← Library‹ 柳橋物語 中篇 四

勘かん十じゅうはこの話はなしを聞きいて、梶かじ平たいらへでかけていった。杉田すぎた屋やが大工だいくの頭あたま梁はりなら、梶かじ平たいらに消息しょうそくを知しった者ものがいるかもしれないと思おもったのだ。友助ともすけに話はなしてきいて貰もらうと、主人しゅじんの久兵衛きゅうべえが知しっていた。けれどもそう親したしくはなかったもようで、頭梁の巳之吉みのきちは火事かじのとき腰骨こしぼねを折おり、女房にょうぼうを伴つれて水戸みとのほうへ引込ひきこんでしまった。が、その後あとは便たよりがないからわからないということだった。

「ところがわかっていねえというんだから手紙てがみの出だしようもねえ」帰かえって来きた勘かん十じゅうはお常つねにこう云いった、「――幸太こうたてえ若頭わかがしら梁はりもいたそうだが、これもあの晩ばんどっかで死しんだらしいってよ、おせん坊ぼうもよっぽど運うんがねえんだな」

こんなことがあってまもなく、神田かんだ川かわの落おち口ぐちに地蔵じぞう堂どうが出来できた。その付近ふきんで火ひに焼やかれたり川かわへはいって死しんだりした者ものの供養くようのためで、浅草あさくさ寺てらからなにがし上人しょうにんとかいう尊とうとい僧そうが来きて開眼式かいげんしきがおこなわれ、数すう日じつのあいだ参詣さんけいの人ひとたちで賑にぎわった。――おせんもすすめられて、お常つねといっしょに焼香しょうこうをしにいった。そしてあれ以来いらいはじめて大川おおかわをまぢかに眺ながめた。

「此処ここに橋はしがあればよかったんだ」

参詣さんけい人にんのなかでそんな話はなしをしている者ものがあった。

「まったくよ、どんなに小ちいさくとも橋はしがあればあんなにたくさん死しなずに済すんだんだ、なにしろ浅草橋あさくさばしの御ご門もんは閉しまる、うしろは火ひで、どうしようもなく此処ここへ集あつまっちゃったんだ、見みられたありさまじゃなかったぜ」

「橋はしを架かけなくちゃあいけねえ、どうしても此処ここにあ橋はしが要いるよ」

「そんな話はなしも出でているそうだぜ」

おせんは河岸かしに立たってじっと川かわを眺ながめていた。少すこし暑あついくらいの日ひで、満潮まんちょうの川波かわなみがまぶしいくらい明あかるく光ひかり、かなり高たかく潮しおの香こうが匂におってくる。両国りょうこく広小路ひろこうじのほうにはもう水みず茶屋ちゃやが出来できて、葭簾よしず張ばりに色いろとりどりの暖簾のれんを掛かけた小屋こやが並ならび、客きゃくを呼よぶ女おんなたちの賑にぎやかな声こえが聞きこえていた。――おせんは口くちの中なかでなにか呟つぶやいた。河岸かしに並ならんでいる古ふるい柳やなぎ、それはみんなまっ黒くろに焦こげているが、枝えだの付根つけねや幹みきのそこ此処ここからたいてい新あたらしい芽めが伸のび、鮮あざやかな緑みどりの葉はが日ひにきらめいていた。おせんはその柳やなぎの並木なみきを見みまもった、なにかしら記憶きおくがよみがえってくる、たぷたぷと波なみの寄よせる石垣いしがきにも、水みず茶屋ちゃやの女おんなたちの遠とおい呼よびごえにも、そして焦こげたまま芽めぶいているその古ふるい柳やなぎからは、誰だれかなつかしい人ひとの話はなしかける言葉ことばさえ聞きこえるようだ。……おせんは苦くるしそうに眉まゆをしかめ、じっと眼めをつむったり、頭あたまを振ふってみたりした。記憶きおくはそこまで出でている。針はりの尖さきで突ついてもすべてがぱっと明あかるくなりそうである。動悸どうきが高たかく、胸むねが熱あつくなって、額がくに汗あせがにじみだした。

