おせんのそういう状態はかなり長く続いた。烈しい感動からきた精神的虚脱とでもいうのであろう。もちろん白痴になったわけではない、その期間に経験したことは夢中のもののように朧げではあるがそれでも断片的にはたいてい記憶に残った。ただそれ以前のことがまるで思いだせない、猛火に包まれた苦しさと、お祖父さんと誰かが死んだことは、遠いむかしそこだけの出来事のように覚えているが、それもぽつんと断れていて前後のつながりがまるでわからなかった。
彼女の新しい記憶はお救い小屋から始まっていた。それは蓆掛けに床を張っただけの、うす暗くて風の吹きとおす寒い建物で、身動きもならないほど人が混み合っていた。四五日いたのだろうか、赤児が泣くので隅へ隅へと追われた。自分がわからないありさまだし、もとより赤児の世話などしたことがないから、なかば夢のように揺すったり頬ずりしたりするばかりだった。憐れがって乳を呉れた女もいた。おむつを替えて、なお三組ばかりわけてくれた女房もあったが、長くは続かず、やがて小屋から押し出されてしまった。そうしてふらふら歩きまわっているうち、勘さんに呼びかけられてその住居へひきとられたのである。
――それから毎日、赤児を負ってはよく歩きまわった。誰かに呼ばれているような、誰かを捜さなければならないような気持で、ときには上野から湯島あたりまでうろうろしたこともある。しかし大川のほうへは決してゆかなかった、そこはひじょうに怖ろしい、遠くからちらと水を見るだけでも、身の竦むような恐怖におそわれるのである、理由はわからないが本能的にそっちへゆくことは避けた。……歩きまわることがやまると施粥を貰う行列に並びだした。お粥は勘さんが貰って呉れるので、むろんそのために並ぶのではない、そこには大勢の人がいた、いつも違った顔を見、違った話が聞ける、そこにいれば自分の捜すものがみつかるかもしれない、また自分を呼んでいる者にゆき会えるかもしれない、そういう漠然とした期待に唆られるからであった。
――あの晩の火事は二カ所から出たんだってよ、一つは本郷追分から谷中までひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋、向う柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて神田を焼きさ、伝馬町から小舟町、堀留、小網町、またこっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたりじゃ焼け死んだり川へとびこんで溺れたりした者がたいへんな数だって云うぜ。
そんな話もその行列の中で聞いた。
――聖堂も湯島天神も焼けちゃったからな。
――回向院の一言観音の御本尊は山門におさめてあったものさ、ところが十一月はじめのある夜、観音さまが住持の夢枕に立って、ここでは悪いからおろせと仰しゃる、そこで本堂へ移すと、二十二日の地震よ、山門は倒れてめちゃめちゃだ、追っかけて二十九日の大火に回向院はあのとおりさ、げんあらたかだてえんでいまたいそうな参詣人だそうだ。
――地震のあとで火事、おまけに今年は凶作だというから、火を逃れても餓え死をする者がだいぶ出るぜ。
そういう話もたびたび聞いたのである。殊に関東八州の凶作はあらゆる人々の懸念のたねで、相当の餓死者が出るだろうということは耳の痛くなるほど聞かされた。けれどそういうきびしい話も、その頃のおせんにとってはまるで縁のない余所ごとのようなものであった。
勘さんは勘十といって向う両国に住んでいた。そこで煎餅屋をしていたのであるが、あの夜の火で焼けだされた。そのとき妻の妹を死なせたそうであるが、その始末もせずに勘さんは下総の古河へとんでいった。そこには妻の実家が百姓をしている、彼はその家へいって藁や繩や蓆や空俵などを多量に買い入れ、舟と車とですぐ送る手筈をきめて帰った。これらはみな家を建てるのにぜひ必要なものだ、勘さんはそれで商売にとり付こうと思ったのである。――材木問屋の梶平におさな馴染の友助という男が帳場をしていた、その男の手引きで現在の場所へ住居を建て、さっそく注文をとってまわったが、思ったよりうまくいって、半月ほど経つうちには「藁屋の勘さん」とすっかり名を知られるようになった。こうした事情をおせんが知ったのはずっとのちのことである、勘さん夫婦はごくしまった性分らしく、家で米を買っていながら施粥は施粥でちゃんと貰うし、おもても飾らず物の使いぶりも倹しい、商売が忙しくなっても人を雇うようすはなかった。……そんな風でいておせんの世話をよくして呉れたのは、下町人の人情もあるだろうが、火事で死んだお常の妹と年ごろが似ているそうで、それが夫婦の同情をひいたのだということも、かなり時日が経ってからわかったことであった。
おせんはごく僅かずつ恢復していった。まだはっきりとはしないが、勘さん夫婦と自分が他人であること、自分がなにか非常に不幸なめに遭ったこと、抱いている赤児が自分の子でないことなど、――そして困るのは夫婦の者がその子をおせんの実の子だと思っていることだった。そうではないと云っても信じて呉れない。記憶があいまいで説明することはできないが、繰り返して主張すると、「まだあたまが本当でないのだからそんなことは考えないほうがいい」などと云って相手にならなかった。それだけならまだいいけれども、十二月中旬ごろだったろう、新しく人別(戸籍)を作るということで、町役の人たちが来て赤児とその父親の名をきかれた。おせんはなにも云えなかったが、勘さんがすぐに、
「これはあの晩の騒ぎであたまを悪くしてますから」
と、代りに答えて呉れた。
「なにしろお祖父さんと誰とかが死んじまったていことは知ってるだが、そのほかのことはなにも忘れちまったらしいんですよ、自分の名はおせん、赤ン坊はこう坊って呼んでますが、幸吉とか幸太郎とかいうんでしょう、そいつも覚えちゃいねえようです」
「父親知れず、母おせんか」町役の人はなんの関心もなくそう書き留めた、「――それじゃ子供の名は幸太郎とでもしておくか」