← Library‹ 柳橋物語 後篇 二

友助ともすけの家いえへ礼れいにゆくにはもう一ひとつの意味いみがあった。それは庄吉しょうきちのようすがわかるだろうということである。あの朝あさの悲かなしい別わかれからこっち、おせんはいちども庄吉しょうきちに会あっていなかった。あのときの口くちぶりでは、江戸えどにいるかもしれないし大阪おおさかへ戻もどるかもしれない、どっちともきめていないという風ふうだったが、その当座とうざは梶かじ平たいらにいて仕事場しごとばを手伝てつだっているということを、それとなくおたかから聞きいたことがあった。――もちろん大阪おおさかへなどゆきはしない、きっとこの土地とちにいるに違ちがいない。おせんはこう確信かくしんした。庄吉しょうきちがおせんを疑うたがっている気持きもちはよくわかる、そして自分じぶんにはその疑うたがいを解とく証拠しょうこがない。大阪おおさかという遠とおいところにいて、飛脚ひきゃく屋やの権けん二郎じろうからたびたび忌いまわしい話はなしを聞きき、帰かえって来きて現げんにおせんが子こを抱いだいているのを見みたのだ。ここにもし多少たしょうの証拠しょうこがあって、このとおりであると並ならべてみせることが出来できたとしても、それで庄吉しょうきちの疑うたがいがきれいに解とけはしないだろう。

――本当ほんとうのことはいつかはわかる筈はずよ、あたし待まっていてよ、庄しょうさん。

あのときおせんはこう云いった。深ふかく考かんがえて云いったのでない、しぜんに口くちを衝ついて出でた叫さけびであった。そしてそれがいちばん慥たしかであり、必かならずそのときが来くるに違ちがいないと思おもった。愛情あいじょうには疑うたがいが付つきものである、同時どうじにいちどそのときが来くれば了解りょうかいも早はやい、じたばたしないで待まっていよう。こういう風ふうに思案しあんをきめていたのであった。

松造しょうぞうの帰かえった翌日よくじつ、おせんは彼かれの置おいていった銭ぜにに幾いくらか足たして大おおきな犬いぬ張子はりこを買かい、それを持もって友助ともすけの家いえへ礼れいにいった。橋はしからはいって長屋ながやのほうへゆくと、新あたらしい木きの香こうが噎むせっぽく匂におってきた。おせんは切せつないような気持きもちで脇わきへ向むいた、庄吉しょうきちと悲かなしい問答もんどうをしたときのことが、その匂においからまざまざと思おもいうかんだのである。――表ひょうで洗濯せんたくをしていたおたかは吃驚びっくりしたような眼めでこちらを見み、濡ぬれた手てをそのまま悠ゆっくり立上たちあがった。おせんは家いえを出でなければならないかと思おもったところ、今いままでどおり住すんでいられるようになったこと、それはお二人ふたりのお口添くちぞえのおかげで、こんな有難ありがたいことはないと心こころをこめて礼れいを述のべた。

「いいえそんなことはありませんよ、うちじゃなんにも云いやしませんよ、お礼れいを云いわれるようなことはしやしませんよ」

おたかは人ひとの好よい性質せいしつをむきだしに、けれども明あきらかに隔へだてをおいた口調くちょうでそう繰くり返かえした。おせんはまた、久ひさしくみないから幸太郎こうたろうに和わあちゃんと会あわせてやりたいが、和あちゃんはどうしているかと訊きき、そして、つまらない物ものだが途中とちゅうでみつけたからと云いって、買かって来きた犬いぬ張子はりこを差出さしだした。

「そんなことしないで下くださいよ、そんなことして貰もらうとうちに怒おこられますからね、本当ほんとうに困こまりますよ」こう云いって途方とほうにくれるような顔かおをし、それでも手てには取とったが、おたかの顔かおはやはり硬かたいままだった、「――せっかく幸こう坊ぼうが来きたのに気きの毒どくだけどねえ、あの子こはいましがた寝ねかしたばかりなんで」

