← Library‹ 柳橋物語 後篇 四

元来がんらいがそう親したしい人ひとたちでもなく、こちらは満足まんぞくに茶ちゃも出だせないような生活せいかつで、来こられれば却かえって時間じかんつぶしなくらいである。しかしそう揃そろってみんなにすげなくされることは、寂さびしくもあり、ますます孤独こどくになるようで心細こころぼそくもあったので、折おりさえあればおせんのほうからあいそよく話はなしかけるように努つとめていた。すると一いち月がつなかば過すぎのことだったが、柳河やながわ岸がんの新あたらしい地蔵じぞう堂どうの初はつ縁日えんにちでおせんも子供こどもを伴つれて参詣さんけいにいったところ、そこで、まったく思おもいがけないことを聞きいたのであった。――列れつをなしている人々ひとびとといっしょに、火ひのついた線香せんこうを買かって並ならんでいると、後うしろでげらげらと笑わらいながら、大おおきな声こえでこう云いうのが聞きこえた。

「そうともさ、義理ぎりだの人情にんじょうだのといったのは昔むかしのことで、今いまじゃてんでん勝かちが大手おおてを振ふって歩あるくのさ、すえ始終しじゅうの約束やくそくをしておきながら、相手あいてが一いち年ねんもいなければもうほかの男おとことくっつき合あってしまう、それも十じゅう六ろくや七ななの本当ほんとうならおぼっこい年としをしてえてさ」

その声こえには覚おぼえがあった。振返ふりかえって慥たしかめるまでもない、よく話はなしに寄よった女房にょうぼうのひとりで、亭主ていしゅが舟ふね八百屋やおやをしているお勘かんという女おんなだ。おせんはかっと頭あたまが熱あつくなった、自分じぶんに当あてつけているのである、此処ここに自分じぶんがいるのを見みて、わざわざ聞きこえるように云いっているのだ。そしてかれらが来こなくなった理由りゆうもそこにあったのである。――おそらく友助ともすけのほうから伝つたわったに違ちがいない、それも庄吉しょうきちに同情どうじょうするあまりのことだろう、ほかにわる気きがある道理どうりはない、わかる時ときが来くればわかるのだ。こう思おもって、おせんはじっと自分じぶんをなだめていた。しかしお勘かんのたか声こえはさらに続つづいた。

「ところが恥はじを知しらないくらい怖こわいことはない、赤あかん坊ぼうが生うまれたと思おもうと男おとこに死しなれちまった、たいていの者ものならいたたまれない筈はずだが、火事かじで町まちのようすが変かわり、知しった者ものがいなくなったのをいいことに、しゃあしゃあと元もとの土地とちにい据すわって約束やくそくの相手あいての帰かえるのを待まっていた、そして相手あいてが帰かえって来くるとこの子こは自分じぶんの子こじゃあないとさ、ちゃんとおまえを待まっていたってさ」

「云いえたもんじゃあないよねえ」こう合槌あいづちをうつのが聞きこえた、「――それも二十にじゅうにもならない若わかさでさ、よっぽど胆たんが太ふといかすれっからした女おんななんだね」

おせんは自分じぶんでも知しらずに、並ならんでいる人ひとの中なかからぬけてそっちへいった。頭あたまがくらくらし躯むくろが音おとを立たてるほど震ふるえた。どんな顔かおをしていたことだろう、彼女かのじょはお勘かんの前まえへいって叫さけんだ。

「いまのはあたしのことを云いったのね、おばさん、あたしのことだわね」

「さあどうだかね」お勘かんはちょっと気き押おされたように後うしろへ身みをひいた、「――あたしゃ人ひとから聞きいたんだからよく知しらないよ、おまえさんだかなんだか知しらないが、たとえ誰だれのことにしたってあんまり」

「なにがあんまりなの、どこがあんまりなの、はっきり云いってごらんなさいよ、誰だれが義理ぎり人情にんじょうを知しらないっていうの、誰だれが男おとことくっついたの、誰だれが、誰だれがよその男おとこの子こを生うんで自分じぶんの子こじゃないなんて云いったの、云いってよおばさん、それはどこの誰だれなの」

