← Library‹ 柳橋物語 中篇 三

三さんカ所しょにあった施せ粥じょう小屋こやも十じゅう二に月がつの末すえまでで廃止はいしになった。焼やけ跡あともずんずん片付かたづいて、翌年よくねんの二に月がつころになると道みちに沿そったところはあらかた家いえが建たち並ならんだ。もちろんそれは表ひょうがわのことで、裏うらへはいると蓆むしろ掛かけのほったて小屋こやがたくさんある。これらのなかには「どうせまたすぐ焼やけちまうんだ」と悟さとったようなことを云いっていて、そのとおりまもなく次つぎの火事かじで焼やかれ、「へん、どんなもんだい」などとへんないばり方かたをする者ものなどが少すくなからずいた。

――家いえは建たってゆくが町まちのようすはだいぶ変かわった。当時とうじは大火たいかなどのあとでよく道筋みちすじや地割じわりの変更へんこうがある、そのときも両国りょうこく橋きょうから新大橋しんおおはしまで、河岸かしに沿そって新あたらしく道みちが出来できた。浅草橋あさくさばし御ご門もんからこっちでは、瓦町かわらまちと茅町かやまち二に丁目ちょうめの表通おもてどおりから大川端おおかわばたまで九きゅう割わりがた町家まちやが取払とりはらいになり、松平まつだいらなにがしの下屋敷しもやしきと書替役所かきかえやくしょが建たつことに定きまった。そのため梶かじ平たいらの仕事場しごとばが一いち丁目ちょうめへ割わり込こんだので、順送じゅんおくりに勘かん十じゅうの住居じゅうきょなども平右衛門へいえもん町まちへ移うつらなければならなかった。

――大おおきな火事かじがあると住すむ人ひとたちの顔かおぶれも違ちがってくる、俗ぞくに一夜いちや乞食こじきといって、家いえ倉そうを張はった大商人おおあきんどが根ねこそぎ焼やかれて、田舎いなかへ引込ひきこむとか他ほかの町まちへ逼息ひっそくするなどということも珍めずらしくないし、貸家かしやずまいの者ものなどは殆ほとんどが移転いてんしてしまう、その土地とちでなければならない条件じょうけんのある者ものは別べつとして、同おなじ町内ちょうないへ戻もどって来くる者ものの数かずはごく少すくなかった。……仮かりにもし町まちのようすがそんなに変かわらなかったら、そしてもとの町内ちょうないの人ひとたちがいてくれたとしたら、もう少すこし早はやくおせんの記憶きおく力りょくがよびさまされ、自分じぶんの身みのうえや過去かこのことを思おもいだしたであろうし、したがって後あとにくるような悲かなしい出来事できごとはなかったに違ちがいない。おせんのためには不幸ふこうな、だがどうしようもない偶然ぐうぜんの悪あく条件じょうけんは、こうして早はやくも彼女かのじょのまわりに根ねを張はりだしたのであった。

二に月がつにはいってから、おせんの頭あたまはしだいにはっきりし始はじめた。子供こどもの世話せわをするひまひまに、炊事すいじや洗濯せんたくくらいは出来できるようになり、灯あかりのそばで縫ぬいつくろいなどしていると、すっかりおちついて顔色かおいろも冴さえてみえる。

「あら、おせんちゃんはきれいなんだね、今夜こんやはまるで人ひとが違ちがったようじゃないの」お常つねがそんな風ふうに眼めをみはることもあった、「――それだけよくなったんだね、自分じぶんでそんな気持きもちがしやあしないかえ」

「ええ頭あたまが軽かるくなったような気きがするわ、なんとなくすうっとしてなにもかも思おもいだせそうになるの、ひょいと誰だれかの顔かおがみえるようなこともあるんだけれど」

「あせらないがいいよ、そうやってひととおりなにかが出来できるようになったんだから、もう暫しばらく暢気のんきにしているのさ、そのうち本当ほんとうにおちついてくればすっかりわかるようになるからね」

「おばさん本所ほんしょの牡丹ぼたん屋敷やしきって知しってて」

「四よつ目めの牡丹ぼたん屋敷やしきかい、あたしはいったことはないけど、それがどうかしたのかえ」

「なんだかそのことがあたまにあるの」おせんは遠とおくを見みるような眼めをした、「――誰だれかと見みにゆく筈はずだったのか、それとも見みて来きたのか、そこがはっきりしないんだけれど、それからどこかのきれいな菊畑きくばたけ、……いろんなことがここのところへ出でかかっているんだけれど、捉つかまえようとするとすうっと消きえてしまうのよ」

