← Library‹ 柳橋物語 前篇 二

庄吉しょうきちはその明あくる日ひ、たのんだ研とぎ物ものを受取うけとりかたがた別わかれに来きた。源六げんろくには「三さん年ねんばかり上方かみがたで稼かせいで来くる」と云いっただけで精くわしい話はなしはしなかった。おせんには達者たっしゃでいるようにと云いい、おもいをこめた眼めでじっとみつめながら、まるで泣ないているような微笑びしょうをうかべた。そしてその日ひ午後ごご、品川しながわのほうにある親類しんるいの家いえから旅たびに立たつ筈はずで、茅町かやちょうの土地とちを去さっていった。

おせんは四よん五いつ日かぼんやりと、気きぬけのしたような気持きもちで日ひを送おくった。なにかしていてもふと庄吉しょうきちのことを考かんがえている。蒼あおざめた顔かおや、思おもいつめたきみの悪わるいような眼めや、おずおずした、けれど真実しんじつのこもった囁ささやき声ごえなどを、繰くり返かえし繰くり返かえし考かんがえ耽ふけっているような日ひが。……その次つぎには旅たびのかなたが気きになりだした。もうどのくらい行いったろう、箱根はこねはぶじに越こしたろうか、馴なれない土地とちは水みずにあたり易やすいという、病やみつくようなことはないかしらん、そして、よく人ひとの話はなしに聞きく道中どうちゅうの恐おそろしい出来事できごとや、思おもいがけない災難さいなんがあれこれと想像そうぞうされて、ぞっと寒さむくなるようなことも度たびたびだった。こういうことが半月はんつきほど続つづいたあと、少すこしずつ気持きもちがおちついてくるとおせんは庄吉しょうきちと幸太こうたとのかかわり、かれらと自分じぶんとの繋つながりを思おもい返かえした。

茅町かやまち二に丁目ちょうめの中通なかどおりに杉田屋巳之吉すぎたやみのきちという頭あたま梁が住すんでいる、家いえにいる職人しょくにんだけでも十じゅう人にんほどあり、多おおく武家ぶけ屋敷やしきへ出入でいりをする名なの売うれた大工だいくだった。おせんの家いえは元もとその隣となりで髪結かみゆい床ゆかをやっていた。父ちちの茂七もしちは彼女かのじょが十じゅう二にのとき死しんだが、口くちの重おもい、癇かんの強つよい性質せいしつで、あいそというものがまったく無ないため、よく知しっている者もののほかは余あまり客きゃくも来こなかった。また母ははは病身びょうしんで月つきのうち十とお日かは寝ねたり起おきたりのありさまだったから、家いえの中なかはいつも、鬱陶うっとうしく沈しずんだ空気くうきに包つつまれ、いつもどこかに溜息ためいきが聞きこえるという風ふうだった。……おせんはごく幼おさない頃ころから、一いち日にちじゅう杉田すぎた屋やの家いえで遊あそび暮くらすことが多おおかった。巳之吉みのきちも妻つまのお蝶ちょうも子供こどもが好すきなのに、一いち粒つぶだねの女児じょじが生うまれて半年はんとしめに死しんでしまい、そのあとずっと子こが無なかったので、おせんがまだ乳ちちばなれもしないうちから、よく来きては「なんだか膝ひざさびしくって」などと云いっては抱いだいてゆきゆきした。おせんのほうでもお蝶ちょうによく馴なついて、自分じぶんの家いえは狭せまくるしく陰気いんきで、子供こどもごころにもなにやら息いき詰なじるような感かんじだったが、杉田すぎた屋やは座敷ざしきも広ひろく人ひとも大勢おおぜいいて賑にぎやかだし、そこにはいつも玩具がんぐや菓子かしが待まっていた。着物きものや帯おびもずいぶん買かって貰もらった、春秋はるあきには白粉おしろいを付つけ髪かみを結ゆい、美うつくしく着飾きかざって、そのころ杉田すぎた屋やにながくいた定五郎さだごろうという老人ろうじんの背せに負おわれて、巳之吉みのきち夫妻ふさいといっしょに花はなを見みにゆき、秋草あきくさを見みにいった。王子権現おうじごんげんの滝たきも、谷中やなかの螢沢ほたるさわも、本所ほんじょの牡丹ぼたん屋敷やしきも、みなそうして知しったのである。

――おせんちゃん、小母おばさんの子こにおなりでないか、そのじぶんお蝶ちょうはよく頬ほおずりしながらそう云いった。するとおせんは生きまじめな顔かおになり、いかにも困こまったというように首くびをかしげながら、あたしおっかさんの子こでなければおばさんの子こになるんだけれど、きまってそういう返辞へんじをしたそうで、そんな幼おさなさに似にあわない、情じょうの籠こもったようすだったと、後あとになってからよく聞きかされた。

