

そう念ねんを押おすとすぐ庄吉しょうきちは去さっていった。おせんは誰だれかに見みられはしなかったかと、……どうしてそんなことが気きになるのかは意識いしきせずに、……横丁よこちょうの左右さゆうを見みまわした。向むこう側がわにはかもじ屋やに女客おんなきゃくがいるきりで、貸本かしほん屋やも糸屋いとやも乾物ひもの屋やもひっそりとしているし、主婦しゅふがおしゃべりでいつも人ひとの絶たえない山崎やまざき屋やという飛脚ひきゃく屋やの店みせも、珍めずらしくがらんとして猫ねこが寝ねているばかりだった。障子しょうじを閉しめたおせんは、笊ざるにあげてある青あおじそを取とって、爼板まないたの上うえに一いち枚まいずつ重かさねて、庖丁ほうちょうをとりあげたまま暫しばらくそこに立たち竦すくんでいた。なんと云いって家いえを出でよう。そんなことは初はじめてなので、怖こわいようでもあるし、お祖父じいさんに嘘うそを云いうことが辛つらかった。けれども頭あたまのなかでは庄吉しょうきちの蒼あおざめた顔かおや、思おもい詰つめたようなうわずった眼めや、旅たびに出でるという言葉ことばなどが、くるくると渦うずを巻まくように明滅めいめつし、彼女かのじょの心こころをはげしくせきたてた。……そうだ、おせんは爼板まないたの上うえの青あおじそを見みてふと気きづいた。柳原堤やなぎわらどてへいつも出でるはしり物もの屋やがある、このあいだ通とおりかかったら独活うどがあった、あれを買かって来きてつまにしよう、駆かけてゆけば庄吉しょうきちの話はなしを聞きくひまくらいはあるだろう、おせんは前垂まえだれで手てを拭ふきながら台所だいどころからあがった。

「お祖父そふさん、ちょっといって鯵あじのつまにする物ものを買かって来きますよ」

「鯵あじのつまだって」源六げんろくは砥石といしから眼めをあげずに云いった、「……つまなんか有合ありあわせで結構けっこうだぜ、あんまり気取きどられると膳ぜんが高たかくなっていかねえ」

「それほどの物ものじゃありませんよ、すぐ帰かえって来きますからね」

そしてなおなにか呼よびかけられるのを恐おそれるように、店みせの脇わきから出でて小走こばしりに通とおりのほうへ急いそいでいった。……中通なかどおりをまっすぐにつき当あたると第六天だいろくてんの社しゃである、柳原やなぎはらへはそこを右みぎへ曲まがるのだが、おせんは左ひだりへ折おれ、平右衛門町へいえもんちょうをぬけて大川端おおかわばたへ出でた。

隅田川すみだがわは夕潮ゆうしおでいっぱいだった。石垣いしがきの八はち分ふんめまでたぷたぷとあふれるような水みずからは、かなりつよく潮しおの香こうが匂におってきた、初秋しょしゅうの昏くれがたの残照ざんしょうをうけて、川波かわなみは冷つめたくにぶ色いろにひかり、ひとところだけ明あかるく雲くもをうつしていた。竹屋たけやの渡わたしあたりを川上かわかみへいそぐ小舟こぶねが見みえるほかは、広ひろい川面かわもに珍めずらしく荷足にたりも動うごかず、鴎かもめの飛とぶようすもなかった。……河岸かしぞいに急いそいでゆくと、足音あしおとに驚おどろいて小ちいさな蟹かにが幾いくつも、すばやく石垣いしがきの間あいだへ逃にげこむのがみえる。ついするとそれを踏ふみつけそうで、おせんははらはらしながら歩あるいていった。神田かんだ川かわのおち口くちに近ちかい柳やなぎの樹蔭こかげの、もううす暗ぐらくなったところに庄吉しょうきちは立たっていた。柳やなぎの樹きに肩かたをもたせて、腕組うでぐみをして、どこやら力ちからのぬけたような姿勢しせいで、ぼんやり川波かわなみを見みまもっていた。

「有難ありがとうよく来きて呉くれた」

彼かれはおせんを見みると縋すがりつくような眼めをした。

「あたし柳原やなぎはらまで買かい物ものをしにゆくつもりで出でて来きたの、遅おそくなっては困こまるし、もし人ひとに見みられるときまりが悪わるいから……」

「話はなしはすぐ済すむよ」庄吉しょうきちはおせんよりおどおどしていた。ふだんから色いろの白しろい顔かおが、血ちのけもないほど蒼あおくなり、大おおきく瞠みひらいている眼めは、不安ふあんそうに絶たえずあたりを見みまわすのだった、「……今朝けさとうとう幸太こうたと喧嘩けんかをしてしまった、おれはがまんして来きた、きょうまでずいぶんできないがまんをして来きたんだ、けれどもどうせいつかはこうなる。おれか幸太こうたか、どっちか一人ひとりはこの土地とちを出でなくちゃあならないんだ、そして幸太こうたが頭梁とうりょうの養子ようしときまったからには、出でてゆくのはおれとわかりきっていたんだ」

「でもどうして、どうして喧嘩けんかになんぞなったの、幸みゆきさんとどんなことがあったの」

「今朝けさのことなんかたいしたことじゃあない、ただ喧嘩けんかのきっかけがついたというだけで、はっきり云いってしまえば……」庄吉しょうきちはそう云いいかけてふと口くちを噤つぐんだ、それから臆病おくびょうそうな、けれどくいいるような烈はげしい眼めつきで、おせんの顔かおをじっと見みつめた、「……いやそれを云いうまえに訊きいて置おきたいことがあるんだ、おせんちゃん、おれは明日あす、上方かみがたへ旅たびに出でるよ」

「…………」

おせんはこくっと生唾なまつばをのんだ。

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