← Library‹ 柳橋物語 中篇 二

おせんのそういう状態じょうたいはかなり長ながく続つづいた。烈はげしい感動かんどうからきた精神せいしん的てき虚脱きょだつとでもいうのであろう。もちろん白痴はくちになったわけではない、その期間きかんに経験けいけんしたことは夢中むちゅうのもののように朧おぼろげではあるがそれでも断片だんぺん的てきにはたいてい記憶きおくに残のこった。ただそれ以前いぜんのことがまるで思おもいだせない、猛火もうかに包つつまれた苦くるしさと、お祖父そふさんと誰だれかが死しんだことは、遠とおいむかしそこだけの出来事できごとのように覚おぼえているが、それもぽつんと断きれていて前後ぜんごのつながりがまるでわからなかった。

彼女かのじょの新あたらしい記憶きおくはお救すくい小屋こやから始はじまっていた。それは蓆むしろ掛かけに床ゆかを張はっただけの、うす暗ぐらくて風かぜの吹ふきとおす寒さむい建物たてもので、身動みうごきもならないほど人ひとが混こみ合あっていた。四五しご日にちいたのだろうか、赤児あかごが泣なくので隅すみへ隅すみへと追おわれた。自分じぶんがわからないありさまだし、もとより赤児あかごの世話せわなどしたことがないから、なかば夢ゆめのように揺ゆすったり頬ほおずりしたりするばかりだった。憐あわれがって乳ちちを呉くれた女おんなもいた。おむつを替かえて、なお三さん組くみばかりわけてくれた女房にょうぼうもあったが、長ながくは続つづかず、やがて小屋こやから押おし出だされてしまった。そうしてふらふら歩あるきまわっているうち、勘かんさんに呼よびかけられてその住居じゅうきょへひきとられたのである。

――それから毎日まいにち、赤児あかごを負おぶってはよく歩あるきまわった。誰だれかに呼よばれているような、誰だれかを捜さがさなければならないような気持きもちで、ときには上野うえのから湯島ゆしまあたりまでうろうろしたこともある。しかし大川おおかわのほうへは決けっしてゆかなかった、そこはひじょうに怖おそろしい、遠とおくからちらと水みずを見みるだけでも、身みの竦すくむような恐怖きょうふにおそわれるのである、理由りゆうはわからないが本能ほんのう的てきにそっちへゆくことは避さけた。……歩あるきまわることがやまると施せ粥じょうを貰もらう行列ぎょうれつに並ならびだした。お粥かゆは勘かんさんが貰もらって呉くれるので、むろんそのために並ならぶのではない、そこには大勢おおぜいの人ひとがいた、いつも違ちがった顔かおを見み、違ちがった話はなしが聞きける、そこにいれば自分じぶんの捜さがすものがみつかるかもしれない、また自分じぶんを呼よんでいる者ものにゆき会あえるかもしれない、そういう漠然ばくぜんとした期待きたいに唆そそられるからであった。

――あの晩ばんの火事かじは二にカ所しょから出でたんだってよ、一ひとつは本郷追分ほんごうおいわけから谷中やなかまでひと舐なめさ、こっちはおめえ小石川こいしかわから出でたやつが上野うえのへぬけてよ、北風きたかぜになったもんで湯島ゆしまから筋違橋すじかいばし、向むこう柳原やなぎわら、浅草あさくさは瓦町かわらちょうから茅町かやちょう、その一方いっぽうは駿河台するがだいへ延のびて神田かんだを焼やきさ、伝馬町てんまちょうから小舟町こぶなちょう、堀留ほりどめ、小網町こあみちょう、またこっちのやつは大川おおかわを本所ほんじょに飛とんで回向院えこういんあたりから深川ふかがわ永代橋えいたいばしまできれえにいかれちゃった、両国りょうこく橋きょうあたりじゃ焼やけ死しんだり川かわへとびこんで溺おぼれたりした者ものがたいへんな数かずだって云いうぜ。

そんな話はなしもその行列ぎょうれつの中なかで聞きいた。

――聖堂せいどうも湯島ゆしま天神てんじんも焼やけちゃったからな。

――回向えこう院いんの一言観音ひとことかんのんの御ご本尊ほんぞんは山門さんもんにおさめてあったものさ、ところが十じゅう一いち月がつはじめのある夜よる、観音かんのんさまが住持じゅうじの夢枕ゆめまくらに立たって、ここでは悪わるいからおろせと仰おっしゃる、そこで本堂ほんどうへ移うつすと、二十にじゅう二に日にちの地震じしんよ、山門さんもんは倒たおれてめちゃめちゃだ、追おっかけて二十にじゅう九きゅう日にちの大火たいかに回向えこう院いんはあのとおりさ、げんあらたかだてえんでいまたいそうな参詣人さんけいにんだそうだ。