「もう少すこしだよ、おせんちゃん、もう少すこしの辛抱しんぼうだよ」お常つねはもうその話題わだいに興味きょうみがなくなった、「――でもすっかり治なおって、あんたが紀文きぶんのお嬢じょうさんだなんてことになっても、あたしたちを袖そでにしないでおくれよ」

世間せけんの窮乏きゅうぼうはその頃ころからめだってきた。幕府ばくふで米価べいかの騰貴とうきするのを抑おさえたからおもてむきの価格かかくはそれほど高たかくはならないが、関東かんとう一帯いったいの凶作きょうさくに加くわえて地震じしんと大火たいかのあとなので、米穀べいこくその他たの必要ひつよう物資ぶっしは極きわめて窮屈きゅうくつになり、またその流通りゅうつうが利りを追おう少数しょうすうの商人しょうにんたちの手てに握にぎられているため、庶民しょみんの生活せいかつは苦くるしく困難こんなんになるばかりだった。

――いったい元禄げんろくという年代ねんだいは華はなやかな話題わだいが多おおかった、赤穂あこう浪士ろうしのことは別べつとして、紀文きぶん大尽だいじんとよばれた紀伊国屋文左衛門きのくにやぶんざえもんや奈良屋茂左衛門ならやもざえもんなどの富豪ふごうが、花街はなまちや戯場ぎじょうで万金まんきんを捨すてるようなばかげた遊蕩ゆうとうをしたのもこの頃ごろである。芭蕉ばしょう、其角きかく、嵐雪らんせつなどの俳諧師はいかいし、また絵師えしでは狩野家かのうけの常信つねのぶ、探信守政たんしんもりまさ、友信とものぶ。浮世うきよ絵えの菱川吉兵衛ひしがわきちべえ、鳥井清信とりいきよのぶ。浄瑠璃じょうるりにも土佐椽とさのじょう、江戸半太夫えどはんだゆうなど高名こうみょうな人ひとたちもたくさん出でている。これは大雑把おおざっぱにいって社会しゃかい経済けいざいが武家ぶけから町人ちょうにんの手てに移うつりつつあった現あらわれであろうが、その反面はんめん、これら新興しんこうの富豪ふごう商人しょうにんらが幕府ばくふ政治せいじの枠内わくないで巨利きょりを掴つかむために、大だい多数たすうの庶民しょみんがひじょうな犠牲ぎせいを払はらわされたことは云いうまでもない。……幕府ばくふでは物価ぶっかの昂騰こうとうを抑おさえたが、日雇賃ひやといちんを上あげることを禁きんじた。物価ぶっかはそのままだったが、じっさいになると商人しょうにんたちは品物しなものを隠かくして出ださない、ぜひ買かうには高たかい代価だいかを払はらわなければならぬ。だが日雇ひやとい賃ちんには裏うらがなかった、今いまもっとも忙いそがしい大工だいくや左官さかんでさえ、手間賃てまちんのきびしい制限せいげんをうけた。これは一般いっぱんの購買こうばい力りょくを低ひくくすると同時どうじに、しぜん小ちいさな商工業しょうこうぎょうへもつよく影響えいきょうした。じみちなあきないやまともな稼かせぎでは、その日ひくらしも満足まんぞくにはできなくなっていった。世帯せたいをしまう者もの、夜逃よにげをする者もの、乞食こじきが殖ふえ、飢うえる者ものが出ではじめた。

「浅草あさくさ寺てらの境内けいだいにまたゆき倒だおれが五ご人にんもあったってさ」

「なかに死しんだ赤あかん坊ぼうを負おった女おんながいたそうじゃないの、まだ若わかいんだって、そばには御ご亭主ていしゅも倒たおれていたけれど、動うごかせないほどのひどい病人びょうにんだったって話はなしよ」

「いやだねえ、昨日きのうは御厩河岸おうまやがしに親子おやこの抱だき合あい心中しんじゅうがあがったし、なんて世よの中なかだろう」

「いつになっても泣なくのは貧乏びんぼう人にんばかりさ、ひとごとじゃあないよ」

そんな話はなしが毎日まいにちのように出でた。

三さん月がつになって年号ねんごうが宝永ほうえいと改あらたまった。ちょうど季節きせつが春はるであったし、この改元かいげんは新あたらしい希望きぼうを約束やくそくするようで、いっとき世間せけんが明あかるくなったように見みえた。しかしなに一ひとつよくはならなかった。新あたらしく建たてる家いえはごく手軽てがるにすべしとか、贅沢ぜいたくな品しなの贈答ぞうとうはならぬとか、祝儀しゅうぎや不ふ祝儀しゅうぎの宴会えんかいはいけないとか、富籤とみくじは禁きんずるなどという、緊縮きんしゅくの布令ふれが出でるばかりで、むしろ不況ふきょうの度たびはひどくなっていった。

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