その年の暮に人別改め(戸籍調べ)があった。洪水から初めてのことで、おせんと幸太郎はそこの住人であり、その家の主であることをはっきり認められたわけである。世間の景気は悪くなるばかりで、相変らず親子心中とか夜逃げとか盗難などの厭な噂が絶えなかった。おせんが顔を知っている人のなかにも、田舎へ引込むとか、いつかしらいなくなっているような例が二三あった。だがそれが江戸というものなのだろう、一家で死んだり夜逃げをしたりするあとには、三日とおかず次の人がはいって、同じような貧しく忙しい暮しを始めるのであった。
貧しさには貧しさのとりえと云うべきか、日頃から掛け買いの出来ないおせんは、年を越す苦労もひとよりは少なく、白くはないが賃餅も一枚搗いて、かたちばかりに門口へ松と竹も立てた。――そこへ大晦日の夜になって、それも、かなりおそくおもんが訪ねて来た。白粉のところ剥げになった顔が、寒気立ち、埃まみれの髪を茫々にしたままで、老人の物を直したらしい縞目のわからない布子を着ていた。
「表を通りかかったもんだからね、どうしてるかと思ってさ、おお寒い」おもんは身ぶるいをしながらあがって来た、「――なんて冷えるんだろう、ちょっとあたらせてね」
「こっちへ来るといいわ、炭が買えないんで焚きおとしなの、暖たまりあしないから、――さあお当てなさいよ」
「坊やはおねんねだわね、こんど幾つ」
「四つになるのよ」
おもんは火桶の上へ半身をのしかけ、両手を低く火にかざしながら寝ている子供のほうを見やった。あのときからみると頬の肉がおち、眼の下に黝ずんだ暈ができている、脂気のぬけたかさかさした皮膚、白っぽく乾いている生気のない唇、骨立って尖ってみえる肩など、思わずそむきたくなるほど悄衰した姿であった。
「ほんの一つだけれど、お餅があるから焼きましょうか」
「ああたくさんたくさん」おもんは不必要なほど強く頭を振った、「――昨日からどこへいっても餅攻めで、それああたしお餅には眼がないほうだけど、でもこう餅ばかりじゃあいくらなんでも胸がやけるわ、あたしは本当にいいんだから心配しないでよ」
「うらやましいようなことを云うわね、でも一つくらいはつきあうもんよ」
おもんが嘘を云っていることは余りに明らかであった。おせんは一つでも惜しい餅ではあったけれど、見ていられない気持で三つ出し、網を火に架けたり小皿に醤油を注いだりした。ふっくらと焼けてくる香ばしい匂いが立つと、おもんは生唾をのみのみ活溌に話し始め、この頃は面白いように稼ぎのあること、世間の不景気なときは自分たちのほうがふしぎに客の多いこと、この調子なら間もなく、小さな家くらい持てそうなことなど、なにかが逃げるのを恐れでもするようにせかせかと語り続けた。そしておせんが焼けたのを小皿に取って出すと、話に気をとられているというようすですぐ口へもってゆき、三つともきれいに喰べてしまった。
「人間どうせ生きているうちのことじゃないの、あんたなんか縹緻がいいんだもの、こんな内職なんかであくせくしているのは勿体ないわ、苦労するのも一生、面白く楽しく、したいようにして生きるのも一生だわ、ねえ、あんただって好きでこんな暮しをしているわけじゃないでしょう、ぱっと陽気に笑って暮す気にならない、おせんちゃん」
むりに元気づけた調子でそんなことを云いだした。思いだしたように鋏を借りて指の爪を切り、これから浅草寺のおにやらいにゆくのだがなどと云って、なお暫くとりとめのない話をしたうえ、吹きはじめた夜風のなかへと出ていった。
「可哀そうなおもんちゃん」
火桶の火を埋めながら、おせんはそっとこう呟いた。片町へかかる道で会ったときは、ひと眼でそれとわかる姿のいやらしさに、ただ反感を唆られるばかりだった。あの火事のあと貧しい娘や女房たちまでが、そんなしょうばいをして稼ぐという評判は、よく聞いた。天王町の裏にひとところ、三軒町から田原町のあたりに幾ところとか、そういう人たちの寄り場があり、表向きは駄菓子を売ったり、花屋のようなていさいで客を取るのだという。聞くだけでも、耳が汚れるような思いだった。あんなに仲の良かったおもんが、そういう女のひとりになったと知ったときは、哀れむよりさきに厭らしさと怒りで震えるような気持だったが、今夜のようすではよほど困っているらしい、それこそ食う物にも不自由らしいことがわかり、そこまで身を堕としても運のない者にはいいことがないのかと、自分のことは忘れていたましく思うのであった。
――可哀そうなおもんちゃん。
元旦は朝から曇っていた。雑煮を祝ったあと、おせんは幸太郎を背負って、産土神の御蔵前八幡へおまいりをし、それから俗に「おにやらい」という修正会を見に浅草寺へまわった。その帰りのことであるが、人ごみの中で和助を負ったおたかに会い、道の脇へ寄って少し立ち話をした。年賀にゆきたいのだがああいうわけがあるので遠慮をする、お二人ともつつがなくお年越しでおめでとうございます、こう挨拶すると、おたかも挨拶をし返したうえ、もちまえの気の好さからだろう、昨夜から庄吉さんが梶平へ来ていますと云った。
「祝う身寄りもなくって寂しいから、こちらで正月をさせて呉れって来たんですって、だいぶいい稼ぎをしたらしいって話でしたよ」
「それじゃあ、あの人、――あれからどこかへいってたんですか」
「あら話さなかったかしら」こう云っておたかはちょっと気まずそうな眼をした、「――あれから間もなくお店を出たんだけど、梶平さんの旦那の世話で、阿部川町のなんとかいう頭梁の家へ住込みではいったそうよ」
「なんという頭梁かしら――」
「さあ、あたしは詳しいことはなんにも知らないからわからないけれども、でも頭梁っていえば一町内にそうたくさんいるわけでもなし、おせんちゃんがもし尋ねてゆくつもりなら」おたかはそう云いかけてふと空を見上げた、「――あらいやだ、雪よ、まあお元日に悪いものが降りだしたわね」