――地震じしんのあとで火事かじ、おまけに今年ことしは凶作きょうさくだというから、火ひを逃のがれても餓うえ死じにをする者ものがだいぶ出でるぜ。

そういう話はなしもたびたび聞きいたのである。殊ことに関東かんとう八州はっしゅうの凶作きょうさくはあらゆる人々ひとびとの懸念けねんのたねで、相当そうとうの餓死がし者しゃが出でるだろうということは耳みみの痛いたくなるほど聞きかされた。けれどそういうきびしい話はなしも、その頃ころのおせんにとってはまるで縁えんのない余所よそごとのようなものであった。

勘かんさんは勘かん十じゅうといって向むこう両国りょうこくに住すんでいた。そこで煎餅屋せんべいやをしていたのであるが、あの夜よるの火ひで焼やけだされた。そのとき妻つまの妹いもうとを死しなせたそうであるが、その始末しまつもせずに勘かんさんは下総しもうさの古河こがへとんでいった。そこには妻つまの実家じっかが百姓ひゃくしょうをしている、彼かれはその家いえへいって藁わらや繩なわや蓆むしろや空俵あきだわらなどを多量たりょうに買かい入いれ、舟ふねと車くるまとですぐ送おくる手筈てはずをきめて帰かえった。これらはみな家いえを建たてるのにぜひ必要ひつようなものだ、勘かんさんはそれで商売しょうばいにとり付つこうと思おもったのである。――材木ざいもく問屋とんやの梶平かじへいにおさな馴染なじみの友助ともすけという男おとこが帳場ちょうばをしていた、その男おとこの手引てびきで現在げんざいの場所ばしょへ住居じゅうきょを建たて、さっそく注文ちゅうもんをとってまわったが、思おもったよりうまくいって、半月はんつきほど経たつうちには「藁屋わらやの勘かんさん」とすっかり名なを知しられるようになった。こうした事情じじょうをおせんが知しったのはずっとのちのことである、勘かんさん夫婦ふうふはごくしまった性分しょうぶんらしく、家いえで米べいを買かっていながら施せ粥じょうは施せ粥じょうでちゃんと貰もらうし、おもても飾かざらず物ものの使つかいぶりも倹つましい、商売しょうばいが忙いそがしくなっても人ひとを雇やとうようすはなかった。……そんな風ふうでいておせんの世話せわをよくして呉くれたのは、下町したまち人にんの人情にんじょうもあるだろうが、火事かじで死しんだお常つねの妹いもうとと年としごろが似にているそうで、それが夫婦ふうふの同情どうじょうをひいたのだということも、かなり時日じじつが経たってからわかったことであった。

おせんはごく僅わずかずつ恢復かいふくしていった。まだはっきりとはしないが、勘かんさん夫婦ふうふと自分じぶんが他人たにんであること、自分じぶんがなにか非常ひじょうに不幸ふこうなめに遭あったこと、抱いだいている赤児あかごが自分じぶんの子こでないことなど、――そして困こまるのは夫婦ふうふの者ものがその子こをおせんの実じつの子こだと思おもっていることだった。そうではないと云いっても信しんじて呉くれない。記憶きおくがあいまいで説明せつめいすることはできないが、繰くり返かえして主張しゅちょうすると、「まだあたまが本当ほんとうでないのだからそんなことは考かんがえないほうがいい」などと云いって相手あいてにならなかった。それだけならまだいいけれども、十じゅう二に月がつ中旬ちゅうじゅんごろだったろう、新あたらしく人別にんべつ(戸籍こせき)を作つくるということで、町役まちやくの人ひとたちが来きて赤児あかごとその父親ちちおやの名なをきかれた。おせんはなにも云いえなかったが、勘かんさんがすぐに、

「これはあの晩ばんの騒さわぎであたまを悪わるくしてますから」

と、代かわりに答こたえて呉くれた。

「なにしろお祖父そふさんと誰だれとかが死しんじまったていことは知しってるだが、そのほかのことはなにも忘わすれちまったらしいんですよ、自分じぶんの名なはおせん、赤あかン坊ぼうはこう坊ぼうって呼よんでますが、幸吉こうきちとか幸太郎こうたろうとかいうんでしょう、そいつも覚おぼえちゃいねえようです」

「父親ちちおや知しれず、母ははおせんか」町役まちやくの人ひとはなんの関心かんしんもなくそう書かき留とめた、「――それじゃ子供こどもの名なは幸太郎こうたろうとでもしておくか」

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