← Library‹ 柳橋物語 中篇 六

おせんは首くびを振ふった。それが自分じぶんの庄吉しょうきちであろうとは夢ゆめにも思おもえなかったのだ。

「知しらないの、へんだね」おもんはちょっと考かんがえるように、「――あんたのことをとてもしつっこく訊きくんだよ、上方かみがたへいってこんど帰かえって来きたんだって、じゃあひと違ちがいなんだね」

おせんはああと叫さけび声ごえをあげた。

「そのひと、おもんちゃん、そのひとどうしたの、あんた会あったの、どこで」

「あらいやだ、知しってるの」

「ええ知しってるわ」おせんは恥はずかしいほど声こえがふるえた、「教おしえて、いつ来きたのそのひと、どこにいるの」

「そんなことわからないよ、お客きゃくで会あったんだもの、どこで聞きいたのかあたしがおせんちゃんと仲良なかよしだというんで来きたらしいわ、そう、一昨いっさく日ひの晩ばんだったかしら、あたし生いき死しさえ知しらないからそう云いったら、――そうそう、あたしあたまが悪わるいな、思おもいだしたよ、そのひと杉田すぎた屋やの幸太こうたさんのこと云いってたわ」

「幸みゆきさんのことを、……なんて、――」

「そんなこと覚おぼえちゃいないさ、半刻はんときばかりじくじく云いって、酒さけもひと猪口ちょこかふた猪口ちょこのんだくらいで帰かえっていったよ、あれ、あんたのなにかなのかい」

「どこにいるか云いわなくって、あんたのところへまた来きやしない」

「わからない、あたしあなんにも知しらない、ただ思おもいだしたから聞きいてみたまでのことさ、でもなにか言伝ことづてがあるなら云いってあげるよ、たいてい来きやしまいと思おもうけどね」

「お願ねがいよ、おもんちゃん」息いき詰なじるような声こえでおせんは云いった、「――会あったら云いって頂戴ちょうだい、あたし生いきてるって、平右衛門へいえもん町まちの中通なかどおりにいるって、待まっているって、そう云いって頂戴ちょうだい、ねえ、待まっているって、……」

風かぜはないがひどく凍いてる夕方ゆうがただった。寒さむいからであろう、背中せなかでしきりに子供こどもがぐずった、しかしおせんはあやすことも忘わすれた。お店たなへ仕上しあげ物ものを届とどけ、手間賃てまちんと次つぎの仕事しごとを貰もらって家いえへ帰かえるまで往いき来きとも殆ほとんど走はしりつづけた。そのあいだに庄吉しょうきちが来きているかもしれない、留守るすで帰かえってしまったらどうしよう。そう思おもうと足あしも地ちにつかない感かんじだった。

――もちろん誰だれも来きてはいなかったし、来きたようすもなかった。おせんはその夜よるいつまでも寝ねることができず、二に時じの鐘かねを聞きいてからも行燈あんどんをあかあかとつけ、こごえる手指しゅしに息いきを吹ふきかけながら、足袋たびのこはぜをかがっていた。

――本当ほんとうに庄しょうさんだろうか、もしそうならどうして此処ここへ来きて呉くれないのだろう、おもんちゃんを訪たずねるくらいなら此処ここだってわかる筈はずだのに、……それとも人ひとが違ちがうのかしら。

そんなことを繰くり返かえし思おもった。

なか二ふた日かおいた朝あさ、粥かゆを拵こしらえているところへ友助ともすけの女房にょうぼうが寄よった。そっと覗のぞいてから、そこまでわかめを買かいに来きたと云いい云いい土間どまへはいって来きた。乳ちちを貰もらったので、幸太郎こうたろうは彼女かのじょを見みると嬉うれしそうに手足てあしをばたばたさせ、わけのわからないことを喚わめきたてる。友助ともすけの女房にょうぼうはその頭あたまを撫なでながら、「庄しょうさんてひとを知しってるかえ」と云いった。――おせんはびくっとして振向ふりむいた。女房にょうぼうはちょっと云いいにくそうな調子ちょうしで、

