江戸には珍しく粉雪をまじえた風が、焼けて黒い骨のようになった樹立をひょうひょうと休みなしに吹き揺すっていた。寒いというより痛い、粟立った膚を針でうたれるような感じである。どっちを眺めても焼け野原だった、屋根も観音開きも無くなり、みじめに白壁が剥げ落ちて、がらん洞になった土蔵があちらこちらに見える。それは倒れ残った火除け塀や、きたならしく欠け崩れた石垣などと共に焼け跡のありさまを却ってすさまじくかなしくみせるようだ。晴れていたら駿河台から湯島、本郷から上野の丘までひと眼に見わたせるだろう、いまは舞いしきる粉雪で少し遠いところは朧にかすんでいるが、焼け落ちた家いえの梁や柱や、焦げ毀れた家財などの散乱するあいだを、ひどく狭くなった道がうねくねと消えてゆくはてまで、一望の荒涼とした廃墟しか見られなかった。
手足はもちろん骨まで氷りそうな風に曝され、頭から白く粉雪に包まれた人々が、浅草橋の北詰から茅場町あたりまで列をつくっていた。傘をさしたり合羽を着たりしているのはごく僅かで、たいていの者が風呂敷やぼろや蓆をかむっていた。男も女も、老人も子供も、みんな肩をすくめ身を縮めて、おさえつけられるように前跼みになって、ほんの少しずつ、それこそ飽き飽きするほどのろのろと、列といっしょに動いている。誰もなにも云わなかった、素足のままふところ手をして瘧にかかったかのようにがたがた震えている者、きみの悪いほど、白い硬ばった顔でときどきびくんと発条じかけのように首だけ後ろへ振向ける者、むきだしの頭から肩背へ雪まみれになったまま、払いおとす力もないかのようにじっとうなだれている老婆、これらの群のあいだから赤児の弱よわしい泣きごえが聞える。前のほうでも後ろのほうでも、もう泣き疲れて喘ぐように喉をぜいぜいさせるだけのものもある。しかし親たちのあやす声は聞えない、ひょうひょうと吹きたける風の音を縫って、その赤児の泣くこえだけが、列をつくっている人々ぜんたいの嘆きを表象するかのように、途絶えたり高くなったりしながらいつまでも続いていた。
「そっちへいっちゃだめじゃねえか、だめだって云ってるじゃねえか、ばか」
とつぜんこう喚きだす者がいた。
「あの火が見えねえか、よね公、焼け死んじまうぞ、よね公、よね公、ばか」
そしてその喚きはすぐにうううという低い絞るような嗚咽になった。だがそのまわりにいる人たちはなにも云わず、振返りもしない、そんな喚きごえなど聞きもしなかったようである。いたましいその嗚咽はやがて鼻唄のような調子になり、まもなくかすれかすれに消えていった。
おせんは痴呆のように惘然として、この人々といっしょに動いたり停ったりしていた。抱いている赤児が泣きだすと、鈍い手つきで布子半纏をかき合せたり、ぼんやりと頬ずりをしたりするが、すぐにまた放心したような焦点の狂った眼をあらぬ方へそらしてしまう。時どきなにかが意識の表をかすめると、あらゆる神経がひきつり収縮するので、からだじゅうがぴくぴくと激しく痙攣する。それと同時にはっと夢から醒めたような気持になるが、それは極めて短い刹那のことで、すぐに頭は朦朧となり、思考はふかい濃霧に包まれるように昏んでしまう。肉躰も精神もすっかり麻痺して、自分がいまなにをしているかも、どうしてそんな処に立っているかもわからなかった。――ただ時をきっていろいろな幻想があたまのなかを去来する、幼いころに浅草寺の虫干しで見た地獄絵のような、赤い怖ろしい火焔がめらめらと舌を吐くさま、ふりみだした髪の毛から青い火をはなちながら、その火焔の中へとびこんでゆく女の姿、渦を巻いておそいかかる咽を灼くような熱い烈風、嘘のように平安なお祖父さんの寝顔、そしてごうごうと咆え狂う焔の音のなかから、哀訴しむせび泣くようなあの声が聞える。
――おせんちゃん、おらあ苦しかったぜ、本当におらあ辛かったぜ、おせんちゃん。おせんは濁った力のない眼をみはり、唇をだらんとあけて宙を見上げる、なんの感動もあらわれない白痴そのままの表情だ。それから急に眉をしかめ、眼をつむって頭を振る、そういう幻視や幻聴を払いのけたいとでもいうように、――赤児はぐずぐずと泣きだし、小さな唇でなにかを舐めるような音をさせた。おせんは機械的に頬ずりをし、その唇へそっと自分の舌をさしいれた。赤児はとびつくように口をすり寄せ、びっくりするほどのちからでおせんの舌を吸う、ひじょうな力でちゅうちゅうと音を立てて吸うが、やがて口を放すとひき裂けるような声で泣きだすのであった。
「おまえさんお乳を含ませておやりな」すぐ前にいた中年の女がこっちへ振返ってからこう云った、「――舌なんかで騙すのは可哀そうじゃないか、匂いだけでも気が済むんだから、お乳を含ませておやんなさいよ」
「そのひとはあたまがおかしいらしいだよ」脇にいる別の女がそう云った、「――藁屋の勘さんとこで面倒みてやってるらしいんだけど、唖者みたいにものを云わないし、お乳をやることもお襁褓を替えることも知らないらしいんですってよ」
「まあ可哀そうに、こんな若さでねえ、まだ十六七じゃないかね」
「いくら年がいかなくっても、わが腹を痛めた子に乳をやることも知らないなんて、本当に因果なはなしだよねえ」
そんな問答が聞えるのか聞えないのか、おせんは泣き叫ぶ子を揺すりながら、瞳のぬけたような眼でじっとどこかをみつめるばかりだった。行列はそれでもしだいに前へ前へと進み、やがて蓆で囲った施粥小屋へと近づいた。そのあたりは群れたり散ったりする人影と、甲高い罵りごえや喚きなどでわきたち、雪まじりの風に煽られて、火を焚く煙や白い温かそうな湯気が、空へまき上ったり横へ靡いたりしていた。――筍笠を冠り合羽を着て、大きな鍋を提げた男が向うから来た。鍋蓋の隙から湯気が立っている、男は列の人々を眼さぐりしながら来たが、おせんを認めるとせかせか近寄って、