「まあこんなとこにいたのかえ」

子供こどもを抱いだいたお常つねが、こう云いいながら近寄ちかよって来きた。参詣さんけいする人ひとたちの混雑こんざつで見みはぐれていたらしい。

「どこへいったのかと思おもって捜さがしてたじゃないの、どうしたのいったい」

「あたし此処ここに覚おぼえがあるの」お常つねのほうは見みずにおせんがこう呟つぶやいた、「――あたし此処ここを知しっているわ、いつのことかわからないけれど、慥たしかに覚おぼえがあるし、それに、誰だれかの顔かおも見みえるわ」

「たくさん、たくさん、そんなことであたまを使つかうとまたぶり返かえすよ、さあもう帰かえろうおせんちゃん」

唯ただならぬ表情ひょうじょうをしているので、お常つねはこう云いいながら腕うでを取とってせきたてた。そのときおせんは「庄しょうさん」と呟つぶやいた。お常つねに腕うでを取とられたとたんに、ふっとその名なが、あたまにうかんだのである。

「ああ」

おせんは身みをふるわせ、両手りょうての指ゆびをきりきりと絡からみ合あわせた。

「――庄しょうさん」

「おせんちゃん、どうしたのさ」

「おばさん、わかってきた、あたしわかってきたわ、庄しょうさん、――と此処ここで逢あった、あのひとは此処ここから上方かみがたへいったのよ」

「いいからおせんちゃん」お常つねは不安ふあんそうに遮さえぎった、「――とにかく家いえへ帰かえろう、ね、幸こう坊ぼうがもうおなかをすかしてるよ」

「待まって、もう少すこしだわ、だんだんわかってくるの、そうよ、庄しょうさんは上方かみがたから手紙てがみを呉くれたわ」

おせんは両手りょうてで面めんを掩おおった。いろいろな影像えいぞうがあたまのなかで現あらわれたり消きえたりする。黄昏たそがれの河岸かし、柳やなぎの枝えだから黄色きいろくなった葉はがしきりに散ちっていた。

――おれの帰かえるのを待まっていて呉くれるな、おせんちゃん、それを信しんじて、安心あんしんしておれは上方かみがたへゆくよ。

蒼白あおじろい思おもいつめたような庄吉しょうきちの顔かおが、いま別わかれたばかりのようにありありとみえる。それから戸板といたで担かつぎこまれたお祖父そふさん、裏うらのさかな屋やの女房にょうぼう、露ろ次じぐちにあった棗なつめの樹き、幾いくつもの研けん石いしや半揷はんぞうや小盥こだらいのある仕事しごと場じょう、みんなはっきりと眼めにうかんできた。杉田すぎた屋やのおじさんもお蝶ちょうおばさんも、幸太こうたのことも。……おせんは顔かおを掩おおっていた手てを放はなし、涙なみだのたまった眼めで、お常つねに頬笑ほうえみかけた。

「おばさん、あたしもう大丈夫だいじょうぶよ」

「ああわかってるよ」お常つねはほっとしたように、しかしまだ半分はんぶんは疑うたがいながら頷うなずいた。

「――時じが来きさえすればよくなるんだから、とにかくいちどに考かんがえ過すぎないほうがいいよ、さあ帰かえりましょうね、幸こう坊ぼう」

「あたしが抱いだくわ、幸みゆきちゃん、さあいらっちゃい」

おせんは幸太郎こうたろうを抱だきとり、固かたく肥こえたその頬ほおへそっと自分じぶんのをすりよせた。

それからは日ひにいちどずつ、願がんを掛かけたようにお地蔵じぞうさまへおまいりにいった。あたまもはっきりしてきたし、気持きもちもしっかりおちついて、からだにも精せいがはいったような感かんじである。例たとえば洗濯せんたくをしているとき、はっきり自分じぶんが洗濯せんたくをしているということを感かんずる。道みちを歩あるきながら、自分じぶんがちゃんと地面じめんを踏ふんで歩あるいていることを感かんずる。あたりまえじゃないの、こう思おもいながらその「あたりまえ」が慥たしかなものだということに、形容けいようしようのない嬉うれしさを覚おぼえ、われ知しらずそっと微笑びしょうするのであった。

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