「五いつ日かばかりまえから梶かじ平たいらの旦那だんなのところへ泊とまってるんだがね、なんでもあんたを知しっているらしい、あたしゃなんだかわからない、うちのが聞きいて来きたんだけれどね」

「おばさん」おせんは叫さけんで立上たちあがった、「――そのひとまだいるの、梶かじ平ひらさんにまだいるのそのひと」

「今日きょうはまだいるわ、でももうどこかへゆくらしいんだよ、あたしゃよく知しらないんだけれどね、うちのが聞きいた話はなしだとなにかあんたとわけがあるらしい、それでちょいと耳みみに入いれて来こいと云いわれたもんだからね」

「有難ありがとう、おばさん、あたし会あいたいの」おせんは息いきをはずませて云いった、「――すぐにも会あいたいの、おばさん、この子こに喰たべさせたらゆくから会あわせて頂戴ちょうだい」

「ああおいでよ、うちのがああ云いうんだからなんとか出来できるさ、でもあのひとあんたとどんなわけがあるの」

「あとで、あとで話はなすわ、おばさん、あたしすぐいきますからね」

子供こどもに粥かゆを喰たべさせるあいだも、もどかしいおちつかない気持きもちで、思おもわず叱しかる声こえのとげとげしさに幾いくたびもはっとした。自分じぶんは喰たべないでそこそこにしまい、子供こどもを抱いだいて梶かじ平たいらへいった。――仕事場しごとばのほうからはいってゆくと、店みせの裏うらにある長屋ながやのかどぐちに、友助ともすけの女房にょうぼうが子供こどもを負おって誰だれかと立たち話ばなしをしていた。おせんが近寄ちかよってゆくと、手てを出だしてすぐに幸太郎こうたろうを抱だきとり、「向むこうの置おき場ばのところにおいでな」と云いって、あたふた店みせの脇わきのほうへいった。

新あたらしい木肌きはだをさらして、暖あたたかい日ひをいっぱいにあびて、角かくに鋸ひいた材木ざいもくがずらっと並ならんでいる。あたりは酸すいような木きの香こうがつよく匂におい、すぐ向むこうの小屋こやから職人しょくにんたちの鋸のこぎりいたり削けずったりする音おとが聞きこえてくる。おせんは苦くるしいほどに胸むねがときめいた、たぶん蒼あおくなっているだろう、そう思おもって額がくから両りょうの頬ほおを手てでこすった。あしかけ三さん年ねんぶりである、白粉おしろいをつけ紅くれないをつけたかった、髪かみも結ゆい着物きものも着きかえて、いくらかでも美うつくしい姿すがたをみて貰もらいたかった。しかし生いきているだけが精せいいっぱいのくらしである、辛かろうじて死しなずにやっている身みのうえでは、紅白粉べにおしろいどころか、丈夫じょうぶでいることを、せめてもの自慢じまんにするほかはなかった。――うしろに足音あしおとがした。おせんは全身ぜんしんのおののきにおそわれ、こらえ性しょうもなく振返ふりかえった。そこには庄吉しょうきちがいた。まぎれもない庄吉しょうきちが縞しまの布子ぬのこに三さん尺しゃくを締しめて、腕組うでぐみをして、灰色はいいろの沈しずんだ顔かおをしてこっちを見みていた。

「庄しょうさん」おせんはくちごもった、「――あんた、帰かえったのね」

庄吉しょうきちは投なげるように云いった。

「ああ、だが帰かえらなきゃよかったよ」

おせんにはその言葉ことばが耳みみにはいらなかった。とびつきたかった、向むこうでとびついて呉くれると思おもった。からだが火ひのように熱あつく、あたまがくらくらするように感かんじた。

「そしてもう、ずっとこっちにいるの」

「どうするか考かんがえてるんだ、――もういちど上方じょうほうへいってもいいし、……こっちにこのままいてもいいし、おんなしこった」

「あたし、ねえ」おせんはそっとすり寄よろうとした、「――庄しょうさん、あたし、ずいぶん辛つらいことがあったのよ」

庄吉しょうきちはすっと身みを退ひいた。組くんでいた腕うでを解とき、凄すごいような眼めでこっちを見みた。

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