← Library‹ 柳橋物語 中篇 七

おせんは一日ついたちうろうろして暮くらした。――幸太郎こうたろうを抱いだきづめにしてなんども出でては、ちぎり飴あめや、芒すすきで拵こしらえたみみずくや、小ちいさな犬いぬ張子はりこなどを買かってやった。

――庄しょうさんの云いうのも尤もっともだわ。

彼女かのじょはこう思おもった。何百なんびゃく里りという遠とおい土地とちにいて、権けん二郎じろうの云いったような告つげ口ぐちを聞きけば、愛あいしている者ものほど疑うたがいのわくのは自然しぜんである。まして現げんにその子供こどもを育そだてている姿すがたを見みたのだ、あきらかに否定ひていする証拠しょうこがない限かぎり、事実じじつだと思おもうのはやむを得えないかもしれない。――庄吉しょうきちはこのままこっちにいてもいいと云いった、自分じぶんが証拠しょうこをみせれば二人ふたりはいっしょになれる、この家いえでいっしょに暮くらすことができるのだ。

「ああちゃんを堪忍かんにんしてね」おせんは子供こどもを抱だきしめる、「――あんたがいるとああちゃんの一生いっしょうが不幸ふこうになってしまうのよ、待まちに待まっていたひとが帰かえって来きたの、ああちゃんの大事だいじな大事だいじなひとなの、あのひとなしにはああちゃんは生いきてゆけないのよ、ねえ幸こう坊ぼう、わかってお呉くれ、堪忍かんにんしてお呉くれね」

あの火ひの中なかから抱だきとり、腰こしまで水みずに浸ひたりながら、身みを蓋ふたにして危あやうくいのちを助たすけた。自分じぶんで自分じぶんのことがわからず、他人たにんの世話せわになりながら、満足まんぞくにおむつを変かえることさえ知しらなかったのに、ともかく今日きょうまで丈夫じょうぶに育そだてて来きた。云いってみれば、ほんの偶然ぐうぜんのめぐりあわせであった。なんの義理ぎりも因縁いんねんもなかったのにこれだけ苦労くろうして来きたのだ。もう誰だれかに代かわって貰もらってもいいだろう、ことによると自分じぶんの手てを離はなれるほうが、却かえってこの子この仕合しあわせになるかもしれない。

「そうよ幸さいわい坊ぼう、どんなお金持かねもちのひとに拾ひろって貰もらえるかもしれないんだもの、そうでなくってもああちゃんのような貧乏びんぼうな者ものに育そだてられるよりずっとましだわ、そうだわねえ幸こう坊ぼう」

夕餉ゆうげには卵たまごを買かって、精しらげた米こめで、心こころをこめて雑炊ぞうすいを拵こしらえた。それから戸納とだなをあけて大おおきい包つつみを取出とりだした。洪水こうずいの夜よる、逃にげるときにお常つねから預あずかったものである、勘かん十じゅう夫妻ふさいの身寄みよりの者ものでも来きたら渡わたそうと、手てもつけずに納しまっておいたのであるが、今日きょうになるまでそんな人ひともあらわれず、いま幸太郎こうたろうに付つけてやる物ものがなにも無ないので、ふと思おもいついて出だしてみた。――それはお常つねの物ものであった、さほど高価こうかな品しなではないが、まだ新あたらしい鼠ねずみ小紋こもんの小袖こそでや、太織ふとおり縞しまの袷あわせや、厚板あついたの緞子どんすの帯おびや、若わかいころ着きたらしい華はなやかな色いろの長襦袢ながじゅばんなどが、手入ていれよく十じゅう二に三さん品ひんあった。おせんは太織ふとおり縞しまの袷あわせ二に枚まいと長襦袢ながじゅばんを二に枚まいわけ、手拭てぬぐいを三さん筋すじと、洗あらった子供こどもの物ものと、玩具がんぐや飴あめなどをひと包つつみにし、でかけるしたくが終おわってから、子供こどもと二人ふたりで食卓しょくたくについた。

「さあたまたまのうまよ、おいちいのよ、幸こう坊ぼう、たくちゃん喰たべてね」

「たまたまね、はは」子供こどもは木きの匙さじでお膳ぜんの上うえを叩たたき、えくぼをよらせてうれしそうに声こえをあげた、「――こうぼ、うまうまよ、ああちゃんいい子こね、たまたま、めっ」