おせんの九ここのつの年としに母ははが亡なくなった。そして間まもなくお祖父そふさんが来きていっしょに住すむようになった、源六げんろくは父ちちにとって実じつの親おやだったが、気性きしょうが合あわないため別居べっきょし、神田かんだのほうで研屋とぎやをしながらずっと独ひとりで暮くらしていた。それが茂七もしちが妻つまに死しなれ、おせんを抱かかえて惘然もうぜんとしているのをみて、自分じぶんからすすんでいっしょになったのである。それまでにも菓子かしや花簪はなかんざしなどを持もっては折おりおり訪たずねて来きたので、おせんはよく知しってもいたし母ははの亡なくなったあとの淋さびしいときだったから、すぐ源六げんろくに馴なついて、夜よるなども抱いだかって寝ねるようになった。……幸太こうたと庄吉しょうきちとはその前後ぜんごから知しり合あったのだ、幸太こうたは巳之吉みのきちの遠とおい親類しんるいすじに当あたり、十じゅう三さんの春はるから、杉田すぎた屋やへ徒弟とていにはいった。口くちのきき方かたもすることも乱暴らんぼうな、ひどくはしっこい少年しょうねんで、来くる早々そうそうから職人しょくにんたちと達者たっしゃに口くち喧嘩けんかなどするという風ふうだった。庄吉しょうきちは幸太こうたより半年はんとしほどあとから来きた、不仕合ふしあわせな身みの上うえで、両親りょうしんもきょうだいもなく、品川しながわで漁師りょうしをしている遠縁とおえんの者ものが親元おやもとになっていた。彼かれは幸太こうたとは反対はんたいにごくおとなしい性分しょうぶんで、おない年どしとはみえないほど背丈せたけも低ひくく、ひよわそうな女おんなの子このような感かんじだった。母ははが亡なくなってからはおせんはあまり杉田すぎた屋やへゆかなくなった。お祖父そふさんが止とめるし、父ちちも好このまないようすだったから、ずっとあとになってわかったことだが、杉田すぎた屋やから養女ようじょに貰もらいたいという話はなしがあり、父ちちとの間あいだが気きまずくなったのだという、……けれども杉田すぎた屋やのほうでは別べつに変かわったようすもなく、お蝶ちょうが自分じぶんでなにか持もって来きて呉くれたり、幸太こうたや庄吉しょうきちを使つかいによこして食事しょくじに呼よんだり、芝居しばい見物けんぶつにつれだしたりした。

茂七もしちが死しぬとすぐ、源六げんろくはおもて通とおりの店みせをたたんで、中通なかどおりの今いまの住居じゅうきょへ移うつった。もうおせんも十じゅう二にになっていたし家いえも離はなれたので、巳之吉みのきちやお蝶ちょうとはしだいに疎うとくなったが、職人しょくにんたちは道具どうぐを研といで貰もらうためにしげしげやって来きた。「いちにんまえの大工だいくが自分じぶんの道具どうぐをひとに研とがせて申もうしわけがあるのかい」源六げんろくはいつもそう叱しかりはしたが、そのあとでは彼かれらによく職人しょくにん気質かたぎというものを話はなして聞きかせた、砥石といしに向むかって仕事しごとをしながら訥々とつとつとした調子ちょうしで古ふるい職人しょくにんたちの逸話いつわを語かたるとき、老人ろうじんはいかにも楽たのしそうだし聴きく者ものにとってもおもしろかった。世間せけんは表裏ひょうりさだめ難がたく人生じんせいの転変てんぺんは暫しばらくもうつりやまない。生活せいかつはいつも酷薄こくはくできびしく些いささかの仮藉かしゃくもない、そのあいだにあっていかに彼かれらが仕事しごとに対たいする情熱じょうねつの純粋じゅんすいさを保たもったか、いかに自分じぶんの良心りょうしんの誤あやまりなさを信しんじたか、老人ろうじんのしずかに語かたるそういう数かずかずの例れいは、聴きく者ものにとってただおもしろいだけではなく、そういう人ひとたちのように生いきようということ、どんな苦くるしいことにも負まけずに本当ほんとうの仕事しごとをしようという気持きもちをよび起おこされるのだった。……幸太こうたも庄吉しょうきちもしばしば来きた、幸太こうたは相あい変かわらず口くちが悪わるくすることも手荒てあらかったが、仕事しごとの腕うではもういちにんまえだと云いわれていた。

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