← Library‹ 柳橋物語 中篇 一

江戸えどには珍めずらしく粉雪こなゆきをまじえた風かぜが、焼やけて黒くろい骨ほねのようになった樹立こだちをひょうひょうと休やすみなしに吹ふき揺ゆすっていた。寒さむいというより痛いたい、粟立あわだった膚はだを針はりでうたれるような感かんじである。どっちを眺ながめても焼やけ野原のはらだった、屋根やねも観音かんのん開びらきも無なくなり、みじめに白壁しらかべが剥はげ落おちて、がらん洞ほらになった土蔵どぞうがあちらこちらに見みえる。それは倒たおれ残のこった火除ひよけ塀べいや、きたならしく欠かけ崩くずれた石垣いしがきなどと共ともに焼やけ跡あとのありさまを却かえってすさまじくかなしくみせるようだ。晴はれていたら駿河台するがだいから湯島ゆしま、本郷ほんごうから上野うえのの丘おかまでひと眼めに見みわたせるだろう、いまは舞まいしきる粉雪こなゆきで少すこし遠とおいところは朧おぼろにかすんでいるが、焼やけ落おちた家いえいえの梁はりや柱はしらや、焦こげ毀こわれた家財かざいなどの散乱さんらんするあいだを、ひどく狭せまくなった道みちがうねくねと消きえてゆくはてまで、一望いちぼうの荒涼こうりょうとした廃墟はいきょしか見みられなかった。

手足てあしはもちろん骨ほねまで氷こおりそうな風かぜに曝さらされ、頭あたまから白しろく粉雪こなゆきに包つつまれた人々ひとびとが、浅草橋あさくさばしの北詰きたづめから茅場町かやばちょうあたりまで列れつをつくっていた。傘かさをさしたり合羽かっぱを着きたりしているのはごく僅わずかで、たいていの者ものが風呂敷ふろしきやぼろや蓆むしろをかむっていた。男おとこも女おんなも、老人ろうじんも子供こどもも、みんな肩かたをすくめ身みを縮ちぢめて、おさえつけられるように前跼まえかがみになって、ほんの少すこしずつ、それこそ飽あき飽あきするほどのろのろと、列れつといっしょに動うごいている。誰だれもなにも云いわなかった、素足すあしのままふところ手でをして瘧おこりにかかったかのようにがたがた震ふるえている者もの、きみの悪わるいほど、白しろい硬こわばった顔かおでときどきびくんと発条ばねじかけのように首くびだけ後うしろへ振向ふりむける者もの、むきだしの頭あたまから肩かた背せへ雪ゆきまみれになったまま、払はらいおとす力ちからもないかのようにじっとうなだれている老婆ろうば、これらの群ぐんのあいだから赤児あかごの弱よわよわしい泣なきごえが聞きこえる。前まえのほうでも後うしろのほうでも、もう泣なき疲つかれて喘あえぐように喉のどをぜいぜいさせるだけのものもある。しかし親おやたちのあやす声こえは聞きこえない、ひょうひょうと吹ふきたける風かぜの音おとを縫ぬって、その赤児あかごの泣なくこえだけが、列れつをつくっている人々ひとびとぜんたいの嘆なげきを表象ひょうしょうするかのように、途絶とだえたり高たかくなったりしながらいつまでも続つづいていた。

「そっちへいっちゃだめじゃねえか、だめだって云いってるじゃねえか、ばか」

とつぜんこう喚わめきだす者ものがいた。

「あの火ひが見みえねえか、よね公おおやけ、焼やけ死しんじまうぞ、よね公おおやけ、よね公おおやけ、ばか」

そしてその喚わめきはすぐにうううという低ひくい絞しぼるような嗚咽おえつになった。だがそのまわりにいる人ひとたちはなにも云いわず、振返ふりかえりもしない、そんな喚わめきごえなど聞ききもしなかったようである。いたましいその嗚咽おえつはやがて鼻唄はなうたのような調子ちょうしになり、まもなくかすれかすれに消きえていった。

