おせんは一日うろうろして暮した。――幸太郎を抱きづめにしてなんども出ては、ちぎり飴や、芒で拵えたみみずくや、小さな犬張子などを買ってやった。
――庄さんの云うのも尤もだわ。
彼女はこう思った。何百里という遠い土地にいて、権二郎の云ったような告げ口を聞けば、愛している者ほど疑いのわくのは自然である。まして現にその子供を育てている姿を見たのだ、あきらかに否定する証拠がない限り、事実だと思うのはやむを得ないかもしれない。――庄吉はこのままこっちにいてもいいと云った、自分が証拠をみせれば二人はいっしょになれる、この家でいっしょに暮すことができるのだ。
「ああちゃんを堪忍してね」おせんは子供を抱きしめる、「――あんたがいるとああちゃんの一生が不幸になってしまうのよ、待ちに待っていたひとが帰って来たの、ああちゃんの大事な大事なひとなの、あのひとなしにはああちゃんは生きてゆけないのよ、ねえ幸坊、わかってお呉れ、堪忍してお呉れね」
あの火の中から抱きとり、腰まで水に浸りながら、身を蓋にして危うくいのちを助けた。自分で自分のことがわからず、他人の世話になりながら、満足におむつを変えることさえ知らなかったのに、ともかく今日まで丈夫に育てて来た。云ってみれば、ほんの偶然のめぐりあわせであった。なんの義理も因縁もなかったのにこれだけ苦労して来たのだ。もう誰かに代って貰ってもいいだろう、ことによると自分の手を離れるほうが、却ってこの子の仕合せになるかもしれない。
「そうよ幸坊、どんなお金持のひとに拾って貰えるかもしれないんだもの、そうでなくってもああちゃんのような貧乏な者に育てられるよりずっとましだわ、そうだわねえ幸坊」
夕餉には卵を買って、精げた米で、心をこめて雑炊を拵えた。それから戸納をあけて大きい包を取出した。洪水の夜、逃げるときにお常から預かったものである、勘十夫妻の身寄りの者でも来たら渡そうと、手もつけずに納っておいたのであるが、今日になるまでそんな人もあらわれず、いま幸太郎に付けてやる物がなにも無いので、ふと思いついて出してみた。――それはお常の物であった、さほど高価な品ではないが、まだ新しい鼠小紋の小袖や、太織縞の袷や、厚板の緞子の帯や、若いころ着たらしい華やかな色の長襦袢などが、手入れよく十二三品あった。おせんは太織縞の袷二枚と長襦袢を二枚わけ、手拭を三筋と、洗った子供の物と、玩具や飴などをひと包にし、でかけるしたくが終ってから、子供と二人で食卓についた。
「さあたまたまのうまよ、おいちいのよ、幸坊、たくちゃん喰べてね」
「たまたまね、はは」子供は木の匙でお膳の上を叩き、えくぼをよらせてうれしそうに声をあげた、「――こうぼ、うまうまよ、ああちゃんいい子ね、たまたま、めっ」
「あら、たまたまいい子でちょ、幸坊においちいおいちいするんですもの、ああちゃん悪い子、ああちゃん、めっ」
「ああちゃんいい子よ、ばぶ」子供はこわい顔をする、おせんはいつもいい子でないといけない、おせんが自分を叱ってみせたりすると子供は必ず怒る、「――ああちゃん、わるい子、ないよ、いやあよ、ああちゃんいい子よ」
「ああいい子でちゅいい子でちゅ、ああちゃんいい子ね、はい召上れ」
「といで、ね、こうぼといでよ」
木匙は持たせるがまだ独りでは無理だ。しかし誕生からみ月にはなるらしいし、ぜんたいにませた生れつきとみえて、お膳のまわりを粥だらけにしても独りで喰べないと承知しない。今夜はやしなってやりたかったが、どうしてもきかないので好きにさせた。自分も冷たい残りの粥に、幸太郎の卵雑炊を少しかけ、別れの膳という気持で箸を取った。
家を出たのは七時ごろであろう。着ぶくれて眠ったのを背負い、包を抱えて、暗い露次づたいに表通りへ出ると、知った人にみつからないように、気をくばりながら浅草寺のほうへ歩いていった。風もないし、その季節にしては暖かい夜だった。そのためか往来の人もかなりあるし、腰高障子の明るい奈良茶の店などでは、酔って唄うにぎやかな声も聞えた。――もうなんにも思うのはよそう、ただこの子の仕合せだけを祈っていよう。自分の心のこえから耳を塞ぐような気持で、繰り返しそう呟いた。胸が痛み、動悸が高く激しくなる、だがおせんは唇を噛みしめ、俯向いて、ときおり頭をつよく横に振ったりしながら、追われる者のようにひたすらに歩いていった。
浅草寺の境内へはいったが、さてどことなるとなかなか場所がなかった。奥山には蓆掛けの見世物小屋がもちろんもうしまったあとでひっそりと並んでいる。小屋の中なら暖かいが、そんな稼業の者の手には渡したくない。本堂から淡島さまのほうをまわってみた、けれども此処ならという処がどうしてもみつからないのである。
「あたし気が弱くなったんだわ、ここまできて捨てられなくなったんだわ」おせんはふと立停ってから呟いた、「――子を捨てるのにいい場所なんてある筈がないじゃないの、もう思い切らなければ」
そこは鐘楼のある小高い丘の下だった。すぐ向うに池があり、鯉や亀が放ってあるので、おせんは小さいじぶんよく遊びに来たものだ。此処にしようと決心して、紐を解き、背中から子供を抱きおろした。――子供は眠ったまま両手でぎゅっとしがみつき、仔猫のするように顔をすりつけた。
「おおよちよち、ねんねよ、おとなにねんねよ幸坊」
おせんは抱きしめて頬ずりをしながら、しずかにねんねこで子供をくるんだ、
「――堪忍してね、ああちゃんの一生のためだからね、いいひとに拾われて仕合せになるのよ、ああちゃんを仕合せにして呉れるんだから、きっと幸坊も仕合せになってよ、……ああちゃんそればっかり祈っているわね」
しがみついている手をようやく放し、そこへ置いた包を直して、自分も横になりながらそっと寝かせた。どこか遠くで酔った唄ごえがしていた。三味線の音もかすかに聞える。おせんは静かに身を起こした、足がわなわなと震えだし、喉がひりつくように渇いた。
――さあ早く、いまのうちに。