「ええいいのよおばさん、そんならまた来きますから」

おせんはこう云いってから、まわりに人ひとのいないのをみさだめ、おたかのほうへそっと身みを近寄ちかよせて云いった。

「おばさん、こんなこと訊きいて悪わるいかもしれないけれど、あたしなにかおばさんたちの気きに障さわるようなことしたんでしょうか、――もしなにかそんなことがあるんなら云いって下くださらない、あたしこんな馬鹿ばかだから、気きがつかずに義理ぎりの悪わるいことをしたかもしれないし、もしそうならお詫わびをしますから」

「そんなことありませんよ、そんな」おたかは狼狽ろうばいしたように眼めをそむけた、「――不ふ義理ぎりだなんて、あたしたち別べつになにも気きに障さわってなんぞいやしませんよ」

おせんは相手あいての眼めを追おうようにして見みまもった。慥たしかになにかあると思おもったから、そしてぜひともそれは訊ききださなければならないと思おもったから。――おせんは云いった、自分じぶんがどんなに二人ふたりの世話せわになって来きたか、それをどんなに感謝かんしゃしているか、勘かん十じゅう夫婦ふうふの亡なくなったあと、小ちいさな者ものを抱かかえて生いきてゆくのに、どれくらい二人ふたりを頼たのみにしているか、親おやともきょうだいとも思おもってるのに、さき頃ごろから二人ふたりが自分じぶんを避さけるようになった、これは自分じぶんにとってなにより悲かなしく寂さびしい、自分じぶんになにかいけないところがあったのだろうが、それがわかりさえすればどんなにでも直なおそう、どうか本当ほんとうのことを云いって貰もらいたいし、たのみ少すくない自分じぶんをつき放はなさないで貰もらいたい。これだけのことを心こころをこめて云いった。

――おたかは聞きいているうちに感動かんどうしたようすで、しかしその感動かんどうをうち消けそうと、気きの毒どくなほどうろうろするのがみえた。まちがいなく彼女かのじょは迷まよいだしていた。こうと思おもいきめていながらおせんの言葉ことばにつよくひきつけられ、気持きもちの崩くずれだすのを防ふせぎかねていた。

「いいわ、じゃ云いうわ、おせんちゃん」

やがておたかはこう云いった、そしてすばやくあたりを見みまわし、手招てまねきをして家いえの中なかへはいった。――六ろく帖じょうに三さん帖じょうの狭せまい住居じゅうきょで、どこもかしこもとりちらしたなかに、枕屏風まくらびょうぶを立たてて和助わすけが寝ねかされていた。おたかはその枕許まくらもとへそっと犬いぬ張子はりこを置おき、おせんと差向さしむかいに坐すわって火鉢ひばちの埋うずみ火びを掻かきおこした。

「あたしがよそよそしくしたのは、おせんちゃんがなにもあたしたちに不ふ義理ぎりをしたからってわけじゃないのよ」おたかはこう話はなしだした、「――正直しょうじきに云いうと庄吉しょうきちさんのためなの」

「庄しょうさんのためって、だって庄しょうさんが」

「いつだっけかしら、そう、あの人ひとがあんたと置場おきばで逢あって話はなしをしたわね、あれから十とお日かばかり経たってだわ、うちのひとが庄吉しょうきちさんを呼よんで此処ここでお酒さけをいっしょに飲のんだの、そのときあの人ひとはあんたのことを話はなしだしたのよ、杉田すぎた屋やにいたじぶんのことから大阪おおさかへゆくようになったわけ、そのときおせんちゃんと約束やくそくをしたことも云いったわ、固かたく固かたく約束やくそくしたんだって、――大阪おおさかへいってから、それこそ血ちの滲にじむような苦労くろうをしながら、その約束やくそくひとつを守まもり本尊ほんぞんにして稼かせいだって」

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