← Library‹ 柳橋物語 後篇 一

十じゅう二に月がつにはいると間まもなく幸太郎こうたろうが麻疹はしかにかかった。その十とお日かほどまえから鳥越とりごえのほうに、疱瘡ほうそうがはやると聞きいたので、御蔵前おくらまえにある佐野正さのしょうの店みせへ仕事しごとのために往いき来きするおせんはそのほうを心配しんぱいしていたし、病やみだした初はじめのうちもてっきり疱瘡ほうそうだろうと思おもったのであるが、五いつ日かめになって医者いしゃが発疹はっしんのもようをみたうえたぶん麻疹ましんだろうと云いい、そのとおりの経過けいかをとりだしたのでいちおう安心あんしんした。じつはその少すこしまえ、幸太郎こうたろうが乳ちちを貰もらっていた友助ともすけの家いえで、その子この和助わすけというのが麻疹ましんにかかっていた。乳ちちが同おなじであるし、生うまれ月づきも近ちかいしおまけに看病かんびょうのしやすい年ねん恰好かっこだから、本当ほんとうならうつして貰もらってもさせるところなのだが、和助わすけのは性しょうが悪わるいらしいということで、向むこうから近ちかづかないようにと注意ちゅういされていたのである。――そんなことから麻疹ましんだとわかってひと安心あんしんしながら、もしやその性せいの悪わるいのがうつっていたのではないだろうかとも思おもい、発疹はっしんが終おわって熱ねつのひくまでは痩やせるほど気きをつからせてしまった。

幸太郎こうたろうは半月はんつきほどできれいに治なおったが、その前後ぜんごからおせんは友助ともすけ夫婦ふうふのようすの変かわったことに気きづいた。和助わすけという子こは生うまれつき弱よわいところもあったとみえて、幸太郎こうたろうがよくなってからも唇くちびるのまわりや頭あたまなどに腫物はれもののようなものが残のこり、それがなかなか乾かわかないで困こまると云いっていたがそんなことを口実こうじつのように、夫婦ふうふともおせんから遠退とおのこうとする風かぜがだんだんはっきりしだした。かれらとは水みずで亡なくなった勘かん十じゅう夫婦ふうふのひきあわせで、知しりあい、幸太郎こうたろうのための乳ちちから始はじまってずいぶん世話せわになってきた。友助ともすけというひとは材木ざいもく問屋とんやの帳場ちょうばを預あずかるくらいで、くちかずの少すくない律義りちぎな性分しょうぶんだし、女房にょうぼうのおたかもお人ひと好よしと云いわれるくらい、善良ぜんりょうでおとなしかった。出水でみずのあと、おせんのためにその住居じゅうきょを直なおして呉くれたり、仕事場しごとばから出でる木屑きくずを夜よるのうちにそっと取とっておいて呉くれたり、また幸太郎こうたろうの肌着はだぎにと自分じぶんの子この物ものをわけて呉くれたり、そのほかこまごました親切しんせつは忘わすれがたいものである。勘かん十じゅう夫婦ふうふに亡なくなられたいまのおせんには、殆ほとんど頼たのみの綱つなともいうべきひとたちであった。それがどうしたわけかこちらを避さけはじめた。道みちなどで会あえば口くちをききあうが、それも以前いぜんとは違ちがってよそよそしく、とりつくろった調子ちょうしが感かんじられた。――いったいなにがあったのだろう。なにか気きに触さわるようなことでもしたのだろうか。考かんがえてみたけれどもそれと思おもい当あたることはなかった。

もうかなりおし詰つまってからの或ある日ひ、おたかが珍めずらしく訪たずねて来きたので、しかけていた夕餉ゆうげのしたくをそのままに出でてゆくと、彼女かのじょはいっしょに伴つれて来きたらしい中年ちゅうねんの男おとこに振返ふりかえって、この家いえですよと云いった。男おとこは四十よんじゅう五ご六ろくになる小肥こぶとりの躯からだつきで、日ひにやけた髭ひげの濃こい顔かおにとげとげしい眼めをしていた。

「おせんちゃん、このひとは下総しもうさの古河こがからみえた方ほうでね、お常つねさんの実じつの兄あにさんに当あたるんですってよ」

「まあおばさんの、――それはまあ……」

おせんは寒さむいような気持きもちにおそわれた。これまでながいこと待まっていたのに誰だれもあらわれず、もうこのままおちつくのだと思おもっていたが、こうして亡なくなったひとの兄あにが来きたとなると、もしかすればこの家いえを出でてゆかなければならなくなるかもしれない、そんなことになったらどうしよう。なによりも先さきにそういう不安ふあんがわいてきたのであった。――ひきあわせが済すむと、おたかはすぐに帰かえっていった。男おとこはおせんに水みずを取とらせて足あしを洗あらい、ぬいだ草鞋わらじと足袋たびを外そとへ干ほしてから上うえへあがって莨入たばこいれをとり出だした。どうするつもりだろう、おせんは、ますます強つよくなる不安ふあんのなかで、ともかくも夕餉ゆうげの量りょうを殖ふやし、乾魚ほしざかなを買かいに走はしったりした。男おとこは、もともと無口むくちなのか、食事しょくじが済すむまで、殆ほとんど口くちをきかなかった。頬ほおの尖とがった髭ひげの濃こい顔かおには少すこしも表情ひょうじょうがなく、くぼんだ眼めだけが怖こわいように光ひかっている、その眼めでなんども部屋へやの中なかを見みまわしたり、幸太郎こうたろうの騒さわぐのを、うるさそうに睨にらんだりするばかりだった。そんな客きゃくが珍めずらしいのだろう、子供こどもはじいたんじいたんと云いって、まわらない舌したで頻しきりに話はなしかけたり笑わらってみせたりした。うっかりすると膝ひざへ這はいあがろうとするので、おせんは食事しょくじが終おわるとそうそう、厭いやがるのを負おぶってあと片付かたづけをした。……朝あさのしかけも済すんでしまったが男おとこはおちついて莨たばこを吸すっていた、百姓ひゃくしょうをする人ひとに特有とくゆうの少すこしこごみかげんな逞たくましい肩かたつきや、辛抱しんぼうづよくなにごとかを待まっているという風ふうな姿勢しせいをみると、どうにもそこへいって坐すわる気きになれず、おせんはまるで身みの置おき場ばに窮きゅうした者もののように、狭せまい台所だいどころでいっとき息いきをひそめるのであった。

「用ようが済すんだらこっちに来きなさらないか」物音ものおとが止やんだのに気きがついたとみえ、男おとこが向むこうから呼よびかけた、「――それからだいぶ冷ひえるが、火ひが有あったら貰もらえまいかね」

「済すみません、火ひをおとしてしまいまして、あのう」おせんは赤あかくなった、「小ちいさいのがいて危あぶないもんですから、家いえの中なかへは火ひを置おかないようにしていますので、つい」

男おとこはまた黙だまって部屋へやの中なかを見みまわした。おせんは消けした焚たきおとしで火ひを作つくろうかと思おもったが、それだけあれば朝あさの煮炊にたきが出来できるので、そのままそっと部屋へやの中なかへはいってゆき戸納とだなからあの風呂敷ふろしき包つつみをそこへ取とり出だした。

「これは水みずの晩ばんにあたしがお常つねさんのおばさんから預あずかったものですの」

「あらましのことは友助ともすけさんに聞きいたがね」

男おとこは包つつみをちょっと見みたばかりでこう云いった。

「――わしも心配しんぱいはしていたが、まさか死しんでいようとは思おもわなかった、死躰したいもわからずじまいだったというが……まだわしには本当ほんとうとは思おもえない」

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