声こえいっぱいの叫さけびだった。参詣さんけいの人ひとたちはなにごとかと寄よって来くると、幸太郎こうたろうは怯おびえたように泣なきだしていた。けれどもおせんには人ひとの群ぐんもみえず幸太郎こうたろうの泣なきごえも聞きこえなかった、かたく拳こぶしを握にぎり眼めをつりあげて、お勘かんのほうへつめ寄よりつめ寄より叫さけびつづけた。

「云いえないの、云いえないならあたしが云いってあげるわ、今いまあんたの口くちから出でたことはみんな嘘うそよ、根ねも葉はもない嘘うそっぱちよ、あんたもあんたにそんな話はなしをした人ひとも本当ほんとうのことはこれっぽっちも知しっちゃいない、みんなでたらめよ」

「そんならなぜ」お勘かんも蒼あおくなった、「――それが本当ほんとうならなぜ独ひとりでいるんだい、どうしてその人ひとのところへ嫁よめにゆかないんだい」

「あたしは、あたしはそんなこと云いっちゃいないわ、そして、そんなことはおばさんの知しったことじゃないじゃないの」

「どういうわけでその人ひとはあんたを貰もらいに来こないの」お勘かんは平ひらべったい顔かおをつきだし、眼めをぎらぎらさせながら喚わめいた、「――その人ひとは帰かえって来きたんだろ、会あって話はなしもしたというじゃないか、それで嫁よめに貰もらわないってのはどういうわけさ、おまえさんのほうであいそづかしでもしたってのかい」

「あの人ひとのことはあの人ひとのことよ、あたしは自分じぶんのことを云いってるんだわ、あたしがちゃんと待まっていたことを、この子こはあたしの子こじゃ……」

おせんの舌したはとつぜんそこで停とまった。幸太郎こうたろうの悲鳴ひめいのような泣なきごえが耳みみに突とっ入はいり、縋すがりついている幼おさない手ての、けんめいな力ちからが彼女かのじょをよびさましたかのようだ。とりまいている群衆ぐんしゅうの眼めにきづいた、お勘かんはますます喚わめきたてる。自分じぶんはなにをしたのだろう。なんというばかな恥はずかしいことを、――おせんはがたがた震ふるえながら、幸太郎こうたろうを抱いだいて歩あるきだした。そこにいる限かぎりの人ひとがおせんを眺ながめ、嘲あざけりと卑いやしめの言葉ことばをその背せへ投なげた。

「そんな恥はじ知しらずないたずら女おんなは町内ちょうないにいて貰もらいたくないもんだ」お勘かんがなおもこうどなっていた、「――そんな者ものにいられたんじゃこっちの外聞がいぶんにもかかわるからね、さっさとどこかへ出でてってお呉くれよ」

幸太郎こうたろうは両手りょうてでおせんにしがみつき、全身ぜんしんを震ふるわせながら泣なきじゃくっていた。おせんはかたく頬ほおを押付おしつけ、背中せなかを撫なでながら河岸かしぞいに歩あるいていった。そうだ、なんというばかな恥はずかしいまねをしたことだろう、どうもがいたところでお勘かんを云いい伏ふせられるわけがないではないか、庄吉しょうきちでさえ疑うたがっているものを、他人たにんがそう信しんじるのは当然とうぜんのことではないか。――おまけにあんな大勢おおぜいの人々ひとびとのいる前まえで、この子こは自分じぶんの子こではないと叫さけびかけた。誰だれに信しんじて貰もらえもしないことを云いって、それが小ちいさな幸太郎こうたろうの耳みみに遺のこったとしたらどうするか。数かぞえ年どしでではあるがもう四よんつになる、殊ことにあんな異常いじょうなばあいの記憶きおくはながく消きえないものだ、自分じぶんが拾ひろわれた子こなどということを覚おぼえ、また人ひとからそう云いわれるとしたら。……おせんは幾いくたびもぞっと身みを震ふるわせ唇くちびるを噛かみしめた、そして幸太郎こうたろうを力ちからいっぱい抱だきしめ、燃もえるような愛あいと謝罪しゃざいの気持きもちで頬ほおずりをした。

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