「あら、たまたまいい子こでちょ、幸こう坊ぼうにおいちいおいちいするんですもの、ああちゃん悪わるい子こ、ああちゃん、めっ」

「ああちゃんいい子こよ、ばぶ」子供こどもはこわい顔かおをする、おせんはいつもいい子こでないといけない、おせんが自分じぶんを叱しかってみせたりすると子供こどもは必かならず怒おこる、「――ああちゃん、わるい子こ、ないよ、いやあよ、ああちゃんいい子こよ」

「ああいい子こでちゅいい子こでちゅ、ああちゃんいい子こね、はい召上めしあがれ」

「といで、ね、こうぼといでよ」

木き匙さじは持もたせるがまだ独ひとりでは無理むりだ。しかし誕生たんじょうからみ月つきにはなるらしいし、ぜんたいにませた生うまれつきとみえて、お膳ぜんのまわりを粥かゆだらけにしても独ひとりで喰たべないと承知しょうちしない。今夜こんやはやしなってやりたかったが、どうしてもきかないので好すきにさせた。自分じぶんも冷つめたい残のこりの粥かゆに、幸太郎こうたろうの卵たまご雑炊ぞうすいを少すこしかけ、別わかれの膳ぜんという気持きもちで箸はしを取とった。

家いえを出でたのは七なな時じごろであろう。着きぶくれて眠ねむったのを背負せおい、包つつみを抱かかえて、暗くらい露ろ次つぎづたいに表通おもてどおりへ出でると、知しった人ひとにみつからないように、気きをくばりながら浅草あさくさ寺てらのほうへ歩あるいていった。風かぜもないし、その季節きせつにしては暖あたたかい夜よるだった。そのためか往来おうらいの人ひともかなりあるし、腰高こしだか障子しょうじの明あかるい奈良なら茶ちゃの店みせなどでは、酔よいって唄うたうにぎやかな声こえも聞きこえた。――もうなんにも思おもうのはよそう、ただこの子この仕合しあわせだけを祈いのっていよう。自分じぶんの心こころのこえから耳みみを塞ふさぐような気持きもちで、繰くり返かえしそう呟つぶやいた。胸むねが痛いたみ、動悸どうきが高たかく激はげしくなる、だがおせんは唇くちびるを噛かみしめ、俯向うつむいて、ときおり頭あたまをつよく横よこに振ふったりしながら、追おわれる者もののようにひたすらに歩あるいていった。

浅草あさくさ寺てらの境内けいだいへはいったが、さてどことなるとなかなか場所ばしょがなかった。奥山おくやまには蓆掛むしろがけの見世物みせもの小屋こやがもちろんもうしまったあとでひっそりと並ならんでいる。小屋こやの中なかなら暖あたたかいが、そんな稼業かぎょうの者ものの手てには渡わたしたくない。本堂ほんどうから淡島あわしまさまのほうをまわってみた、けれども此処ここならという処ところがどうしてもみつからないのである。

「あたし気きが弱よわくなったんだわ、ここまできて捨すてられなくなったんだわ」おせんはふと立停たちどまってから呟つぶやいた、「――子こを捨すてるのにいい場所ばしょなんてある筈はずがないじゃないの、もう思おもい切きらなければ」

そこは鐘楼しゅろうのある小高こだかい丘おかの下しただった。すぐ向むこうに池いけがあり、鯉こいや亀かめが放ほうってあるので、おせんは小ちいさいじぶんよく遊あそびに来きたものだ。此処ここにしようと決心けっしんして、紐ひもを解とき、背中せなかから子供こどもを抱だきおろした。――子供こどもは眠ねむったまま両手りょうてでぎゅっとしがみつき、仔猫こねこのするように顔かおをすりつけた。

「おおよちよち、ねんねよ、おとなにねんねよ幸さいわい坊ぼう」

おせんは抱だきしめて頬ほおずりをしながら、しずかにねんねこで子供こどもをくるんだ、

「――堪忍かんにんしてね、ああちゃんの一生いっしょうのためだからね、いいひとに拾ひろわれて仕合しあわせになるのよ、ああちゃんを仕合しあわせにして呉くれるんだから、きっと幸こう坊ぼうも仕合しあわせになってよ、……ああちゃんそればっかり祈いのっているわね」

しがみついている手てをようやく放はなし、そこへ置おいた包つつみを直なおして、自分じぶんも横よこになりながらそっと寝ねかせた。どこか遠とおくで酔よった唄うたごえがしていた。三味しゃみ線せんの音おともかすかに聞きこえる。おせんは静しずかに身みを起おこした、足あしがわなわなと震ふるえだし、喉のどがひりつくように渇かわいた。

――さあ早はやく、いまのうちに。

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