三カ所にあった施粥小屋も十二月の末までで廃止になった。焼け跡もずんずん片付いて、翌年の二月ころになると道に沿ったところはあらかた家が建ち並んだ。もちろんそれは表がわのことで、裏へはいると蓆掛けのほったて小屋がたくさんある。これらのなかには「どうせまたすぐ焼けちまうんだ」と悟ったようなことを云っていて、そのとおりまもなく次の火事で焼かれ、「へん、どんなもんだい」などとへんないばり方をする者などが少なからずいた。
――家は建ってゆくが町のようすはだいぶ変った。当時は大火などのあとでよく道筋や地割の変更がある、そのときも両国橋から新大橋まで、河岸に沿って新しく道が出来た。浅草橋御門からこっちでは、瓦町と茅町二丁目の表通りから大川端まで九割がた町家が取払いになり、松平なにがしの下屋敷と書替役所が建つことに定った。そのため梶平の仕事場が一丁目へ割り込んだので、順送りに勘十の住居なども平右衛門町へ移らなければならなかった。
――大きな火事があると住む人たちの顔ぶれも違ってくる、俗に一夜乞食といって、家倉を張った大商人が根こそぎ焼かれて、田舎へ引込むとか他の町へ逼息するなどということも珍しくないし、貸家ずまいの者などは殆んどが移転してしまう、その土地でなければならない条件のある者は別として、同じ町内へ戻って来る者の数はごく少なかった。……仮にもし町のようすがそんなに変らなかったら、そしてもとの町内の人たちがいてくれたとしたら、もう少し早くおせんの記憶力がよびさまされ、自分の身のうえや過去のことを思いだしたであろうし、したがって後にくるような悲しい出来事はなかったに違いない。おせんのためには不幸な、だがどうしようもない偶然の悪条件は、こうして早くも彼女のまわりに根を張りだしたのであった。
二月にはいってから、おせんの頭はしだいにはっきりし始めた。子供の世話をするひまひまに、炊事や洗濯くらいは出来るようになり、灯のそばで縫いつくろいなどしていると、すっかりおちついて顔色も冴えてみえる。
「あら、おせんちゃんはきれいなんだね、今夜はまるで人が違ったようじゃないの」お常がそんな風に眼をみはることもあった、「――それだけよくなったんだね、自分でそんな気持がしやあしないかえ」
「ええ頭が軽くなったような気がするわ、なんとなくすうっとしてなにもかも思いだせそうになるの、ひょいと誰かの顔がみえるようなこともあるんだけれど」
「あせらないがいいよ、そうやってひととおりなにかが出来るようになったんだから、もう暫く暢気にしているのさ、そのうち本当におちついてくればすっかりわかるようになるからね」
「おばさん本所の牡丹屋敷って知ってて」
「四つ目の牡丹屋敷かい、あたしはいったことはないけど、それがどうかしたのかえ」
「なんだかそのことがあたまにあるの」おせんは遠くを見るような眼をした、「――誰かと見にゆく筈だったのか、それとも見て来たのか、そこがはっきりしないんだけれど、それからどこかのきれいな菊畑、……いろんなことがここのところへ出かかっているんだけれど、捉まえようとするとすうっと消えてしまうのよ」
「もう少しだよ、おせんちゃん、もう少しの辛抱だよ」お常はもうその話題に興味がなくなった、「――でもすっかり治って、あんたが紀文のお嬢さんだなんてことになっても、あたしたちを袖にしないでおくれよ」
世間の窮乏はその頃からめだってきた。幕府で米価の騰貴するのを抑えたからおもてむきの価格はそれほど高くはならないが、関東一帯の凶作に加えて地震と大火のあとなので、米穀その他の必要物資は極めて窮屈になり、またその流通が利を追う少数の商人たちの手に握られているため、庶民の生活は苦しく困難になるばかりだった。
――いったい元禄という年代は華やかな話題が多かった、赤穂浪士のことは別として、紀文大尽とよばれた紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの富豪が、花街や戯場で万金を捨てるようなばかげた遊蕩をしたのもこの頃である。芭蕉、其角、嵐雪などの俳諧師、また絵師では狩野家の常信、探信守政、友信。浮世絵の菱川吉兵衛、鳥井清信。浄瑠璃にも土佐椽、江戸半太夫など高名な人たちもたくさん出ている。これは大雑把にいって社会経済が武家から町人の手に移りつつあった現われであろうが、その反面、これら新興の富豪商人らが幕府政治の枠内で巨利を掴むために、大多数の庶民がひじょうな犠牲を払わされたことは云うまでもない。……幕府では物価の昂騰を抑えたが、日雇賃を上げることを禁じた。物価はそのままだったが、じっさいになると商人たちは品物を隠して出さない、ぜひ買うには高い代価を払わなければならぬ。だが日雇賃には裏がなかった、今もっとも忙しい大工や左官でさえ、手間賃のきびしい制限をうけた。これは一般の購買力を低くすると同時に、しぜん小さな商工業へもつよく影響した。じみちなあきないやまともな稼ぎでは、その日くらしも満足にはできなくなっていった。世帯をしまう者、夜逃げをする者、乞食が殖え、飢える者が出はじめた。
「浅草寺の境内にまたゆき倒れが五人もあったってさ」
「なかに死んだ赤ん坊を負った女がいたそうじゃないの、まだ若いんだって、そばには御亭主も倒れていたけれど、動かせないほどのひどい病人だったって話よ」
「いやだねえ、昨日は御厩河岸に親子の抱き合い心中があがったし、なんて世の中だろう」
「いつになっても泣くのは貧乏人ばかりさ、ひとごとじゃあないよ」
そんな話が毎日のように出た。
三月になって年号が宝永と改まった。ちょうど季節が春であったし、この改元は新しい希望を約束するようで、いっとき世間が明るくなったように見えた。しかしなに一つよくはならなかった。新しく建てる家はごく手軽にすべしとか、贅沢な品の贈答はならぬとか、祝儀や不祝儀の宴会はいけないとか、富籤は禁ずるなどという、緊縮の布令が出るばかりで、むしろ不況の度はひどくなっていった。