おせんは痴呆ちほうのように惘然もうぜんとして、この人々ひとびとといっしょに動うごいたり停とまったりしていた。抱いだいている赤児あかごが泣なきだすと、鈍にぶい手てつきで布子半纏ぬのこばんてんをかき合あわせたり、ぼんやりと頬ほおずりをしたりするが、すぐにまた放心ほうしんしたような焦点しょうてんの狂くるった眼めをあらぬ方かたへそらしてしまう。時ときどきなにかが意識いしきの表ひょうをかすめると、あらゆる神経しんけいがひきつり収縮しゅうしゅくするので、からだじゅうがぴくぴくと激はげしく痙攣けいれんする。それと同時どうじにはっと夢ゆめから醒さめたような気持きもちになるが、それは極きわめて短みじかい刹那せつなのことで、すぐに頭あたまは朦朧もうろうとなり、思考しこうはふかい濃霧のうむに包つつまれるように昏くらんでしまう。肉躰にくたいも精神せいしんもすっかり麻痺まひして、自分じぶんがいまなにをしているかも、どうしてそんな処ところに立たっているかもわからなかった。――ただ時ときをきっていろいろな幻想げんそうがあたまのなかを去来きょらいする、幼おさないころに浅草寺せんそうじの虫干むしぼしで見みた地獄じごく絵えのような、赤あかい怖おそろしい火焔かえんがめらめらと舌したを吐はくさま、ふりみだした髪かみの毛けから青あおい火ひをはなちながら、その火焔かえんの中なかへとびこんでゆく女おんなの姿すがた、渦うずを巻まいておそいかかる咽のどを灼やくような熱あつい烈風れっぷう、嘘うそのように平安へいあんなお祖父じいさんの寝顔ねがお、そしてごうごうと咆ほえ狂くるう焔ほのおの音おとのなかから、哀訴あいそしむせび泣なくようなあの声こえが聞きこえる。

――おせんちゃん、おらあ苦くるしかったぜ、本当ほんとうにおらあ辛つらかったぜ、おせんちゃん。おせんは濁にごった力ちからのない眼めをみはり、唇くちびるをだらんとあけて宙ちゅうを見上みあげる、なんの感動かんどうもあらわれない白痴はくちそのままの表情ひょうじょうだ。それから急きゅうに眉まゆをしかめ、眼めをつむって頭あたまを振ふる、そういう幻視げんしや幻聴げんちょうを払はらいのけたいとでもいうように、――赤児あかごはぐずぐずと泣なきだし、小ちいさな唇くちびるでなにかを舐なめるような音おとをさせた。おせんは機械きかい的てきに頬ほおずりをし、その唇くちびるへそっと自分じぶんの舌したをさしいれた。赤児あかごはとびつくように口くちをすり寄よせ、びっくりするほどのちからでおせんの舌したを吸すう、ひじょうな力ちからでちゅうちゅうと音おとを立たてて吸すうが、やがて口くちを放はなすとひき裂さけるような声こえで泣なきだすのであった。

「おまえさんお乳ちちを含ふくませておやりな」すぐ前まえにいた中年ちゅうねんの女おんながこっちへ振返ふりかえってからこう云いった、「――舌したなんかで騙だますのは可哀かわいそうじゃないか、匂においだけでも気きが済すむんだから、お乳ちちを含ふくませておやんなさいよ」

「そのひとはあたまがおかしいらしいだよ」脇わきにいる別べつの女おんながそう云いった、「――藁屋わらやの勘かんさんとこで面倒めんどうみてやってるらしいんだけど、唖者おしみたいにものを云いわないし、お乳ちちをやることもお襁褓むつを替かえることも知しらないらしいんですってよ」

「まあ可哀かわいそうに、こんな若わかさでねえ、まだ十じゅう六ろく七ななじゃないかね」

「いくら年としがいかなくっても、わが腹はらを痛いためた子こに乳ちちをやることも知しらないなんて、本当ほんとうに因果いんがなはなしだよねえ」

そんな問答もんどうが聞きこえるのか聞きこえないのか、おせんは泣なき叫さけぶ子こを揺ゆすりながら、瞳ひとみのぬけたような眼めでじっとどこかをみつめるばかりだった。行列ぎょうれつはそれでもしだいに前まえへ前まえへと進すすみ、やがて蓆むしろで囲かこった施粥小屋せがゆごやへと近ちかづいた。そのあたりは群むれたり散ちったりする人影ひとかげと、甲高かんだかい罵ののしりごえや喚わめきなどでわきたち、雪ゆきまじりの風かぜに煽あおられて、火ひを焚たく煙けむりや白しろい温あたたかそうな湯気ゆげが、空そらへまき上あがったり横よこへ靡なびいたりしていた。――筍笠たけのこがさを冠かぶり合羽かっぱを着きて、大おおきな鍋なべを提さげた男おとこが向むこうから来きた。鍋蓋なべぶたの隙すきから湯気ゆげが立たっている、男おとこは列れつの人々ひとびとを眼めさぐりしながら来きたが、おせんを認みとめるとせかせか近寄ちかよって、

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